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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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婚約破棄の前夜

 鏡の中の私は、今日も「完璧」だった。


 腰のくびれをなぞるように絹のドレスが流れ、胸元には王家から贈られた青い宝石が星のように光っている。淡い青緑の瞳は、侍女たちが丁寧に整えた睫毛の影に縁どられ、銀がかった亜麻色の髪は、一房たりとも乱れがない。


「……さすがは、リヴィア様……」

「明日の婚約式で、きっと誰よりもお美しく見えますわ。王妃にふさわしいお姿でございます」


 背後で針箱を抱えた侍女たちが、うっとりと囁く気配がする。


 私は、鏡越しに彼女たちへと微笑みを返した。口角だけをそっと持ち上げる、練習し尽くした「公爵令嬢の笑み」。

 その笑顔が正しい角度で保たれているかどうかを、私自身が鏡の中の自分を採点するような気分で確かめる。


「大げさよ。ここまで整えてくださったのは、皆のおかげだもの。私ひとりでは、とても」


 そう言うと、侍女の一人が慌てて首を振った。


「いえ、とんでもございません! どれほど飾り立てようと、元が整っていなければ……」

「ええ、本当に。立っていらっしゃるだけで、絵画のようで……」


 ――ほめられているのは、「私」ではなくて。


 喉元まで出かかった言葉を、そっと飲み込む。


 ほめられているのは、私という一人の人間ではない。

 ヴァルシュタイン公爵家の一人娘であり、明日、王太子殿下と婚約の誓いを交わす「役目」に就いた女。


 このドレスも、宝石も、化粧も、その役目のための飾りに過ぎない。


 それを口にしたところで、きっと彼女たちは困らせてしまうだけだ。

 だから私は、笑う。求められた通りの、穏やかで上品な笑みを。


「動かないでいてくださいます? 裾の長さをもう一度……はい、こちら失礼いたしますね」


 膝をついた侍女が、白い手袋越しにドレスの裾を測り直す。

 少しでも長すぎれば転倒の危険があり、短すぎれば無作法だと言われる。

 「王妃となるかもしれない女」の歩幅は、一歩一歩まで、すでに他人の目で決められているのだ。


 ふと、窓の外に視線を向ける。

 夜の帳が王都を包み、遠くに大聖堂の尖塔が影のようにそびえている。

 明日の今頃、私はあの大聖堂の前で、殿下の隣に立っているのだろうか。


(本当に、この婚約は……私でなければならなかったのかしら)


