第6章 1 志都馬(しづま)
里美は週1のペースで息子に会いに行った。
息子の名前は兵藤志都馬。
現在21歳の半引きこもりである。
志都馬は急に現れた母親の存在に戸惑いを感じていた。
口では平静を装って、「別に」を連呼しているが、長らく離れていた母親が頻繁に会いに来るのを拒むこともできず、しかし両手離しで受け入れることもできなかった。
今日はカレーのうまい店に連れて行ってくれるという。
散らかった部屋で床からパーカーを拾い上げると、それをTシャツの上に着た。
髭くらいは剃っていくかと洗面所に向かう。
そこへインターホンが鳴る。
もう来たのかと思いながら、髭剃りを諦めて玄関を開ける。
玄関には、満面の笑みを浮かべた母がいた。
この人は、一体何を考えてるのだろう。
「用意できてる?」
里美に言われ
「うん」とだけ答える。
「それじゃ、行こうか」
母の足取りは軽く、志都馬の足取りは重かった。
「前橋は行ったことある?」
母が訊ねる。
「通ったことはあるけど、わざわざ行ったことはないかな」
「だよねぇ。用もないもんね」
「そもそも群馬には行かないし」
志都馬はそっけなく言う。
「あのさぁ・・・聞きたいんだけど、こうして出かけるのって、嫌?」
母の直球が飛んできた。
デッドボールすれすれである。
「嫌じゃないよ」
「そう。ならいいんだけど」
志都馬は次の言葉を選んではみたが、なんとも言えずにいた。
「ばあちゃんから、私の事、なんて聞かされてきたの?」
今度は完全にデッドボールである。
本当のことを答えて良いものかしばらく考えあぐねていたが
「ママは悪いママだって言われてきた」
直球には直球で返すことにした。
「マジ?そんなこと言ってたの?あの人」
「うん」
「じゃあ、離婚の話しはなんて聞いてたの?」
「ママが悪いから、パパが他の人を好きになっちゃったんだって」
「へー」
里美は聊か呆れて声を出した。
「それってどう思うの?君は」
いきなり質問をされて戸惑ったが、正直に話すことにした。
「浮気は浮気でしょ。どんな理由があっても、婚姻関係にある状態で、別の人とそういう関係になることは倫理的によろしくないと思うが」
「ほうほう。それでそれで?」
母は興味津々という声の調子で続きを促してきた。
「それでって・・・それだけ」
「なーんだ。それだけか。じゃあさ、私とばあちゃんが毎日のように喧嘩してたのは知ってた?」
「知ってるよ」
「それについては、ばあちゃんは何て言ってたの?」
「ママが悪いんだ」って。
「あのくそばばあ、とことん私を悪者にしてきたんだな」と母は捨て吐いた。
「でも、高校を卒業するころには、親戚の人から、〝あのおばあさんと一緒じゃ君も大変だろうね“とか言われるようになってきて、あの異常なまでの潔癖症はおかしいのかもしれないって思うようになった」
「親戚からもそんなこと言われるくらい異常な潔癖症だったってことね。じゃあさ、私が掃除機をかけてる後ろから箒で掃いてる話とか知ってた?
