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3 命

 赤城山の裾野を里美は走っていた。

桜が丁度見頃だった。

桜並木の県道を通り抜け、何度か曲がったところに希望の森は佇んでいる。

広い敷地に幾つもの棟が立っており、訪れることが少ない里美は、来るたびにどの棟に入ればいいのか迷ってしまう。

駐車場に車を停めて、右端の3階建ての大きな建物に入ると、受付の中にいた制服姿の若い女性に里美は名乗った。

少々お待ちくださいと女性は言い、内線であろう電話をかける。

ロビーで入所者の作品を眺め、感心していると、40歳くらいだろう女性が後ろから声をかけてきた。

里美が挨拶をすると、女性は相談員の平木と名乗った。

状況の説明をしたいと平木は言い、里美を相談室へと案内した。

平木は、少し申し訳ないような表情で、「検査もしていないため、血圧の低下の原因が分からない」と言った。

「苦しまなければ、それだけで十分です」

意識はあるものの、サチュレーションは90を切っており、常勤の医師からのオーダーで、酸素を2ℓで流しているという。

「会っていかれますか?」と平木に訊ねられて、里美はしばらく考えたのち、

「このまま今日は帰ります」と答えた。

兄に会う勇気が無かった。

子供の頃に初めて兄を見たときの印象が強すぎて、会うのが怖かった。

歪んだ口に拘縮と筋緊張で曲がった関節。

言葉を発する時の表情を直視することができない里美だった。

最後に会ったのは父が亡くなった後だったか。

一応の会話は成立していたが、発語をするのが大変そうだった。

吃音交じりに話す兄の姿が思い浮かんだ。

 この施設の一人部屋に40年以上お世話になっている。

18歳を過ぎると、行く施設が格段に少なくなってしまうのだが、兄はずっと、この希望の森に居続けている。

家族と一緒に過ごした時間よりも、この施設の職員と過ごした時間の方が長い。

里美よりも愛情を持って、兄を支援し続けてくれた職員さんたちに頭の下がる思いだ。

 それと同時に里美は思う。

本音と建て前がヒトにはあって、多くを建て前で蓋をしている世界。

人権を叫ぶ人たちは、この現状を知っているのだろうか。

多くは言葉も通じない相手だ。怪我をさせないように、事故を起こさないように24時間見続ける仕事。

虐待事件が起こる度に「その気持ちは分かる」と里美は思うのだ。

だがしかし、「行動に移しちゃダメだ」

聖人君子や天使のような人がこの仕事をしている訳じゃない。

同じ人間なのだ。

 兄に限って言えば、一度も働いたこともなく、一度も税金を納めたこともなく、障害年金と制度で生かされているのだ。

兄は決して権利を主張したことも平等を訴えたこともないだろう。

でも、税金で生かされている。

何のために?

里美はどうしてもその思いが払拭できずにいる。

 疑問を持ったまま、このまま逃げていてもいいのだろうか?

里美は自問自答する。

会わなきゃ。

会って、確かめなきゃ。

何十年も疑問に持ったままじゃいけない。

 里美は立ち止った。

「やっぱり、会って行ってもいいですか?」

前を歩く平木が振り返り、里美をまっすぐ見つめた。

「ええ。勿論。お兄さん値無しの笑顔で平木は答えた。無しの笑顔で平木は答えた。兄のいる部屋までの廊下で、里美は他の入所者とすれ違った。

何やら独り言をブツブツと言っている。

ヘッドギアを付けて、壁の一点だけを見つめて頭を前後に揺さぶっている。

車いすに座らされ、首を45度に傾けて口をモゴモゴ動かしている中年女性。

牛みたいだと里美は思った。

この現実を見たくなかったのだと里美は自分を振り返った。

 ここにいる何十人という障害者の現実を見たくなかったのだ。

大きな窓に薄いグリーンのカーテン。

男性職員に脇を支えられて歩行練習をしているカフクラッチを持った男性。

足の動きはとても不自然で、つま先を引きずるように、床を足が這うように歩く。

彼らは何の意味を持って生きているのだろう。

それ以前に、私は何の意味を持って生きているのだろう。

 ああ、そうか。

兄云々じゃない。

私は私と対峙するのが怖かったんだ。

淡いクリーム色の壁に木目調の引き戸が並ぶ廊下を過ぎ、兄のいる部屋に着いた。

女性職員はノックをしてドアを開ける。

「吉田さん、妹さんが見えましたよ」

女性職員は声をかける。

ベッドには仰向けに寝かされ、酸素マスクをした兄が横たわっていた。

女性職員の声にかすかに反応したようで、顔を声のする方へ向けた。

兄は私を理解することができるのだろうか。

もう何年も会っていないし、そもそも認識する能力があるのかさえ里美には分からなかった。

預けっぱなしだったから。

 不思議と家族が病気や障害によって家から病院なり施設なりに入ると、いないのが当たり前になってしまうのだ。

介護や看病で疲れ切っていたら、家から他所へ移った後の身軽さがそう思わせるのかもしれない。

「お兄ちゃん」

里美はやっと聞き取れるくらいの小さな声で呼びかけた。

兄は瞬きをすると口を動かしたが、酸素マスクをしていることもあってなのか、言葉は不明瞭だった。

「何?」

里美は聞き返した。

「ありが・・と・・・う」

兄は確かにそう言った。

絶対に泣くことなんてないと思っていた里美の目に涙が溢れた。

理屈ではない、心が揺さぶられたとでもいうべきか。

思考は停止して、熱い思いが胸を締め付けた。

「お兄ちゃん、ごめんね」

泣きながら里美はごめんねを繰り返した。

 兄の手足はもう自由には動かなかった。

何年も前に来た時も動かなかったから、乳児の頃から動かなかったのかもしれない。

関節は不自然な曲がり方をしているが、皮膚は綺麗だった。

職員さんたちに大切にしてもらってきたのだろうと里美は思った。

子供の頃に抱いた「気持ち悪い」「怖い」という感情は、正直な感情なのだろう。

それは今でも変わらない。

 でも、だから、大切にできないというのは違うんだ。

障害者施設や高齢者施設で度々ニュースになる虐待という行為。

兄はそんな被害に合わずに今日まで生かされてきたんだろう。

障害児を「可愛い」という職員がいるのも事実だ。

それは、私がおりょうさんに抱いた「可愛い」という気持ちとイコールなのかもしれない。

愛おしいと思える対象が人それぞれ違うだけなのだろう。

 里美は兄のベッドの傍らに折りたたみ椅子を付けて、兄の手を握った。

指の関節の節が変形していて、握手ができるような手ではなかったが、里美は両手で兄の左手を包み込んだ。

そして、「ごめんね」を繰り返す。

命であることに変わりはない。

一人では生命維持さえ難しい状態であっても、これは間違いなく「命」なのだ。


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