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1 幸せは続かない

 吉田里美は1年前に介護施設の経営を始めた。

実務経験で介護福祉士を取り、その2年後にケアマネ資格を取り、7歳年上の夫とは27歳で離婚をしている。

 結婚を反対していた姑とは案の定折り合いが悪く、毎日のように口論となった。

そんな家庭から逃げるように、仕事に没頭した里美は、家庭も子育ても顧みなかった。そんな妻に不満があったのだろう。夫は20歳の若い娘と浮気をした。

 勿論、浮気の原因の一端に里美の家庭向きではない性格があることは自分でも認める。しかし、だからといって、浮気はないだろうと里美は思った。

姑との仲裁に入る訳でもなく、里美をかばうこともなかった。

 「彼女はオレが守ってあげないとダメなんだ。里美は強いから、一人でも生きていけるよな」元夫はいけしゃあしゃあと宣った。

一人で生きていけるかって?

ええ。生きてみせますとも。しぶとく生きてやろうじゃないの。

そんな風にいきがってみても、心の中には埋めることのできない喪失という大きな穴が開いていることに、この男は気づかないんだな。見た目だけで判断するとか、どんだけ私のことを分かってると思いあがってるんだと怒りに変わる。

 そう思っての起業であった。完全に勢いだけで突っ走ったのであった。

32歳で起業した。

資本金は100万円。別れた夫からの慰謝料だった。

バブルが崩壊して久しく、景気は一向に上向かない底辺の時代にも関わらず、幸運にも融資を受けてくれる銀行を見つけ、里美は4年の月日を費やして、やっと開業にこぎつけたのだった。

この1年、ほとんど休みなく働いた。夜中でも急変があれば呼び出され、救急搬送に同乗する。新たな人生を歩き始めた生活の中で、亡き両親のことも、小林明美のことも思い出にできそうだと思っていた矢先のことだった。

 「私の父は宇都宮で大工をしていました。景気の良い時は、2~3人の職人さんがうちで働いてくれていました。その中の一人が、小林明美の旦那さんだったんです。旦那さんは普通の人で、小林明美も普通の主婦だと思ってました。なにしろ私が小学生のときですから、人を見る目なんて持ってなくて。それでも小林明美のことは好きになれなかったんです。どこか薄っぺらい感じがして」里美はテーブルに両手を組んで置きながら、一気に吐き出すように話し始めた。

 加山と木内は、それを静かに聞いていた。

時折、木内がメモを取るため視線を下に向けるが、里美が話し始めると、「うんうん」と頷くように軽く頭を上下に動かした。

「オイルショック後に景気が悪くなって、父の仕事も減ってしまったうえに、父も母もアル中で。仕事が減って時間が余ると、朝から浴びるほど酒を飲んでは暴れる父でした。そんな中で祖母が入院をしてしまって、24時間の家政婦を付けたんです。その支払いも膨大で、借金がどんどん増えていったんです。借金を返すために両親は土地を売ることにしました。私が16歳の夏でしたから、16年くらい前ですね」

冷静に話そうとしても、緊張からか口の渇きが気になって、里美はマグカップを持とうとして、手が震えていることに気が付いた。それを加山たちに見られるんじゃないかと案じつつ、お茶を口に含んだ。

ゴクンという飲み込む音が聞こえるんじゃないかと視線を上げたが、目の前の二人は表情を変えずに私を注視していた。

 「土地を売って、母の実家がある群馬県の昭和村に引っ込んだんです。父もお酒を止めて、建築屋さんに勤めたんです。父も母も幸せそうでした。そんな母の笑顔を見ていると、田舎に引っ込んで正解だったと心底思ったんです」

