婚約破棄の前夜
鏡の中の私は、今日も「完璧」だった。
腰のくびれをなぞるように絹のドレスが流れ、胸元には王家から贈られた青い宝石が星のように光っている。淡い青緑の瞳は、侍女たちが丁寧に整えた睫毛の影に縁どられ、銀がかった亜麻色の髪は、一房たりとも乱れがない。
「……さすがは、リヴィア様……」
「明日の婚約式で、きっと誰よりもお美しく見えますわ。王妃にふさわしいお姿でございます」
背後で針箱を抱えた侍女たちが、うっとりと囁く気配がする。
私は、鏡越しに彼女たちへと微笑みを返した。口角だけをそっと持ち上げる、練習し尽くした「公爵令嬢の笑み」。
その笑顔が正しい角度で保たれているかどうかを、私自身が鏡の中の自分を採点するような気分で確かめる。
「大げさよ。ここまで整えてくださったのは、皆のおかげだもの。私ひとりでは、とても」
そう言うと、侍女の一人が慌てて首を振った。
「いえ、とんでもございません! どれほど飾り立てようと、元が整っていなければ……」
「ええ、本当に。立っていらっしゃるだけで、絵画のようで……」
――ほめられているのは、「私」ではなくて。
喉元まで出かかった言葉を、そっと飲み込む。
ほめられているのは、私という一人の人間ではない。
ヴァルシュタイン公爵家の一人娘であり、明日、王太子殿下と婚約の誓いを交わす「役目」に就いた女。
このドレスも、宝石も、化粧も、その役目のための飾りに過ぎない。
それを口にしたところで、きっと彼女たちは困らせてしまうだけだ。
だから私は、笑う。求められた通りの、穏やかで上品な笑みを。
「動かないでいてくださいます? 裾の長さをもう一度……はい、こちら失礼いたしますね」
膝をついた侍女が、白い手袋越しにドレスの裾を測り直す。
少しでも長すぎれば転倒の危険があり、短すぎれば無作法だと言われる。
「王妃となるかもしれない女」の歩幅は、一歩一歩まで、すでに他人の目で決められているのだ。
ふと、窓の外に視線を向ける。
夜の帳が王都を包み、遠くに大聖堂の尖塔が影のようにそびえている。
明日の今頃、私はあの大聖堂の前で、殿下の隣に立っているのだろうか。
(本当に、この婚約は……私でなければならなかったのかしら)
胸の奥で浮かんでは沈む問いを、私は鏡の中の自分へ向けて、そっと投げかける。
王太子殿下は、いつも穏やかな方だ。
礼儀正しく、他人を傷つけるような言葉を決して口にされない。
私が幼い頃に初めて拝謁したとき、震える手を取って「よく来てくれたね」と微笑んでくださったことを、今でもはっきりと覚えている。
あのとき胸に灯った淡い憧れは、たぶん恋と呼べるものだったのだろう。
けれどその想いは、いつだって「政略」という厚い布で覆われている。
公爵家と王家。
王国を支える柱同士が、より強固な結びつきを得るための婚約。
私が選ばれたのは、私が私だからではなく、「ヴァルシュタイン家の一人娘」という札を首から下げているから。
「リヴィア様?」
裾を整えていた侍女が、そっと私の顔を覗き込んだ。
どうやら、また少し考え込むような表情をしてしまっていたらしい。
「ご気分が優れませんか? 明日が本番ですもの……お疲れが出ては」
「ええ、大丈夫よ。ただ……少し、実感がわかなくて」
そう答えると、侍女はほっとしたように笑った。
「明日になれば、いやでも実感させられますわ。王都中が噂しているんですもの。『ヴァルシュタイン公爵家の令嬢が、ついに王太子殿下と――』」
「こら」
年長の侍女が、慌ててその子の腕をつつく。
「おしゃべりが過ぎますよ。ここは王城の中なんですからね」
「す、すみません……でも、その……噂と言えば……」
噂。その言葉に、ほんの少しだけ空気が変わった。
私は首を傾げる。
「噂?」
「い、いえ、その……大したことでは……」
侍女の少女は視線を泳がせ、言うかどうか迷っている様子だ。
私はわずかに首を振り、柔らかく促した。
「大丈夫よ。ここには私たちしかいないわ。
もし不敬な内容なら、そのときはそっと忘れてあげるから」
小さく冗談めかして言うと、部屋の空気がほんの少しだけ和らいだ。
少女はおずおずと、言葉を紡ぐ。
「その……最近、王都で話題になっているそうなのです。平民出身の……『聖女候補』が現れたって」
「聖女候補?」
思わず、言葉を繰り返してしまった。
聖女――それは、教会が定める特別な称号。
神と精霊の加護を強く受け、祈りによって奇跡を引き起こすことができる存在。
王国の歴史書にその名が刻まれるのは、数十年に一度がせいぜいだ。
