7 ◆ すべての後悔と仮面の彼
全9話執筆済。
本日、最終話まで3話分を投稿予定です。
あの人生で一番の後悔をしたパーティーからまた年度が変わって、私たちは進級した。
私は学園の高等部に上がり1学年になり、アルは中等部の学校の最終学年になった。
高等部と中等部。大人からしたらたいしたことないであろうその壁が、私にはとても分厚く、もどかしく思えた。
アルはあのパーティーのダンスの一件から、変わってしまった。
……側から見れば、何も変わっていないのかもしれない。
でも、私から見れば完全に別人になってしまった。
アルは、私の前で完全にお子様な一面を消し去った。
アルは今まで通り、私にとてもよくしくれた。
けれど、私の前で馬鹿みたいに顔を赤らめたり、分かりやすく惚れ直したような顔を見せることが一切なくなってしまった。
アルは全然格好悪くない、完璧に格好良いご令息になった。
──……アルに、一線を引かれてしまった。
私はそう思った。
伯爵家で弟とお兄様を器用に私に仕向けてきたときのような、パーティーの場で上手くセレナちゃんの発言をフォローしたときのような──そんな雰囲気を、私に対しても感じ取れるようになった。
格好悪い恥を晒さないようにするために、私を自分の失敗に巻き込まないようにするために──……アルは四大公爵家長男の仮面を、私の前でも被るようになってしまった。
私が気持ち良くなれる快適な会話、私を気遣う絶妙なタイミング、一切の抜かりなくしてくれる惚れ惚れするエスコート……
「アル」を知らない私がいたら、一瞬でこの人を好きになるだろうと思うくらいの。
……それほどに、気味が悪いくらいの格好良さだった。
…………それだけ、あの一件がお年頃のアルにとって堪えてしまったのだと、分かってしまった。
アルは変わらない。変わらず毎週末できる限り公爵家本邸に帰ってきてくれるし、私には変わらず優しかった。
でも、私は初めて、アルを前にしているのに寂しく感じるようになってしまった。
………………そして、怖くなった。不安になった。
アルが私に惚れているという手応えがなくなってしまったから。
これまではアルがすぐに、定期的に、簡単に、いつでも勝手に分かりやすく惚れてきてくれていたから、私は安心して慢心できていた。
でも、今は全然分からなかった。
私の言動がアルに刺さったのか刺さらなかったのか全く分からない。
アルが私にもっと嵌ってきているのか、冷めてきてしまっているのかも測れない。
あんなに分かりやすかったアルの表情が、お人形のような笑顔に変わってしまったせいで微塵も読めなくなってしまった。
パラバーナ家の家族と私以外の人間からは、アルはいつもこんな風に見えているのかと思ってゾッとしたほどだった。
だから私は焦った。
焦って、必死になってアルに優しくした。
今は「逆張り」なんて恐ろしい綱渡りをしている場合じゃない。とにかく「アルに元に戻ってほしい」という一心で、分かりやすくアルに感謝を伝え続けた。アルを気遣うようにした。
──ただ、どれだけ私が必死に優しい言葉をかけても……それは何故か、「逆張り」のように虚しい「演技」に変換されてしまった。
あのパーティーが終わった後のときのように、まるで「恥を気にして引き摺っている婚約者を心配する」「なかなか立ち直れない歳下のアルをそっと見守る」「厳しく自省する本人に代わって優しい言葉で甘やかす」──歳上の大人な私の言葉にしかならなかった。
全然気にしていない風に普段通りに振る舞ってみても、
「アル、大丈夫?元気がないの?最近疲れているんじゃない?無理はしないで休んでね?」と気遣う言葉をかけてみても、
「ねえ。私、高等部のカフェテリアでとっても美味しいケーキを見つけたのよ。アルと一緒に食べるのが楽しみだわ。アルが高等部に上がってくるのが待ち遠しいわね。」と明るい話題を振ってみても、
「最近、レッスンの内容がまた一段と難しくなってきて大変だわ。アルは本当にすごいわね。……アルの顔を見たら元気が出てきたわ。」と自分の情けない一面を晒して見せても、
…………パーティーの場で、一曲目から勇気を出して、どれだけ頑張って笑顔でアルと踊ってみても、
全部全部、上手くいかなかった。
アルは私の必死の優しさを笑顔で受け取って──……さらにその笑顔の仮面を強固なものにしていった。