 胸の奥で浮かんでは沈む問いを、私は鏡の中の自分へ向けて、そっと投げかける。


 王太子殿下は、いつも穏やかな方だ。

 礼儀正しく、他人を傷つけるような言葉を決して口にされない。

 私が幼い頃に初めて拝謁したとき、震える手を取って「よく来てくれたね」と微笑んでくださったことを、今でもはっきりと覚えている。


 あのとき胸に灯った淡い憧れは、たぶん恋と呼べるものだったのだろう。

 けれどその想いは、いつだって「政略」という厚い布で覆われている。


 公爵家と王家。

 王国を支える柱同士が、より強固な結びつきを得るための婚約。

 私が選ばれたのは、私が私だからではなく、「ヴァルシュタイン家の一人娘」という札を首から下げているから。


「リヴィア様?」


 裾を整えていた侍女が、そっと私の顔を覗き込んだ。

 どうやら、また少し考え込むような表情をしてしまっていたらしい。


「ご気分が優れませんか? 明日が本番ですもの……お疲れが出ては」

「ええ、大丈夫よ。ただ……少し、実感がわかなくて」


 そう答えると、侍女はほっとしたように笑った。


「明日になれば、いやでも実感させられますわ。王都中が噂しているんですもの。『ヴァルシュタイン公爵家の令嬢が、ついに王太子殿下と――』」

「こら」


 年長の侍女が、慌ててその子の腕をつつく。


「おしゃべりが過ぎますよ。ここは王城の中なんですからね」

「す、すみません……でも、その……噂と言えば……」


 噂。その言葉に、ほんの少しだけ空気が変わった。


 私は首を傾げる。


「噂?」


「い、いえ、その……大したことでは……」


 侍女の少女は視線を泳がせ、言うかどうか迷っている様子だ。

 私はわずかに首を振り、柔らかく促した。


「大丈夫よ。ここには私たちしかいないわ。

 もし不敬な内容なら、そのときはそっと忘れてあげるから」


 小さく冗談めかして言うと、部屋の空気がほんの少しだけ和らいだ。

 少女はおずおずと、言葉を紡ぐ。


「その……最近、王都で話題になっているそうなのです。平民出身の……『聖女候補』が現れたって」


「聖女候補?」


 思わず、言葉を繰り返してしまった。


 聖女――それは、教会が定める特別な称号。

 神と精霊の加護を強く受け、祈りによって奇跡を引き起こすことができる存在。

 王国の歴史書にその名が刻まれるのは、数十年に一度がせいぜいだ。


「ええ、その……噂では、まだ十代半ばの娘だとか。

 祈りだけで兵士の傷を癒したとか、死にかけた子どもを救ったとか……

 皆、半分は作り話だろうって笑ってますけど……」


 少女はそこまで早口に話すと、はっとして口を押さえた。


「も、申し訳ございません! こんな話、リヴィア様の前でするべきでは――」


「いいえ」


 私は首を横に振った。

 胸の内側で、なにか冷たいものと熱いものが同時に揺れる。


 平民出身の聖女候補。

 もしそれが本当なら――その娘は、どれほどの重荷を急に背負わされるのだろう。


 ただ傷ついた人を救いたいと願っただけかもしれない。

 ただ泣いている子どもの手を取っただけかもしれない。

 それが、いつの間にか「聖女」という名札になり、国と教会に持ち上げられていく。


(まるで、誰かさんみたいね)


 自嘲が喉の奥で小さく笑う。

 私でなければならない理由なんて、本当はどこにもないのに。

 それでも、私が選ばれたのなら――と、自分に言い聞かせてきた。


 その平民の娘もまた、同じように、選ばれる側の都合で生き方を変えさせられるのだろうか。


「……その子は、今どこにいるのかしら」


 気がつけば、私はそう尋ねていた。


「え? そ、それが……はっきりとはわからないそうです。王都の教会に預けられているとか、地方の聖堂から呼び寄せられたとか……噂ばかりで」

「そう……」


 知らない。

 会ったこともない。

 それでも、胸のどこかがきゅっと痛む。


 婚約の席を奪われるかもしれない――そんな考えは、不思議と浮かばなかった。

 もしそうなったとしても、それはきっと「国のため」であり、「王家のため」であり、「教会のため」なのだろう。

 私個人の寂しさや悔しさなど、秤にかける価値もない。


 それよりも。


(その子は、ちゃんと眠れているのかしら)


