辞去
眠れない。
ただ一行、寝台に伏す私を表す言葉だった。
首を横に向け、いけないと思いつつもスマホを点灯させる。
表示された数字を見れば、とうとうに先程迄の"今日"は"昨日"に置き換えられていた。
「う゛ぁああああ……」
自分の口から出たとは思いたくもない諦めの悲鳴を漏らしつつ、ごろりと身体を反転させる。
そうして数分、否数秒、或いは数瞬であったかもしれないが、ぼうっと天井を眺めていた。
嗚呼嫌、わかっている。
最早とうに私は寝る気が失せてしまっている。
天井の筋とも模様とも解らぬそれらを眼でなぞってしまっているのが其の証拠だ。
これはいけない、と慌てて瞼を下ろす。
何せ明日も仕事である。
飯を抜き、化粧の質を落とし、優雅な朝を諦めるのであれば幾分か猶予は出来るとはいえ、然してそれでも早くに起きるに越したことはない。
二十代の半ばにもなれば、大凡いつ寝れば何時に起きれるか等は理解できてくるものだ。
「うぬぅ」
またもや女らしからぬ声を出した己を恥じる余裕など無く、段々と焦りが募る胸を抱き締めた毛布で抑える。
ぐるるるる。
……抑えるべきは、腹の方だったのかもしれない。
鳴り出したそれに意識を向けた途端、私の頭には一つの悪魔が出現した。
コンビニのホットスナック。
出掛ける? 今から? わざわざ着替えて? いやいや、素っぴんだし。食べたら歯も磨かないといけない。この時間の揚げ物なんて腹の肉が大喜びするだけだ。そもそも、深夜だし売り切れているかもしれない。
否定材料を挙げ連ねようが、欲求ある限り眠気は訪れない。
深い嘆息の後、私は渋々上体を起こした。
自分の意志の弱さに呆れつつ、床に落ちていた上着らしきものを拾い、箪笥から強引にズボンを引っ張り出す。
鍵とスマホだけポッケに押し込むと、二階にある自分の部屋からノソノソと出て階下へ向かう。
「あんた、まだ起きてたん」
廊下を歩いていると、ふとリビングの方角から声が聞こえた。
首を向ければ、我が母が興味もないであろう深夜番組を眺めていた。
「オカンも寝てへんやん」
「専業主婦は朝起きる事を必然とはしてないねん」
どういう理論だ。
確かに家は皆、朝は自分でパンを焼いて勝手に家を出ているが。
「コンビニ行ってくる」
「こんびにぃ?」
怪訝な表情で此方を向く母。
然し、何を察したのか其れも直ぐに意地の悪い笑みに変わった。
「アンタ、太るで」
「年頃の女の子になんてこと言うんや」
「年頃の女やから言うんやないか。ババアなってからは、見た目よりも道楽に生きるのが女いうもんや」
「今の時代怒られんで、んな事言うてると」
「こんなええ年した大人、誰が叱ってくれるいうねん。アンタか?」
ああ言えばこう言う、口の減らないババアである。
「うるさい、行ってきます」
「ハイハイ、行ってきぃ。あ、そやアンタ」
「もう、なんなんや」
「挨拶されても、返したらアカンで」
「何歳やと思っとるんや。わかっとるわ」
大人になってから知った事。
『外に出ている時は、挨拶をしてはいけない』等というしきたりは、この周辺の地域でしか知られていないらしいという事。
母曰く。
子供の頃に朝校門前で教師に挨拶をしたら殴られた、などと嘘か誠かわからない昔話を何度か聞かされた。
恐らくは知らない人について行ってはいけないの類の物だとは思われるが、少し大げさ過ぎる気もする。
「子供扱いしやんで」
「そない事で目鯨立ててる内はガキやがな」
「うっさいババア」
その後、即座に発せられた怒号から逃げるように私は家を出た。
暫く歩くと、夏独特のぬるりとした風が首元を通り過ぎる。
「この時期になっても、まだ残夏って感じじゃないなぁ」
等と呟いた後、ふと上着の物入れに違和感がある事に気付いた。
ワイヤレスイヤホン。
懐を弄り出てきた白色の其れを見て、『あっ』と小さな声を上げる。
仕事から帰ってから、入れたままにしていたらしい。
スマホに接続し表示された三十七という数字が、充電を忘れた私責め立てるかの様だった。
行き帰り位は余裕で使えるであろうと、イヤホンを耳に捩じ込む。
パンク・ロックを掛ければ視界の明度が上がった気がする。
先程迄、不気味さすら感じていた無人の住宅街が自身の舞台になった気すらもしている。
歩きスマホでSNSの興味もないTLの濁流を眺めれば、私の意識は既に現実からネットへと旅立っていた。
「待ちや」
不意に何者かに肩が掴まれた。
思わず身体が跳ねる。一拍置いて心臓が波打ち立つ。
聞こえたのは女性の声であったが、伸し掛かる妙な力強さによって身体は金縛りに遭ったかのように強張ってしまっていた。
どうやら引き留めてきた声の主は、私の左肩を縛り付けている右手はそのままに、ずいと真後ろに陣取ったらしい。
声すらも出なかった。
息が上手く吸えない。
辛うじて口から発せられたのは、ひゅ、ひゅ、という僅かな空気の抜ける音だけだ。
「アンタ、歩きスマホは程々にしいや」
は。
何を言われたのか、理解に暫し時間を要した。
震える手で波打つ胸を抑えると、視界の端から知らぬオバハンの顔が生えてきた。
「うわ」
口に出し、思ったよりも冷静な声が出たことに自分でも驚いた。