全部全部、全部私のせいなのに。
アルは格好悪くなんてなかったのに。全然恥ずかしくないのに。私はアルのことを馬鹿にしてなんていないのに。
…………違うわ。
私はアルに格好悪くいてほしいの。恥ずかしいくらいがちょうどいいの。馬鹿みたいに単純でいてほしいの。
そうでないと、私が安心できないというだけなの。
私はそうして考えて考えて、一つの案を思いついた。
高等部に上がって、級友や上級生たちを見て閃いたこと。
「……そうだわ。アルに『刺繍の贈り物』をすればいいのよ。」
言動では無理なら、物を頼ればいい。
私は、そのことに気が付いた。
◆◆◆◆◆◆
この国の貴族令嬢たちには、必須と言っていい『嗜み』があった。
──それが『刺繍』。
初等部学校では女子限定で授業もある。
自分のセンスと、器用さと、お淑やかさを示す良い手段。
そんな自分の「貴族令嬢としての能力」を示す刺繍を婚約者のご令息に贈る。そういった習慣が、この王国にはあった。
私とアルが出会ったのはかなり早い年齢だったけど、だいたいは高等部の頃に婚約を成立させるのが普通。
実際、私とアルもまだ「内定」で、婚約を正式に「成立」させるのはアルが高等部に上がってからだから。
私の同級生……1学年はまだそこまで多くなかったけれど、一つ上の2学年あたりからは、婚約者から贈られた刺繍を身に付けているご令息が多くいた。
多いのは学生服のネクタイ。それかリボン。
ネクタイは分かりやすく、そのまま刺繍が施されて着こなしのアレンジにもなっている。
刺繍入りのリボンは、魔法の実践授業で使う杖に装飾として結んでいる人が多かった。それかごく少数派で、長髪のご令息は髪を結うのに使っていた。
ネクタイは……まだアルは中等部で制服が違うし、アルの学校の規則も私には分からない。
リボンは比較的やり易いとは言え、中等部の頃から一人で杖に付けていたら目立って浮いてしまうだろう。アルは長髪ではないから、髪を結ぶのにも使えない。
…………私はしばらく考えて、ハンカチにしようと決めた。
ハンカチならば、アルからしても迷惑でなく、中等部でも使いやすいだろう。
私はそう思って、さっそく白い良質な生地のハンカチと、アルの髪の色に近い青藍色と、アルの瞳の色に近い金色の刺繍糸を多めに買って用意した。
今は年度が変わってまだ1ヶ月も経っていない。
そしてアルの15歳の誕生日は、およそ2ヶ月後。
2ヶ月もあれば余裕だわ。
その誕生日のときに、刺繍のハンカチをプレゼントしよう。
今まではずっと既製品を贈っていたけど。
これならばきっと、今までとの違いも出るはず。アルも喜んで、またあの分かりやすい表情を見せてくれるはず。
さすがにもう一度、私に惚れ直してくれるはずだわ。
私はそう思って、さっそく取り掛かった。
…………取り掛かろうとした。
けれど、それは思ったよりも上手くいかずに難航した。
私は刺繍は下手ではない。……でも、たいして上手くもなかった。
そしてデザインのセンスもなかった。
私はまず、上級生たちの刺繍をさり気なく観察した。
……さすがは王国最難関の学園に集う貴族令嬢の贈り物。
みんなとてもデザインが凝っていて、華やかで上品で──当然のように上手かった。
私は図書館で刺繍や草花の本を借りて、寮の自室でいろいろデザイン案を描いてみたけど、どれも地味な私らしい、地味でありきたりなものにしかならなかった。
気がつくと、自分が観察した他のご令嬢のものの真似絵になっていた。
私は焦りながらもっと別の本を探したり、時間を見つけて王都に出て服飾店でドレスを見たりして案を練ったけど……そうしているうちに、時間がどんどん過ぎてしまった。
結局なんとかそれなりのデザインが描けた時点で、もう思い立ってから1ヶ月近くが経ってしまっていた。
それから私は慌てて刺繍に着手した。
でも、慌てていたせいか、なかなか上手く仕上げることができなかった。
1枚くらいの失敗は想定内だった。
でも、張り切って複雑なデザインにしてしまったせいで、予想以上に難航してしまった。
2枚目は焦って時間を巻こうとして、ところどころ妥協したせいで、全体で見たときに少し変な感じになってしまっている……ような気がした。
そうしているうちに、学園や公爵夫人教育の課題も溜まってきて、私はますます焦って寝不足になった。