「ええ、その……噂では、まだ十代半ばの娘だとか。
祈りだけで兵士の傷を癒したとか、死にかけた子どもを救ったとか……
皆、半分は作り話だろうって笑ってますけど……」
少女はそこまで早口に話すと、はっとして口を押さえた。
「も、申し訳ございません! こんな話、リヴィア様の前でするべきでは――」
「いいえ」
私は首を横に振った。
胸の内側で、なにか冷たいものと熱いものが同時に揺れる。
平民出身の聖女候補。
もしそれが本当なら――その娘は、どれほどの重荷を急に背負わされるのだろう。
ただ傷ついた人を救いたいと願っただけかもしれない。
ただ泣いている子どもの手を取っただけかもしれない。
それが、いつの間にか「聖女」という名札になり、国と教会に持ち上げられていく。
(まるで、誰かさんみたいね)
自嘲が喉の奥で小さく笑う。
私でなければならない理由なんて、本当はどこにもないのに。
それでも、私が選ばれたのなら――と、自分に言い聞かせてきた。
その平民の娘もまた、同じように、選ばれる側の都合で生き方を変えさせられるのだろうか。
「……その子は、今どこにいるのかしら」
気がつけば、私はそう尋ねていた。
「え? そ、それが……はっきりとはわからないそうです。王都の教会に預けられているとか、地方の聖堂から呼び寄せられたとか……噂ばかりで」
「そう……」
知らない。
会ったこともない。
それでも、胸のどこかがきゅっと痛む。
婚約の席を奪われるかもしれない――そんな考えは、不思議と浮かばなかった。
もしそうなったとしても、それはきっと「国のため」であり、「王家のため」であり、「教会のため」なのだろう。
私個人の寂しさや悔しさなど、秤にかける価値もない。
それよりも。
(その子は、ちゃんと眠れているのかしら)
自分の意思とは無関係に祈りを求められ、知らない人々から敬われ、羨まれ、嫉妬される。
その重さに押しつぶされて、泣いてはいないだろうか。
「さっきの話だけれど」
私は侍女の少女へ視線を戻した。
「口が滑ることくらい、誰にでもあるわ。
だから、そんなに怯えないでいいの。
明日の支度で、皆、緊張しているものね」
少女は驚いたように目を丸くし、それから安堵に頬を緩めた。
「リヴィア様……ありがとうございます。わたくし、本当に……」
「ただ、廊下では気をつけてね。壁にも耳があると言うでしょう?」
軽く片目をつむって見せると、部屋の空気が一斉に緩むのが分かった。
――近寄りがたい、とよく言われる。
感情をあまり表に出さないから。
いつも微笑んでいて、怒ることも声を荒げることもほとんどないから。
でもそれは、生まれつきではなく、そう「教育されてきた結果」だ。
公爵令嬢は、感情をむき出しにしてはいけない。
王妃候補が、嫉妬や不安を露骨に顔に出すなど、あってはならない。
そう教えられてきた。
だから私は、心の中でだけ毒を吐く。
誰にも聞こえない場所でだけ、本音をこぼす。
扉が叩かれたのは、ちょうどそんなことを思っていたときだった。
「リヴィア。入ってもいいかな」
低く落ち着いた声。父だ。
「どうぞ、お父様」
侍女たちが一斉に姿勢を正し、扉が静かに開く。
入ってきたのは、黒髪に白いものが混じり始めた壮年の男――ヴァルシュタイン公爵、私の父。
「……見違えたよ」
父は、一歩ほど近づいて私を見つめ、ふっと目を細めた。
「もう、すっかり王妃殿下と呼ばれてもおかしくない。
いや……私には、まだ少し、娘のままに見えるがね」
「お世辞を。明日になれば、否応なく“王太子妃候補”の顔をしなければなりませんわ」
そう言いながら、私は椅子から立ち上がって軽く礼をする。
父は手を振ってそれを制した。
「無理に形どおりでなくていい。今くらいは、楽にしていなさい。
侍女たち、ご苦労だった。あとは私が」
「かしこまりました、公爵様」
侍女たちは一礼し、静かに部屋を辞していく。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
部屋には、私と父だけが残された。
「緊張しているか?」
父は窓辺まで歩き、夜の王都を一瞥してから、振り返って問いかけてきた。
「……していないと言えば嘘になりますわ」
私は正直に答えた。
「ただ、怖いほどではありません。
こうなることは、ずっと前から決まっていたことですもの」
「そうだな」
父は小さく笑い、近くの椅子に腰を下ろした。
威圧的な公爵ではなく、今はただの「父」の顔をしている。
