4 それでも日は昇る
まるでドラマのような出来事が起こった翌日、目覚まし時計の音で、里美はいつもと同じ朝を迎えた。
シャワーを浴びて着替えると、インスタントコーヒーを飲んで家を出た。
朝食抜きは体に良くないと言われるが、食べる時間があったら寝ていたいというのが里美の気持ちだった。
そして、また思う。こんな時、母が居てくれたらと。
乳離れしていないんだなと自嘲して、車のドアを開ける。
職場までは車で3分。歩いても通える距離だ。しかし、群馬県人はどんなに近くでも車を使うのだ。群馬県人はと言うが、栃木県人も似たようなものだと里美は思っている。
北関東は車社会なのである。
「おはようございます」
ナースの秋坂が声をかけた。
里美は今日の早番が秋坂で良かったと内心思った。
笑顔で挨拶を返す里美に、秋坂が言う。
「お疲れですか?」
「え?疲れて見える?」
「うーん。ちょっとだけ?」
「秋坂さんには隠せないな」
笑ってごまかそうとした里美だが、秋坂の目は本気で心配をしてくれている眼であることを読み取り
「ちょっとね。昨日、色々あったんだ。落ち着いたら話しをするかもだから、その時はよろしくね」
「勿論」秋坂は笑顔で答えた。
秋坂のことを天使のようなナースだと里美は思っている。真に白衣の天使である。
里美が今まで出会ったナースは、大抵は気が強く、意地が悪い。
人の生死に関わる仕事だから、きつくなるのだろう。
猫を被っているだけですよと秋坂は言うが、被れるだけの猫を持っていることは凄いことだと、笑顔で利用者に声をかける秋坂の後姿を見ながら思った。
それだけ信頼が置ける人物であるし、利用者への対応も神対応な秋坂を買っているのである。
秋坂が昼休憩に行こうと外にでたときに、喫煙所でタバコを吸う里美を見つけた。
秋坂は歩みを里美の方に変えて近づいてくる。
「どうしたんですか?」
微笑んで言う秋坂に
「まあね」とだけ答えた。
秋坂は黙って里美の横に腰を掛けた。
電子タバコの煙を溜息交じりに吐き出しながら
「母親が死んだ時の事を思い出しちゃってね」
里美はポソっと言った。
「お母さんですか」
「うん。私が17のときに亡くなったんだけど、酷い死に方でね」
秋坂は黙って里美の傍らに座ったままだ。
「母が亡くなった日の翌朝、通りの前の家の台所の窓が、うちの居間から見えるんだけど、みそ汁の匂いがしてね。私がこんなに悲しいのに、他所の家ではいつもと同じ朝が来てるんだって不思議に思えたの。母が居なくなったこの世界なのに、私以外はいつもと変わらない朝を迎えてる。どんなに悲しくても、それでも日は昇るんだなって」
秋坂が小声で里美の名前を呼んだ。
「里美さん・・・」
「あー、ごめんごめん。湿気っぽくなっちゃったね。気にしないで」
里美は秋坂の心配そうな目に気付いて、慌てて笑ってみせた。
「近しい人を、最愛の人を失ったら、きっと悲しくて仕方ないと思います。泣いていいんですよ」
「今更泣けないよ。もう何十年も前の話しなんだから」
「今度、美味しいものでも食べに行きましょうよ」
「そうね。何が食べたい?」
里美が訊く。
「うーん。焼肉」
「じゃ、今度ね」
秋坂はにっこり微笑むと、ゆっくり立ち上がり、休憩室に向かって歩き出した。
秋坂は今年で43歳になる主婦だ。
高校を卒業して、准看学校に進んだ。
正看の資格も取ろうと思っていたが、子供ができたために休職をした。
年子で娘が二人いる。保育園に入れるまで、秋坂は専業主婦として育児に専念した。職場復帰をしたときには、育児と仕事の両立だけで精一杯になっていた。
いずれ正看を取ろう取ろうと思いつつ、気づけば40を過ぎていた。
結婚当時から夫の両親とは同居だった。
孫の面倒をよく見てくれたので、看護師として昼夜働く秋坂にとって、それはありがたいことだった。
食事の用意も姑がしてくれていた。
世間でいう嫁姑問題とは無縁であった。
秋坂は自分が恵まれていると思ってはいたが、改めて姑への気持ちを考えると、まだまだ恩返しができていないと結論付けた。
秋坂は育児休暇中の期間も含めると、看護師歴22年のベテラン看護師だ。
16年務めた総合病院を姑の介護の為に辞めた。
夫も子供たちも、姑も仕事を辞めることに反対した。
姑にしてみれば、自分の為に仕事を辞めさせるなんてことは心苦しさがあった。
「もう夜勤をやるのも体力的に大変だから」
と、秋坂は周囲の反対を押し切って仕事を辞めた。
再就職をするなら、日勤だけの仕事に就こうと考えていた。
クリニックもいいが、もう少し現場に触れる仕事がしたいと思っていた。
そんな矢先、知人から里美を紹介してもらった。
最初はパート勤務にしてもらっていたが、里美の熱心な誘いに根負けして、正社員になった。
立ち上げのスタッフとして、また里美の右腕として一緒に奔走した。
秋坂は自宅で姑の介護をしている。
介護を始めてから、もうすぐ6年になる。
仕事で疲れて帰ってきてから、姑の食事を用意し、食べさせる。
夫と子供が二人いるが、料理はしてはくれない。
それでも今は、デイサービスを使って、ことなく日々が過ぎていった。
秋坂は、ふと、姑が亡くなったとき、自分は泣くのだろうかと考えてみた。
そして、特別何もない、平凡で退屈な毎日が、一番幸せなのだと秋坂は思った。