ハンカチと課題、切羽詰まったときにどちらを優先するかと問われたら、やはり課題を優先するしかない。
私はアルの婚約者として、意地で学園の成績上位は取りにいったし、週末の公爵邸ではなおさらバレるわけにはいかないから気合を入れて乗り切った。
アルに逆に心配そうに声を掛けられてしまったときは、さすがにバレないとは分かっていても動揺した。
…………そんなことをしていたら、あっという間に1ヶ月が経って、アルの誕生日は呆気なく過ぎてしまった。
私は仕方なく、そのとき急いで見繕った万年筆を贈った。
◆◆◆◆◆◆
もともとほとんどない隙間時間を見つけて、ちまちまと進めて……完成品を見て、少し歪んでしまった部分がどうしても気になって、ハンカチと糸を追加で買い足して、また少しずつ進めていって…………
──セレナちゃんならこんなもの、デザインから完成まで、片手間で1週間で作れてしまうに違いないわ。
──あの頃の自分の判断は間違っていなかったとは思うけど、もっと初等部の頃に、ボードゲームばかりでなく刺繍の練習もしておけばよかった。
そんなことを思って、泣きながら夜な夜な刺繍をして…………
そうしてようやくなんとか納得のいく仕上がりの6枚目のハンカチができたのは、思い立ってから10ヶ月が経った頃だった。
もう誕生日どころではなかった。
アルの誕生日でも私の誕生日でも、王国の記念日でもない……何でもない時期になっていた。
それでも、何とかアルが中等部を卒業する前には渡せそうで、私はホッとした。
私はもうずっと、刺繍による疲労を公爵邸で隠すのも、アルに変に心配されないように微笑んで誤魔化すのも……相変わらずなかなか惚れた顔を見せてくれないアルに怯えるのも限界だった。
だから、どちらかというと「渡して早く楽になりたい」という気持ちの方が大きかった。
◆◆◆◆◆◆
私はハンカチが完成した週の週末、特に何の記念でもないただの休日に、何のこだわりもない質素な包装でハンカチをプレゼントした。
もうシチュエーションや包装紙なんかに凝っている元気はなかったから。とにかく自分が早く楽になるための手段にそれを使った。
外のお天気はあまり良いとは言えず、曇り気味で少し肌寒くて風も吹いていたけど、私はアルを「息抜きに庭園を散策しましょう」と誘った。
そして……雲のせいでそんなに映える良い景色の場所も無かったし、そもそも肌寒いから早く中に入りたかったし……とにかくもう早く楽になりたかったから、私はとりあえずそれっぽい豪華な噴水のところでいいかと思って、そこでアルにプレゼントを渡した。
「高等部に上がったら、ご令息はみんな婚約者が刺繍したものを持っているの。
だからそれを見て、私も思い立ったの。何かきっかけがあったわけじゃないんだけど。
……だいたい、3ヶ月くらいかしら。片手間にのんびり作っていたら、案外時間がかかってしまったわ。
そんなに出来は期待しないでね?あくまでもちょっとした贈り物よ。だからアルは気軽に使ってちょうだい。」
我ながら微妙な演技だった。
もうアルに、何が一番刺さるのか読めなくなっていたから。
だから、私は中途半端に軽い感じを演出した。
みんながやっているから、ふと思い立っただけ。……ということにした。
最近のアルの怖さを払拭したいからだなんて、絶対に言えない。
そんなに時間はかけていない。……ということにした。
でも、私はセレナちゃんではないから「1週間」なんて見栄を張ったら絶対にバレる。かと言って、馬鹿正直に「10ヶ月」なんて言ったら、それはそれで馬鹿みたいになってしまう。
アルはそんなことは言わないと思うけど……「そんなに時間をかけたのにこれ?」なんて内心で思われてしまうかもしれない。私の余裕の無さと無能さが露呈してしまう。
もしかしたら、あえて時間をかけて作った「健気な感じ」を出した方が「逆張り」で刺さるのかもしれない。……でも、それで「10ヶ月」って正直に言ったところで…………本当のことだけど、嘘っぽい。
だって、10ヶ月もかかるなんて、やっぱりおかしいもの。
…………もう、何が正解か分からない。泣きたい。
だから、3ヶ月。
当初の目標の2ヶ月よりも、ちょっと時間をかけた感じの3ヶ月。それくらいなら、軽すぎず重すぎず、受け取りやすいんじゃないかしら?