「王太子殿下との婚約は、王家と我が家のための政略だ。
それを一番よく理解しているのは、他ならぬお前だろう」
「はい」
「それでも、私は――父として、お前に感謝している。
よく、この役目を引き受けてくれた」
胸が、きゅっと締めつけられた。
父の政治的計算は、よく知っている。
ヴァルシュタイン公爵家が王家との結びつきを強めることで、貴族院の発言力がどう変わるのか。
その裏で、教会との力関係がどう揺れるのか。
父の書斎で交わされる会話を、私は何度も耳にしてきた。
けれど、それでも、こうして「父として」と言ってくれることが、私はうれしい。
「お父様。……私が選ばれたのは、私が私だからではないのでしょう?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「私の名前が、ヴァルシュタイン公爵家の長女ではなく、どこかの小貴族の三女だったなら。
きっと、別の令嬢が選ばれていたのでしょうね」
父は少しだけ目を細め、それから、静かに首を縦に振った。
「そうだろうな」
その率直さが、ひどく父らしくて、私は苦笑した。
「でも、それはお前の価値を否定するものではない。
“役目として選ばれた”ことと、“お前がそれをどう務めるか”は別の話だ」
「……務める、ですか」
「お前は、昔からそうだった。
小さな頃から、自分が傷つくよりも先に、他人の痛みを気にする子だった。
だからこそ、私は安心している。
王太子殿下の隣に立つ者として、これ以上ふさわしい娘はいない」
胸の奥で、なにかが静かに揺れる。
それはきっと、嬉しさと、寂しさと、恐れと――ほんの少しの誇り。
「明日、式が終わったら、しばらくは忙しくなるだろう。
王城での立ち振る舞い、王妃教育、教会への顔見せ……」
「覚悟していますわ」
「疲れたら、いつでも帰ってきなさい。ここはお前の家だ。
王妃になろうと、ならなかろうと、それは変わらない」
そう言って、父は立ち上がり、私の頭にそっと手を置いた。
子どもの頃のように、髪を乱さない程度に、ほんの一瞬だけ。
私は目を閉じ、その手の温もりを受け止める。
「……ありがとうございます、お父様」
「リヴィア」
名前を呼ばれ、顔を上げると、父はどこか迷うような表情を浮かべていた。
「王都は、今、騒がしい。
平民出の“聖女候補”の噂もある。
教会も、貴族たちも、新しい“象徴”を欲しがっている」
「さきほど、侍女からその話を聞きましたわ」
「そうか。……あの娘が、どう扱われるかは、まだ誰にもわからない。
だが一つだけ、覚えておいてほしい」
父の声が、わずかに低くなる。
「お前も、その娘も。
人が作った“物語”の駒にされかねない、ということだ」
「……はい」
「それでも、お前が自分の足で立ち、自分の意思で選び続ける限り、
私は、お前を誇りに思う」
父はそれだけ言うと、いつもの公爵の顔へと戻った。
「そろそろ休みなさい。明日は長い一日になる」
「ええ。お休みなさいませ、お父様」
扉が閉まる。
足音が遠ざかり、本当に一人になった。
静寂が戻った部屋で、私はもう一度、鏡の前に立つ。
青い宝石が、蝋燭の揺らめきに合わせて瞬いた。
整えられた髪、完璧な化粧、隙のないドレス。
どこから見ても、教本に載せたいほど「王太子妃にふさわしい令嬢」の姿がそこにいる。
「……私でなければならない理由なんて、本当はどこにもないのに」
ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。
この国のため、王家のため、公爵家のため。
私の名前は、たぶん、そのための都合のいい札に過ぎない。
――それでも。
「それでも、私が選ばれたのなら」
私は、鏡の中の自分と視線を合わせた。
「せめて、この席を汚さない程度には、誇り高くありたいわ」
弱さがないわけではない。
不安も、恐れも、嫉妬だって、きっとどこかにある。
その全部を、なかったことにはできない。
だからこそ、私は知っている。
明日、誰かが私の笑顔を「完璧」と言うとき、それがどれほど脆いものかを。
けれど、それでも。
「明日は、笑いましょう。ちゃんと」
鏡の中の私が、静かに頷く。
公爵令嬢として。
王太子の婚約者として。
この国のための“都合のいい名前”として。
――そして、いつか。
そのすべてとは別に、「私自身」として笑える日が来るのだろうか。
そんな答えの出ない問いを胸の奥にしまい込み、私はそっと瞼を閉じた。
蝋燭の火が揺れ、長い夜が、静かに更けていく。




