2 男いらず
秋坂が里美を呼び止めた。
長くもない廊下の一番端にいた里美は、思いがけず呼ばれたことで驚いたように振り返る。
「お疲れ様」
秋坂の姿を認め、里美は言った。
「ありがとうね、おりょうさんの死後の処置」
「いいえ。お見送り出来て良かったです」
「きっと、秋坂さんを待ってたんだね」
「私を選んでくれたのなら、嬉しいことです」
秋坂は微笑んで答えた。
「今夜、焼肉行く?」
「えーと。家に電話してからでもいいですか?」
「勿論」
里美は大きく頷いた。
仰々しいくらいの赤を基調にした建物は、駐車場で車を降りた時から焼肉の匂いがして、里美の空腹は声を出して吠えそうだった。
店のドアを開けると、家族連れなどの客が待合スペースに溢れていた。
「予約してある秋坂です。一人、先に来ているかもしれません」
「秋坂様ですね。ええ。お待ちです」
個室に通され、中にはいると、秋坂が待っていた。
「ごめんごめん。遅くなっちゃった」
「私もさっき来たばかりですよ」
秋坂のこの言葉は社交辞令なのか本当なのか、なかなか把握しがたい。
スタッフが水とおしぼりを運んでくる。
里美はそそくさとタッチパネルでメニューを選ぶ。
「えーと、私タン塩とカルビ、あ!上カルビにしようかな」
カルビと上カルビで散々迷った挙句、両方を頼んだ。
秋坂は上ロースとライスとチョレギサラダだけでいいという。
「まったく小食なんだから」
「それで、どうしたんですか?急に焼肉に誘うなんて」
「この間、焼肉に行こうって言ったじゃない」
「それはそうですけど」
「秋坂さんと焼肉を食べたかっただけ」
「ホントですかあ~?」
2人は運ばれてきたウーロン茶で乾杯をした。
「実はさ、おりょうさんを見送ったら、燃え尽きちゃったような気がしてね」
秋坂は黙って聞いている。
そこへスタッフが頼んだ品を運んできた。
2人は一度黙って皿を受け取り、スタッフが行ってから再び話し始めた。
「いろんな人を見送ってきたけど、今回は両親の死に次ぐ喪失感だわ」
「そんなにですか」
秋坂が意外だという顔で訊ねた。
「おりょうさん、好きだったのよお。すっごく可愛かったんだもん」
屈託なく里美が言う。
「まぁ、楽しい人でしたけどね」
秋坂は、優しい物腰とは裏腹に、非常にドライな一面を持っている。
そこが看護師という職業を続けられるところなんだろうと里美は思っている。
「食べられなくなってから、結構早かったじゃない。ちょっと心の準備が出来上がってなかった」
「おりょうさん、痩せてましたからね」
網の上で煙を立てている上ロースをひっくり返しながら秋坂が言う。
「たくわえが少ないと、やっぱ早いね」
「そうですね。私くらいお肉がついていれば、1週間以上持ちますよ」
秋坂がいたずらっぽく言う。
「秋坂さん、いつもありがとね」
「里美さん、やだ。急にかしこまって」
「感謝の言葉は言えるときに言っておかないとね。いつどうなるか分かんないから」
里美はいつ自分が死ぬのか分からないと思っている。
母親を亡くしてからずっとだ。
今日か明日に死んでしまうかもしれない。
もしかしたら、この帰りに事故にあって死ぬかもしれない。
いつもそう考えていた。
だから、今やれることは今やろうと決めて生きてきた。
死ぬときに後悔なんてしたくない。
「お義母さんの具合はどう?」
里美は急に話題を変えた。
「お陰様で落ち着いてます。リウマチの痛みも以前よりは落ち着いているみたいで」
リウマチは女性に多い病気だ。
免疫の以上によって間接に炎症が起きる。
痛みや腫れが生じ、進行すると関節の破壊や変形を起こす。
特に朝方の関節のこわばりは顕著で、発熱や倦怠感等、様々な症状が起こる。
秋坂の母親は、十年以上このリウマチを患っている。
完治させる方法はなく、特効薬もない。
「もう長いこと介護してるんでしょう?」
里美が訊くと
「でも、頭はしっかりしてるから、座ってできる調理や洗濯物たたみなんかはやってくれるから、そんなに介護してるって感覚はないんですよ」
秋坂は軽く答えた。
姑と同居しているだけでも大変だろうにと里美は思う。
しかし、秋坂と姑との関係は、本当の親子のように円滑だった。
「それより、里美さんの方はどうなんですか?この間の事、聞いても大丈夫ですか?」
焼きあがったタン塩を里美の更に移しながら秋坂が言う。
「あー。あれね。極秘情報なんだけど」
「極秘情報ですか?」
「そう。トップシークレット」
里美はおどけてみせる。
そして、ゆっくりと刑事に話した時のように語り始めた。
秋坂は終始無言で頷きながら話しを聞いていた。
「ってことがあったの」
何ともないような振りをして話しを終わらせた里美に
「そんなことがあったんですか。驚きです」
秋坂は素直に「驚き」と言った。
里美自身も驚いているが、他人が聞いても驚く話しなんだと妙に気持ちが高ぶった。
話している途中、胸の奥がチクチクと痛み、両手に軽く痺れを感じていた。
癒えない傷。
化膿しそうな生傷が、里美の中には無数に残っている。
消化できない記憶。
書き換えられない記憶。
サラダを里美の更に取り分けながら秋坂は言う。
「辛いことを思い出させちゃいました?」
「全然大丈夫」
里美は笑ってみせた。
その笑顔は顔に張り付けた塗り絵の絵のように、きっと不自然だったのだろう。秋坂はすかさず言う。
「無理しなくていいんですよ」
やはりお見通しか。
里美は口角を引き締めて微笑んだ。
秋坂には深い話しもできそうな気がしている。
甘えてるんだなと里美は思う。
秋坂に言わせると、里美は甘え下手らしい。
誉め言葉として、「男いらず」という言葉も秋坂から言われる。
初めて男いらずという言葉を聞いた時は、何を表す言葉なのか分からなかった。
電球を取り換えるとか、組み立て家具を組み立てるとか、一般の家庭では男がやることを何の躊躇いもなく女である自分でやる。
そんなの男も女も無いだろうと思っていたが、世間では違うらしい。
男に甘えることなんて、この人生で殆ど無かったことは認めるし、自分が男の前で甘える自分を想像するだけで気持ち悪い。
「秋坂さん、まだ食べられる?」
「それじゃぁ、頑張ってハラミを食べようかな」
メニューを見ながら秋坂が言う。
里美はタッチパネルを操作して、追加でハラミと鳥塩を頼んだ。
言いたいことは沢山あるのに、秋坂には甘えられると分かっているのに、里美は次の言葉が見つけられなかった。
高校時代、親のことをクラスメイトに相談したら、「里美の相談は深刻過ぎて分からない」と言われてから、他人に相談をすることをしなくなった。
相談したところで答えなんてどこにもない。
答えはいつだって自分の中にあって、人に決めてもらうものではないのだから。