里美はしみじみ思い出に浸るように目を閉じた。

 「そんな幸せな時が半年くらいありました。小林明美にお金を騙し取られるまでは」

今度は天井を仰いで里美は瞼を軽く伏せながら言う。

 「ある日、小林が一人で家に居た母を訪ねてきたんです。どこで聞きつけてきたのか、まとまった金があることを知っていました。お金を貸してくれないかと小林は言ったそうです。母は気前の良いお人よしな人でした。何を同情したのか、800万が入った通帳と実印を渡してしまったんです。800万は土地を売ったお金でした。母は免許を持ってませんでしたから、小林が一人で栃木まで行っておろすことになったようです。ところが一向にお金を返してくれなくて。そりゃそうですよね。小林は最初から返す当てもつもりもなかったんでしょうから」

後半からは吐き捨てるように言って、里美は今でも小林を憎んでいることにギョッとした。

 「母は父にバレないように、サラ金からお金を貸したりして、何とかごまかそうとしてたみたいなんですが、当然父の知れるところとなって、父は怒り狂って、また朝から酒を飲む生活に戻ってしまったんです。毎日毎日母は殴られ、蹴られ、怒鳴られていました。

そんな父と一緒に酒を飲む母は、身なりにも気を使わなくなって、小奇麗にしていた母からは想像もつかないくらい老け込んで見えました。

 酒浸りの生活が1年も続いたある朝、母は急性心不全で亡くなりました」

涙が込み上げてくるのが自分でもわかった。泣くまいと思っても一筋の涙が里美の頬を伝った。

時には早く死んでくれ。死んだのが父だったら良かったのに。母は父に殺されたも同然だと思っていたし、この修羅場を作ったのは、小林明美の詐欺だと里美は思って生きてきた。

 頼れるはずの兄弟は二つ上の兄と5歳年下の弟がいるが、兄は障害を持って生まれてきたために、今でも施設で暮らしている。

弟は10年ほど前に家出をして、今はどこにいるのかさえ分からない。

警察に届けを出したが、行方不明くらいじゃ探してはくれない。

弟がいなくなった後も、税金の請求が来ていたので、里美は弟を戸籍から抜いてしまったのである。

生きていたとしても、まともな生活はしていないだろう。

実質、天涯孤独も同然であった。

 「母が亡くなってからの父は、ただただ酒を飲むだけの毎日を送り、風呂にも入らず、髪も伸び放題。廃人のようでした。母の名前を叫び、泣いていました。その父も食道静脈破裂で急死しました。母が亡くなってから5年後。私が22歳の時でした」

 この4年間、父の為に食料を運んでいたのは里美だった。現金で渡すと酒に化けてしまうから、日持ちする食材を届けていた。その度に父は悪いなと言う。

悪いと思ってるなら働けばいいのにと思うが、アル中には何を言っても無駄だと諦めた。

 「食道静脈瘤もその時が初めてじゃなかったんです。繰り返し血を吐いてましたから。

父を憎んでいました。でも、亡くなった時に涙が出たんです。不思議ですね。

父の遺品を整理していた時に、小林明美の実家の住所と電話番号と、小林が書いた領収書をみつけたんです」

 里美の思い出話を真剣な眼差しで聞いていた加山の目が一瞬見開いた。

「借用書ではなく、領収証?」

「そうなんです」

やっと本題に入るのかと思ったのか、久しぶりに出る容疑者の名前に反応しただけなのか、領収証という言葉に喰いついた加山の頭の中に浮かんだものは、里美には伺い知れなかった。

 「その住所のところに行ってみたんです。その時、私には1歳になる子供がいたんですけど、その子供をチャイルドシートに座らせて、片道2時間半をかけて出向きました」

里美は生まれついての方向音痴である。地図を逆さにして見ても、どこをどう走ればいいのか分からないくらいの方向音痴である。

 1990年代は、まだナビが出回る前の時代、車の運転をするには地図は必須であったが、その地図の見方もままならなかった。

それが地図と住所のメモだけで、行ったことのない境村という土地に踏み入ろうとしたのは、両親の無念を一言でいいから言ってやりたいという里美の執念のようなものであった。


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