私はそう思って、正解が分からないままそう言った。
私が何でもないことのようにあえて勿体ぶらずにスッと渡した包装を、アルは丁寧に受け取って──……久しぶりに、微笑みを消して少し驚いたような顔をして「ありがとうございます。」と言ってきた。
良かった。刺さったわ。……久しぶりに。
…………本当に良かった。物に頼る方向性で合っていた。
私は安心して一気に脱力した。
笑ってアルに「開けてみて?」と催促した。
アルは「分かりました」と従順に包装を開けて、中のハンカチを取り出した。
──……一周回ってとっても無難な、青藍色と金色の花の刺繍が入ったハンカチ。
私なりに凝ったつもりだったし、完成したときには「気合いが入りすぎているかしら」と思ったけど。
けれど、いざアルの手元にあるのを見ると、何だか地味な……何なら、見た目が整っている大金持ちのアルには少し質素過ぎる気までしてきてしまった。
所詮は地方の伯爵家の娘。……私のセンスの限界を痛感した瞬間だった。
それでもアルは──本当に久しぶりに、その黄金色の目を見開いて、顔をほんのり赤くした。
分かりやすく、私に惚れ直してくれた。
でもそれからアルがハンカチを見つめたままなかなか動かずに、そのまま顔の熱をゆっくりと冷ましていったから、私は今度は不安になってきてしまった。
…………もしかして私、失敗作の方を間違えて渡してしまったかしら。
そんな可能性が、私の脳裏を過った。
4枚目だったらまだいい。……5枚目よりは、まだ3枚目の方がマシ。2枚目……も、「制作期間が3ヶ月」だと思えばギリギリ誤魔化せるかもしれない。
でも1枚目は絶対ダメ。あれだけはダメ。私の素養のなさに繋がる出来だったもの。
……どうしよう。さっさと失敗作は捨てておけばよかった。
でも、何かあったときの万が一の保険として……それと、局所的に上手くできたところを参考にするために、それぞれを取っておいてしまった。不安ですぐには捨てられなかったの。
大丈夫。包装するときに並べて見比べて、何度も確認したから大丈夫なはず。
……ああ。でも、並べて見比べたせいで、同じ場所に出してしまっていたわ。
……今になって不安になってきたわ。どうしよう。
「…………ねえ、アル。ごめんなさい。それ、一度私に見せてくれない?
ちょっと失敗しちゃったもう一枚の方と、間違えてしまったかもしれないから。」
私は咄嗟にそんなことを言いながら、アルの方へ近寄って手元のハンカチを見た。
……今のは墓穴だったかもしれない。2枚作ったことになってしまうから。……でも「3ヶ月」なら、むしろ2枚くらい作ったことにした方がちょうどいいのかも──
そんなことをごちゃごちゃと考えながら覗いたアルの手元のハンカチは、ちゃんと6枚目の、本命のものだった。
「…………良かったわ。合ってた。」
私は安堵の溜め息をついた。
自分の焦りっぷりに、思わず自嘲の笑みが零れた。
そのとき、不意に私の唇を何かが軽く掠めた。
「……アル?」
今の──……
「……今、もしかして、あなた、私に今キスしたの?」
私がアルの表情を覗くようにして首を傾げながらアルを見ると、アルはハッとしたようにその黄金色の目を見開いて、それからアルらしくなく私の視線に怯えるようにして縮こまった。
「あっ、えっと……!
……っ、いきなり、申し訳ありませんでした。」
──とてつもなく下手な初めてのキス。
全然計算ずくじゃない、衝動的な不意打ちの行動のようだった。
アルは自分の格好悪さを誤魔化すように「ははっ」と口先だけで笑って、私からすぐにその黄金色の目を逸らした。
それからアルは、一度逸らした目をチラリとこちらへ向けて、私の顔色を恐る恐る窺って──……それから顔を羞恥で真っ赤に染めて、視線を地面に落として小声でもう一度「ごめんなさい」と謝った。
「…………謝ることなんてないわ。
私にキスをしたいと思ってくれたんでしょう?嬉しいわ。ありがとう、アル。」
私の口からは、自然とそう言葉が出てきていた。
まるで、微笑ましい歳下の婚約者を温かく受け入れてあげる大人のような。
……全然対等なんかじゃない、上から目線の余裕ぶった女のような言葉になっていた。
「……ねえ、アル。これからも、また私にキスしてね?