私の顰め面を見てオバハンは、
「何が『う、わ』やねん。夜中スマホにこんっな釘付けんなりながらフラッフラ歩いとったら引かれても文句言えんでアンタ」
等と早口で捲し立ててきた。
どうやら理解できない超常ではなく、只のお節介オバハンが偶然私を発見し絡んできただけのようである。
いや、話の通じない超常的存在という意味では間違ってはいないのかもしれない。
「はぁ、すみません」
思わず気の抜けた声を吐く。
何故か此方に、してやったり顔をしているオバハン。
何だかバツが悪くなった私は、スマホの明かりを消し足早にその場を去った。
歩を進めながら探っていく。
今、私の胸に浮かぶ感情の正体を。
真っ当な指摘への反省、急に驚かされたことへの憤り、憤りを感じてしまう自分への嫌悪。
それらが妙なノイズとなって、私のプレイリストを汚していく。
気がつけばイヤホンを外していた。
先程までブルーライトを浴びていた瞳には、閑静な住宅街が一段と影が差したように映る。
夏の夜が再び私を撫でる。
今度は何故か背筋が冷える感覚に至った。
私の内に迫る泥々とした何かから目を逸らす様に、更に歩幅を広くしてコンビニへと向かった。
*
「ま、そりゃそうだわな」
結論から言えば、ホットスナックは売り切れていた。
いや、正確にはあんまんが一つだけ残っていた。
確かにあんまんは美味しい。
然し、今の私が欲しているのは肉の脂、雑でいて深みのあるスパイス、そしてコスパやカロリーから目を逸らしてそれに齧り付く圧倒的な背徳感なのである。
最早、コンビニに私の用件はない。
だというのに、店を出た私の手にはペラッペラのポリエチレンがぶら下がっていた。
ジュースとスナック菓子しか入っていない其れは、私が動く度頼りなく揺れている。
それが何故か妙に可笑しくて。
普段より大袈裟に腕を振り帰路につく。
……ふと、前方に人影が見えた。
街頭も無い僅かな月明かりが差し込むのみの町中に、ぽつんと立つ其れ。
己が行動が恥ずかしくなって、慌てて背筋を伸ばす。
段々と近づいて、十数メートル程度の距離。
その人物の姿をキチンと見た私はギョッとする。
其処に居たのは、只歩道に佇む見知らぬお婆さんであった。
淡い白の着物を身に着け、蹲っているのかと見紛う程に腰を曲げ、俯き気味に立っていた。
相手には悪いが、この時間に見る不動の老人は中々に堪える。
無意識的に私の歩調は下がり気味になってきた。
段々段々、距離は詰まってゆく。
五メートル程に迄迫った頃、突然お婆さんは顔を上げた。
思わず、足が停まった。
停めてしまった。
何故か視線を合わせては行けないと感じた。
だが今から首を回すのは不自然だ。
きっと、やってはいけないことなのだ。
そう思った。
「こんばんわ」
無表情に一言。
只、其れだけ。
目の前で放たれた言葉が何故か私の頭を支配した。
嗚呼、これがきっとそうなのだと直感した。
同時に、目の前の相手に見えていることが気づかれてもいけないと、そう思った。
然しどうやって?
既に歩は止まってしまっている。
明らかに逃げ帰るのも不自然だ。
お婆さんが此方へと向かってくる。
アスファルトに水が染みるかのようにゆっくりと。
私は思わず顔を伏せた。
「こんばんわ」
何かを確認するかの様に、問うてくるかの様に彼女がそう伝えてくる。
私は慌ててしゃがんだ。
つまりは靴紐を結びなおす振りだ。
「こんばんわ」
履いているのは草履の筈なのに、音も無くお婆さんは近づいてくる。
「こんばんわ」
震える手で靴紐を解き、両の端を弱々しく引く。
「こんばんわ」
自分の頭に、お婆さんの影が落ちる。
「こんばんわ」
息を整え、紐で輪を作っていく。
「こんばんわ」
思考がうまくまとまらない。
「こんばんわ」
――あれ、そもそもどうやって結ぶんだっけ。
頭上のそれから何とか思考を逸らそうと、紐を回しては解き、緩めては結び、そしてまた。
そうこうする内、もう眼下の影は消えていた。
安堵からか、両の手をだらしなく地に着ける。
目を瞑り、深く息を整えた。
目を開けば、老婆が横から此方の顔を覗き込んでいた。
「こんばんわ」
「う、ぁ」
我慢出来ずに漏れ出た声。
気がつけば、私は走り出していた。
無我夢中で、知っている筈なのにいつもとは違う町を駆ける。
振り返れば、動きを緩めれば、後少しでも声を出したならば、何かに連れて行かれそうな気がした。
真っ暗な住宅街を割くように走った先に、電灯が灯る我が家があった。
「あんた、何でそない走ってきたん」
家の前には、母が怪訝な顔で立っていた。
「いや、うん、まあ」
膝に手を付き、肩で息をながら私は母に問いかける。
「オカンこそどしたん、外出て」
「あんたが帰ってくんの遅いから心配しとった、とでも言えば満足か? 月綺麗やから見てただけや」
「何や、嬉しなったの返してほしいわ」
私の軽口に、母はふんと鼻を鳴らした。
「まあ、早上がりや。お帰りさん」
「……うん、ただいま」
あ。
お読み下さり誠にありがとうございます。
最後に、一つだけ。
一部実話を元にしています。勿論スマホ歩きの部分では無いですよ?
それでは、さようなら。