5 別れ
若月さんは予定通り午前中のうちに退院した。
本人は既に自分が入院していたことも覚えていないが。
若月さんはアルツハイマーである。
新しい記憶は瞬時に消え去るのだ。
昼食のお膳を配膳された若月さんは、「ありがとね」といいながらスプーンを右手で持った。
咽てしまわないか滝沢は注意深く見守っていた。
無言で次々と口に運ぶ若月。目の前に置かれた食器の底が見えるのに時間はかからなかった。
「無事、完食」
滝沢は独り言でつぶやいた。
病院では、口からはもう無理だと言われた人が、施設に移ると普通に食べるということはよくあることで、口から食べられた方が健康的に過ごせるのも事実だ。
医師や医療関係者は、医療の中だから、慎重にならざるを得ない。
しかし、介護施設は生活の場である。
自宅にいるのと似たようなもので、そこでできる範囲の食形態や支援によって、残っている能力を活用する。
人間は、本来強い生き物だと里美は思っている。
1週間後、「お粥じゃ食った気がしない。腹が減ってしょうがない」という若月さんの言葉を受けて、常食に戻してみたところ、難なく完食した。
看取りで帰ってきたはずが、今では一人で歩いて、食事も口から食べられている。
利用者が回復を見せるのは、里美たちにとっても嬉しいことであり、成果を感じられることでもある。
「若月さん、何か食べたいものはありますか?」
という質問に
「そうだな。マグロが食いてえな」
と答えた。
「マグロかあ・・・ちょっとうちの食費じゃ足が出ちゃうから、ネギトロに負けてくれる?」
里美がもったいぶって言う。
「ネギトロでもいいよ」
若月さんは満面の笑みで答えてくれた。
里美は栄養士の橘みすずにおお伺いを立てた。
「明日、ネギトロにしくれる?」
「いいですよ」と橘は快諾した。
「皆、きっと喜ぶと思いますよ」
橘はオープン当初からいる栄養士だ。
看護小規模多機能に栄養士の配置基準は無い。
しかし、調理をする人材は必要なのである。
橘の存在は、利用者の胃袋を守るという面で、大きな力となっている。
里美自身も橘が作ってくれる昼食で、この1年生きてきたようなものだ。
自宅では調理をする気になれず、スーパーの総菜やコンビニに頼り切っている里美にとって、栄養バランスの取れた昼食は、真に救いの神である。
季節の行事にちなんだメニューや、田舎ならではの郷土料理、おやつも手作りで作ってしまう。
里美は橘の料理の腕前を「神レベル」と評している。
橘は48歳のシングルマザーである。
子供たちは既に独立している。
両親と同居をし、気ままな独身生活を謳歌している。
里美からの誘いにも身軽に応じてくれる。
なんて素晴らしい職員たちに恵まれていることかと里美は常日頃から思っている。
そんな橘に一つの変化が生じた。
母親の入院。
一人娘の橘は、母の入院手続きやら準備で多少の疲れも見えていた。
橘の母は長年糖尿病を患っており、血糖コントロールが不良だった。
今回、右足先の壊死によって、切断を余儀なくされたのだった。
「仕事があるから、昼間は退院しても家で一人になってしまう。一人では心配だし、どうしよう」
橘は電話口で里美に言った。
「仕事はこっちで何とでもするから、休んでも大丈夫だよ」
里美は気を遣って言ったのだが
「いえ。仕事には行きます。休みたくないから」
と、橘に言い返されてしまった。
「それなら、お母さんが昼間一人でも生活できるようにすればいいってことね」
里美は簡単に言葉にした。
「介護保険を使って、日中も安心して暮らせるようにすればいいだけのこと」
その為に知り合いのケアマネを橘に紹介して、退院に備えた。
仕事と介護を両立させるには、完璧を求めてはいけない。
70点でいい。
いつか、秋坂が言っていた言葉だ。
一人では抱えきれないことも、このメンバーとならば乗り切れる。
橘はそう思うのだった。
ところが、手術翌日に母親の容態が急変した。
そして、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。
橘からの連絡に里美たちは動揺した。
余りにも急な話しだ。
葬儀は3日後に斎場で執り行われることとなった。
黒のフォーマルを身に纏い、里美は告別式に参列した。
泣きはらした目をしている橘の元に駆け寄った。
橘は冷静を務めようとしていたが、その眼は悲しみと後悔が入り混じった色をしていた。
葬儀は家族葬ということもあり、参列している人数は少なかったが、心のこもった式になった。
弔辞を述べる橘の叔父も、余りにも急な知らせで現実味が沸かないと言っていた。
人の人生は、あっけなく幕を引くことがある。
誰もがまさかと思っていることが、ある日突然身に降りかかる。
神様がいるとしたら、急な別れはどんな意味を持つのだろうか。
里美は、このような場面に遭遇するたびに、自分は無力だと思い知らされる。
何かができると思うほど傲慢ではないが、無力を受け入れるのは、毎回しんどい。
1週間の忌引きを経て、職場に顔を出した橘は、職員みんなに深々とお礼を言った。
まだ痛々しい感じがするが、務めていつもと変わらないように振舞った。
自分の母が亡くなったあと、私の周りにいた人たちは、こんな気持ちを抱いていたのかもしれないと里美は思った。
避けて通れないものだけど、生まれたからにはいつか必ず亡くなるのだけど、何十億年とこんな別れを繰り返して人類は進化を遂げたのに、いつもいつも永遠の別れは悲しみが付きまとう。
サガなのか、宿命なのか、運命なのか、化学や医療がどれだけ発展しても、永遠の命は存在しない。
目尻に涙を潤ませている里美に向かって橘は、
「今日からはもう泣きませんよ」と言った。
「いっぱい泣いたから、もう泣かないことにしました」
橘に慰められているようで、里美は少々の気恥ずかしさを感じた。
「そうね。今日からガンガン働いてもらうからね」
ニッと笑って里美は言った。




