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第1章 1 記憶の底に眠る名前

この物語は、実際に起こった事件を元に作られたフィクションです。

第1章 記憶の底に眠る名前

 秋分の日も過ぎて、夜がヒタヒタと足音を立てて長くなる2001年9月下旬のある日、私は2週間ぶりの休みを、無駄に寝て過ごしていた。

 眠っていてもお腹がすくのは不可抗力というか、空腹に耐えかねた私は、11時頃に起き上がり、仕方なしに重い体を引きずって、テレビを点けてからキッチンに立った。

 アッシュブルーに染めたショートボブを右手でかき上げながら、インスタントコーヒーの瓶を棚から取ると、マグカップにスプーンを使わずにインスタントコーヒーを振り入れ、電気ポットからお湯を注ぐ。

まだ眠気の残る左の頬には、寝皺が残っている。

 不細工ではないにしても、30を過ぎて肌のたるみが気になり始めた。化粧もせずに外出することも相まって、鏡を見るのを極力避けるようになっていたせいか、シミそばかすもどんどん繁殖しているようだ。

 女にしては背が大きく、170弱の身長は、何もしていないのに目立ってしまうから、私は好きではなかった。

 子供のころから、いくら食べても太らない体質で、ブラのサイズは65のトリプルA。小学校の先生からは、骨川筋子さんと言われるくらい瘦せていた。

 一度、「どうやったら太れるのかしら」と真顔で聞いたときに、友人から、「そのセリフ、他所では言わない方がいいよ。嫌味に聞こえる」と真面目に言われて軽くショックを受けたことがあった。

それでも気分を害した私は、痩せ過ぎは痩せ過ぎで悩みがあるもんなのよと心の中だけでつぶやいたのだった。

眉はアートメイクを施してあるので、寝起きでも仕事に行ける。

今の私には、それが大事なことであった。

 食事も素早く作れて、早食いができて、お腹が満たされればそれでいいと思っている。

昼前まで寝ていたくせに、とにかく時間が足りないのだ。

 こんな時、誰かが居てくれたら。そう、母が居てくれたら、だらしないねとか小言を言いながらもお昼ご飯を用意してくれるんだろうなと思ったが、もういない人のことを想っても、時計の針は右周りにしか動かないのだ。

 ふっとため息をついて冷蔵庫を開ける。

残り物で何を作ろうか思案した後、使いかけのナルトを見つけて、チャーハンにすることにした。

玉ねぎをみじん切りにしているときに、リビングのテレビから「昨日、保険金殺人の容疑で逮捕された、小山市在住の小林明美の身柄ですが」というアナウンサーの声が耳に入った。

 小林明美?どこかで聞いた名前だなと記憶の底に眠る名前を反芻した。

え?小林明美って、あの小林明美?

 私は玉ねぎと包丁を放り出し、手を拭くのも惜しんでリビングのテレビ画面に見入った。

画面には小林明美の顔写真が映っている。しかし、20年も前の彼女の顔をうろ覚え程度にしか覚えていなかったので、画面が切り替わるまで凝視していた。

心臓がトクンと裏返る気がした。多分、間違いない。この人だ。

 確かめるためにはどうするのが良いのか?

こんなこと、友達に聞いたって知ってるはずはない。

今ならスマホという便利なものがあるが、2001年では、アンテナをピっと引き出して使うガラケーが主流だった。電話番号を調べるには、電話帳か104の番号案内を使うしかなかった。

 私は104のボタンを押して、「小山警察署の番号をお願いします」と伝えた。「栃木県の小山警察署ですね」とオペレーターは復唱した。オペレーターのキーボードを叩く音を聞きながら私は数秒待った。「ご案内致します」という声の後、小山警察署の番号が受話器から聞こえた。

どうしよう。警察に電話をして教えてくれるものなのか?と、不安と逸る気持ちを抑えながら、私は震える指で案内された番号をプッシュする。

1回の呼び出し音でつながったからか、受話器から聞こえる声にドキリとした。

 私は自分の名前を名乗り、「あの。テレビで報道されているマニラ保険金殺人の犯人、小林明美って人のことで話しがあるんですけど」と震える声で伝えた。

「少々お待ちください」と電話口の女性は言った。

 数十秒待たされ、男性の声で「私は加山といいます。どのような話ですか?」と問われた。

「マニラ保険金殺人の犯人、小林明美って人に、私の母がお金を騙し取られたんです」

「それはいつの頃ですか?」加山が訊ねる。

「私が高校生の時だから、今から15~6年前だと思います」

私は遠い記憶の細い糸を、しかし決して忘れることができない記憶の断片を呼び起こそうとしていた。

 そちらまで話しを聞きに伺いたいが、今日の午後に伺ってもよいかと加山に問われ、私は何時でも在宅していると返答した。

 電話を終えると、しばし呆然としながら、とっくにバラエティ番組に変わっている画面を眺める。

ふと、玉ねぎが途中だったことを思い出し、我に返った私は再びキッチンに立った。


 昼前にかけた電話から3時間後に玄関のチャイムが鳴った。

加山という刑事が来たのだと私は思った。

外開きの玄関のドアをほんの少し開けた途端、刑事の左足先がドアの隙間に入れられた。

そして、後ろから見えないように、がっしりした背中でガードしているかのような姿勢のまま、ドアの中に左腕だけを入れ、警察手帳を片手で開いて見せた。

「私は小山警察署の加山と言います。吉田里美さんですね」

加山の問いに、私は「はい」と小声で返事をした。

加山が玄関のドアをぐいと開けると、その後ろには若い女の人が立っていた。

 加山と名乗る刑事は、背丈は175くらいだろうか。まだ若く、紺色のスーツを着こなし、颯爽とした印象の刑事だった。

短髪で色が黒く、穏やかな表情とは裏腹に、眼光は鋭く光っていた。

 玄関の中に二人が入ると、女の人は「小山署の木内といいます」とあいさつをした。

木内と名乗った女性は、ストレートのロングヘアを後ろで一つに縛った黒髪が似合っていた。黒のパンツスーツにヒールの低いパンプス。

OLにも見えないではない綺麗な人だった。

刑事ドラマに出てきそうな人だなと思った。

警察手帳の見せ方だって、玄関に足先だけを入れる仕草だって、まるでドラマの中にいるような気持だった。

私は不謹慎にもそんなことを考えていたのだ。

 加山は玄関のたたきで、この事件は警察としてもしっかり裏を取りたいから、報道に尾行されていないか注意しながらここまで来たんですよと言った。

そんな大事件なのかと私は妙に感心をしていたが、まずは上がって話しを聞かせてくださいと加山に言われて現実に引き戻された。

 リビングのテーブルを挟んで加山と木内は椅子に腰かけた。

お茶を用意しようとした里美に、加山はお気遣いなくとさりげなく言った。

いえいえ。私が飲みたいので。そう言って、里美は湯呑と急須を用意し、丁寧にお茶を入れた。

緊張が伝わりそうな気がして、里美は何かをしていなければ、唐突なことを言ってしまいそうだったから、ゆっくりとお茶を入れた。

「この小林って女には余罪がいくつもありましてね、どうしても埋まらない期間があったんですが、それが吉田さんの言った15年前の期間なんです」加山は落ち着きのある声で淡々と言った。



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