 自分の意思とは無関係に祈りを求められ、知らない人々から敬われ、羨まれ、嫉妬される。

 その重さに押しつぶされて、泣いてはいないだろうか。


「さっきの話だけれど」


 私は侍女の少女へ視線を戻した。


「口が滑ることくらい、誰にでもあるわ。

 だから、そんなに怯えないでいいの。

 明日の支度で、皆、緊張しているものね」


 少女は驚いたように目を丸くし、それから安堵に頬を緩めた。


「リヴィア様……ありがとうございます。わたくし、本当に……」

「ただ、廊下では気をつけてね。壁にも耳があると言うでしょう?」


 軽く片目をつむって見せると、部屋の空気が一斉に緩むのが分かった。


 ――近寄りがたい、とよく言われる。


 感情をあまり表に出さないから。

 いつも微笑んでいて、怒ることも声を荒げることもほとんどないから。

 でもそれは、生まれつきではなく、そう「教育されてきた結果」だ。


 公爵令嬢は、感情をむき出しにしてはいけない。

 王妃候補が、嫉妬や不安を露骨に顔に出すなど、あってはならない。

 そう教えられてきた。


 だから私は、心の中でだけ毒を吐く。

 誰にも聞こえない場所でだけ、本音をこぼす。


 扉が叩かれたのは、ちょうどそんなことを思っていたときだった。


「リヴィア。入ってもいいかな」


 低く落ち着いた声。父だ。


「どうぞ、お父様」


 侍女たちが一斉に姿勢を正し、扉が静かに開く。

 入ってきたのは、黒髪に白いものが混じり始めた壮年の男――ヴァルシュタイン公爵、私の父。


「……見違えたよ」


 父は、一歩ほど近づいて私を見つめ、ふっと目を細めた。


「もう、すっかり王妃殿下と呼ばれてもおかしくない。

 いや……私には、まだ少し、娘のままに見えるがね」


「お世辞を。明日になれば、否応なく“王太子妃候補”の顔をしなければなりませんわ」


 そう言いながら、私は椅子から立ち上がって軽く礼をする。

 父は手を振ってそれを制した。


「無理に形どおりでなくていい。今くらいは、楽にしていなさい。

 侍女たち、ご苦労だった。あとは私が」


「かしこまりました、公爵様」


 侍女たちは一礼し、静かに部屋を辞していく。

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。

 部屋には、私と父だけが残された。


「緊張しているか?」


 父は窓辺まで歩き、夜の王都を一瞥してから、振り返って問いかけてきた。


「……していないと言えば嘘になりますわ」


 私は正直に答えた。


「ただ、怖いほどではありません。

 こうなることは、ずっと前から決まっていたことですもの」


「そうだな」


 父は小さく笑い、近くの椅子に腰を下ろした。

 威圧的な公爵ではなく、今はただの「父」の顔をしている。


「王太子殿下との婚約は、王家と我が家のための政略だ。

 それを一番よく理解しているのは、他ならぬお前だろう」


「はい」


「それでも、私は――父として、お前に感謝している。

 よく、この役目を引き受けてくれた」


 胸が、きゅっと締めつけられた。


 父の政治的計算は、よく知っている。

 ヴァルシュタイン公爵家が王家との結びつきを強めることで、貴族院の発言力がどう変わるのか。

その裏で、教会との力関係がどう揺れるのか。

 父の書斎で交わされる会話を、私は何度も耳にしてきた。


 けれど、それでも、こうして「父として」と言ってくれることが、私はうれしい。


「お父様。……私が選ばれたのは、私が私だからではないのでしょう?」


 気づけば、そんな言葉が口をついていた。


「私の名前が、ヴァルシュタイン公爵家の長女ではなく、どこかの小貴族の三女だったなら。

 きっと、別の令嬢が選ばれていたのでしょうね」


 父は少しだけ目を細め、それから、静かに首を縦に振った。


「そうだろうな」


 その率直さが、ひどく父らしくて、私は苦笑した。


「でも、それはお前の価値を否定するものではない。

 “役目として選ばれた”ことと、“お前がそれをどう務めるか”は別の話だ」


「……務める、ですか」


「お前は、昔からそうだった。

 小さな頃から、自分が傷つくよりも先に、他人の痛みを気にする子だった。

 だからこそ、私は安心している。

 王太子殿下の隣に立つ者として、これ以上ふさわしい娘はいない」


 胸の奥で、なにかが静かに揺れる。


 それはきっと、嬉しさと、寂しさと、恐れと――ほんの少しの誇り。


「明日、式が終わったら、しばらくは忙しくなるだろう。

 王城での立ち振る舞い、王妃教育、教会への顔見せ……」


「覚悟していますわ」


「疲れたら、いつでも帰ってきなさい。ここはお前の家だ。

 王妃になろうと、ならなかろうと、それは変わらない」


 そう言って、父は立ち上がり、私の頭にそっと手を置いた。

 子どもの頃のように、髪を乱さない程度に、ほんの一瞬だけ。


 私は目を閉じ、その手の温もりを受け止める。


「……ありがとうございます、お父様」


「リヴィア」


 名前を呼ばれ、顔を上げると、父はどこか迷うような表情を浮かべていた。


「王都は、今、騒がしい。

 平民出の“聖女候補”の噂もある。

 教会も、貴族たちも、新しい“象徴”を欲しがっている」


「さきほど、侍女からその話を聞きましたわ」


「そうか。……あの娘が、どう扱われるかは、まだ誰にもわからない。

 だが一つだけ、覚えておいてほしい」


 父の声が、わずかに低くなる。


「お前も、その娘も。

 人が作った“物語”の駒にされかねない、ということだ」


「……はい」


「それでも、お前が自分の足で立ち、自分の意思で選び続ける限り、

 私は、お前を誇りに思う」


 父はそれだけ言うと、いつもの公爵の顔へと戻った。


「そろそろ休みなさい。明日は長い一日になる」


「ええ。お休みなさいませ、お父様」


 扉が閉まる。

 足音が遠ざかり、本当に一人になった。


 静寂が戻った部屋で、私はもう一度、鏡の前に立つ。


 青い宝石が、蝋燭の揺らめきに合わせて瞬いた。

 整えられた髪、完璧な化粧、隙のないドレス。

 どこから見ても、教本に載せたいほど「王太子妃にふさわしい令嬢」の姿がそこにいる。


「……私でなければならない理由なんて、本当はどこにもないのに」


 ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。


 この国のため、王家のため、公爵家のため。

 私の名前は、たぶん、そのための都合のいい札に過ぎない。


 ――それでも。


「それでも、私が選ばれたのなら」


 私は、鏡の中の自分と視線を合わせた。


「せめて、この席を汚さない程度には、誇り高くありたいわ」


 弱さがないわけではない。

 不安も、恐れも、嫉妬だって、きっとどこかにある。

 その全部を、なかったことにはできない。


 だからこそ、私は知っている。

 明日、誰かが私の笑顔を「完璧」と言うとき、それがどれほど脆いものかを。


 けれど、それでも。


「明日は、笑いましょう。ちゃんと」


 鏡の中の私が、静かに頷く。


 公爵令嬢として。

 王太子の婚約者として。

 この国のための“都合のいい名前”として。


 ――そして、いつか。


 そのすべてとは別に、「私自身」として笑える日が来るのだろうか。


 そんな答えの出ない問いを胸の奥にしまい込み、私はそっと瞼を閉じた。

 蝋燭の火が揺れ、長い夜が、静かに更けていく。


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