「知らん」
「パパが酔って台所に粗相をした話をばあちゃんにしたんだけど、腹が立って今朝は口を利かなかったって言ったら、そんなことをして、うちの息子が気に病んで車で事故ったらどうするんだって逆に説教された話しとか」
「何それ。ヤバいじゃん」
「ヤバい話しばっかりよ。それでいて、自分たちの老後の面倒は見てくれるんだろうとか平気な顔して言うもんだから、どの口が言ってるんだって思うわけよ」
「ばあちゃんの言ってた話だけを信じてたけど、なんか違うかもって、今は思うよ」
志都馬は正直な胸の内を呟いた。
「親戚が集まってる時にさ、〝うちみたいに、こうやって親無しをもらえばいいんだ。そうすれば、何を言っても泣いて帰る場所がないんだから“って私を前にして言ってのけたのよ。もう、作り笑いが引きつってるのが自分でも分かったわよ」
「あとさ、着る服もばあちゃんの許可が必要だったって知ってた?」
「何それ」
「黒い服はダメとか、派手な服やパーマはダメだとか髪の毛の色まで言われてた。隣の嫁さんのような恰好をしろって、地味なサマーセーターを買ってくれたり。
買ってもらって文句を言うのもなんだけど、20代前半の若い娘にだよ。隣の嫁さん30超えてるってゆうのに」
「でも、そのばあさんも死んだのか。最期はどうだったの?」
「卵巣がんが転移して、がんセンターに入院したんだけど、入院したころは元気だったんだけどね、会いに行くたびに小さくなって、そしてある日急に亡くなったって連絡がきた」
「そうだったんだ。亡くなる時は誰にも看取ってもらってないのか」
「そうだね。僕も大学に行ってたし、訃報を聞いて帰ってきたから」
「寂しい最期だったんだね」
里美はそう言って、人は生きてきたようにしか死ねないという言葉を思い出していた。
完璧主義で潔癖症。
それを家族全員に押し付ける。
生まれ育った家なら、それが当たり前に思えるのだろうが、嫁いできたものからしたら、大きなカルチャーショックである。
明治時代の嫁ならいざ知らず、平成の世に於いてだ。
本家だの分家だの家柄だの、今となっては価値もない家系にこだわっていた。
しかも、三男だったから、分家なのに本家と張り合おうとしたり、価値観の違いが大きすぎた。
里美もできた嫁なら良かったのだろうが、向こうっ気だけは強いものだから、毎日衝突をしてきた。
「自分だけが自分ルールで生きるのはいいけど、人に押し付けてはダメだと思うのよ。あの当時、ばあさんは60前後だったはずだけど、今の60歳とは見た目も考え方も違う。
ジェネレーションギャップがあって当然だけど、一方的に姑の意向に合わせるやり方では、そりゃあ嫁もやってられないって」
母は自信を回復させたかのように志都馬に言う。
前橋の幹線道路を一本奥に入ったところにそのカレー店はあった。
店構えからして、インドっぽいと志都馬は思った。
カレーと言うのは家で食べるもので、友達の家のカレーとか、店で出すカレーとか、口に合わないと思っているのだ。
友達の家のカレーを食べた時の衝撃。
同じカレーのはずなのに、全く家のカレーの味と違っていた。
人間、食べなれた味が一番おいしいと感じるらしいが、志都馬は特にそう思っていた。
店内は照明が薄暗く、多国籍文明を演出してるのかと思うくらいの雑多な感じであった。
着飾った象の置物とか、頭に皿を乗せた女性の絵とか、インドに興味のないし志都馬でも、内心ワクワクを感じずにはいられなかった。
メニューを開いている志都馬に母は言った。
「このセットコースがおススメ」
「じゃあ、それで」
考えるのも面倒なので、母のおススメを頼んだ。
母は店員を呼び、Bセットのナンでお願いしますと言った。
向かいに座る母は終始笑顔で幸せそうだった。
憎んでるわけでもないが、恋しかったわけでもない。
祖母から悪い母親なんだとずっと言われて育ったから、今日の母の話しは驚きの連続だった。
口煩い人ではあったけど、自分には優しい祖母だった。
母は祖母が嫌いで、祖母はその倍以上母を嫌っていたのだろうと思うのだった。
そうこう思案してるうちにテーブルに料理が運ばれてきた。
志都馬は始めて見るカレーのセットに目を丸くした。
ステンレス製の銀色の金属製の小さな器が6個、大きな銀の皿に並んでいる。
器の中には、緑色や濃い茶色、薄い黄色と色とりどりのカレーが入っている。
ナンは思った以上に大きく、食べきれるか心配になった。
「カレーのお皿がステンレスなのって、理由を知ってる?」
母は自慢そうに質問してきた
「いや。知らん」
「インドってヒンドゥー教が多いんだけど、ヒンドゥー教って不浄を嫌うんだって。
だから、お皿が汚れるのとかもNGで、バナナの葉っぱを皿にして食べるとか、ステンレス製の皿を使うんだって。それに、ステンレスなら皿に着色しにくいとかもあるらしいよ」
母が嬉しそうに話すので、ついついつられて笑顔になっていることに志都馬は気づいた。
そうか・・・母親と一緒にいることが嫌じゃないんだ。
志都馬は自分の気持ちに初めて気付いたかのように思ったが、きっと違う。
子供の頃から、ずっと前から、自分は母親を求めていたのだと認めたくないけど認めざるを得ないのだと素直に受け入れるときが来たのだと。




