3 やっぱりナース
翌朝、軽い胃もたれを感じながら目が覚めた里美は、いつものように出勤の準備を始めた。
10月に入ったというのに、今日は汗ばむくらいの天気になるとテレビで言っていた。
里美は迷わずTシャツを選び、トマトジュースを飲んだ。
コーヒーよりは胃に優しそうだ。
今日は新規利用の相談が1件、先週入院した若月という利用者の退院指導が午後に予定されている。
出勤すると、滝沢が「おはようございます」と声をかけてきた。
今日の早番は滝沢さんだったかと里美は思った。
滝沢は里美の2つ下だから、今年30になる細身で目のクリっとした美人だ。
どこかかげりがあるのは、滝沢の転職理由にあった。
滝沢は大卒の正看護師で、大学卒業後は、その大学病院に就職した。
配属されたのは、第1心臓外科だった。
仕事ぶりは見事なもので、入職5年目にして主任に抜擢された。
完璧主義の滝沢は、新人ナースにも完璧を求めた。
いつもどこか張りつめているような滝沢は、周囲から一歩距離を取られてしまう存在になっていた。
そんなある日、ラシックス静注の指示が出ていた患者に、新人ナースのミスで10時に実施予定だったものが実施されておらず、気が付いて医師に報告をしたのち、ラシックス静注を実施するというアクシデントが起きた。
滝沢は新人ナースを呼び、1時間以上注意をした。それは、もはやお説教でも指導でもなく、感情が入り混じった叱責であった。
今の時代で言えば、パワハラ認定間違いなしだろう。
その翌日、新人ナースは大学病院の屋上から飛び降りてしまったのだった。
日ごろから周囲に距離を取られている滝沢をかばうものは誰もいなかった。
師長も部長もかばってはくれなかった。
新人ナースの訃報から4日後、滝沢は仕事に行けなくなった。
仕事に行こうと思っても、動悸と眩暈がして起きられなくなった。
そのまま病欠で半年ほど休職したが、最終的には退職を選んだ。
人の命を救うはずのナースが、部下を自殺に追いやるなんて、滝沢自身自分が許せなかった。
1年半の傷病手当金をもらい終わり、コンビニでバイトをした。
自分はもうナースに戻れない、医療従事者として不適格なのだと相変わらず自分を責めていた。
そんな滝沢を同居の両親は腫れ物に触るかのように接していた。
滝沢はそれも苦しかった。
国立大を出してもらって、出世ルートにも乗れていたのに失脚した。
自慢の娘が一気に不祥の娘に転落したのだ。
思い切って一人暮らしをしようと思い立ったのは、ナースを辞めてから2年後だった。
どうせなら、誰も知らないところで生きてみようと思った。
引っ越し先のマンションから一番近いスーパーで、何気なく手に取った求人雑誌。
そこに「利根の里」の新規立ち上げスタッフ募集の記事を見つけたのだ。
施設での仕事なら、医療行為は殆どない。
病院のように何百人といる同僚の中で働くこともない。
そう思って面接を受けたのだった。
もうナースの仕事はしないと思っていたが、やはりナースとして働いていた頃の充実感はコンビニのバイトでは味わえない。
黒のパンツスーツに白のブラウスを着た滝沢が、利根の里のインターホンを鳴らす。
中から出てきたのは、自分と同じ年くらいのショートボブの女性だった。
「滝沢さんですね。中へどうぞ」
促されて中にはいると、まだ新しい建物の匂いがした。
滝沢は大学病院を辞めた理由を正直に話した。
下手に隠しても、いつか知られることになるだろうと思ったからだ。
これで不採用になったらなったで、またコンビニかスーパーでバイトをすればいい。
滝沢の話しを聞き終わった里美が言った。
「苦しかったことでしょうね。自分を嫌というほどいじめてきたんじゃない?」
滝沢は思いがけない言葉に息をのんだ。
この2年間、誰も言ってくれなかった言葉。だけど、一番言って欲しかった言葉。
うつむいたままの滝沢の艶やかな黒髪で隠れて、表情はよく見えない。
「来週から来てくれる?」
里美は折りたたむように滝沢に言った。
驚いたように顔を上げた滝沢に「よろしくね」と里美は微笑んだ。