私、とっても嬉しかったわ。」
私は咄嗟に言葉を重ねた。
真っ赤になって俯いているアルに、何かまだ声を掛けてあげなきゃいけないと思ったから。
でも、その言葉すらも、何だか愛のないスカスカなものに聞こえてしまっているような気がした。
「馬鹿みたいだ。…………っ、僕ばっかりが好きみたいだ。」
真っ赤になっていたアルは、私を見ずに下を向いたまま、涙目になってそう呟いた。
◆◆◆◆◆◆
その日の夜。
パラバーナ公爵邸から学園の寮に戻ってきて、シャワーを浴びて、寝る支度をしてベッドに入って、ぼーっと天井を見つめて──……そこで私はもう一度、今日の出来事を認識した。
──アルが、私にキスをした。
下手くそすぎて本当に掠っただけだった。キスと言っていいかも怪しいくらいのものだった。
………………。
中等部では学年一位だといったって、生徒会長をやっているといったって……なんやかんやで、まだまだアルはお子様ね。
練習していないキスは人並み以下。あんな分かりやすいアルは久しぶりだったせいか、余計に格好悪さが目立っていたわ。
やっぱりね。アルはちゃんとずっと私に惚れていて、私のことを追いかけていた。不安になる必要なんてなかった。杞憂だったわ。
一度仮面を外せれば、アルはすぐにああやって戻るのね。なんて分かりやすいのかしら。なんて単純なのかしら。
……良かった。アルはすぐにコロッと私に騙されていた9歳の頃から、たいして成長していなかった。根本は相変わらずだったわね。
あの四大公爵家の後継ぎは……アルはもう、完璧に私に恋をしているわ。
あんなにも容姿の整ったアルが、こんな地味で冴えない私に、みっともなく恋をして空回っている。
…………アルは、私に完全に「恋」をしているわ。私にキスをしたいと思っていたんだわ。
全身が熱くなってきてしまった。
心臓が潰れそうなくらいに痛くなった。
アルは……アルは、真っ赤になって泣きそうな顔をしていたわ。
格好悪かった。すごく格好悪かった。あんな格好悪いご令息、高等部には早々いないわ。
アルは自分でも言っていた。
──「馬鹿みたいだ。…………っ、僕ばっかりが好きみたいだ。」って。
……その通りよ。自覚できているだけ偉いじゃない。
大丈夫よ。私も悪い気はしなかった。
いいんじゃない?頑張っている姿が微笑ましかったから。可愛かったわよ。
あなたが望むならこれからも応えてあげないこともないわ。次はもう少し上手くできるといいわね──……って、
………………っ、違う。
違うの。違うのアル。そうじゃないの。
私、別にアルのこと馬鹿になんてしてないの。
格好悪い?当たり前じゃない。初めてだったんだもの。
私、知ってるわ。勉強でも魔法でも剣術でも護身術でも、もちろん公爵令息としての立ち振る舞いも……アルは何でも頑張れる秀才で、最終的には何でもできてしまう器用さもある天才だって。
だからあと何度かすれば、アルならすぐに物語の王子様のような惚れ惚れするキスができるようになるわよね。
不意打ちだった?必死だった?そんなの、当然そうなるわよね。だってアルは私に一途なんだもの。
私と婚約を内定させて、あの噴水の前で「貴女を一生大切にします」ってお子様ながらに宣言して──その言葉通り、ずっと私を大切にしてくれていたんだもの。
ただでさえ私がずっと「歳上の余裕」ぶっていて、どれだけ一途に思って大切にしてもなかなか振り向いてくれないでいたんだから。
さらに例のパーティーのダンスであんな大恥までかいてしまったから……だからアルは、ずっと辛くて仕方がなかったんだわ。
きっと「好き」って気持ちを上手く抑えきれなくて、早く私に振り向いてほしくて…………でも、これ以上お年頃のお子様みたいな大恥をかくのが怖かったから──……だから私の前でも、苦し紛れで、笑顔の仮面を被ってしまったのよね。
…………私なんかより、ずっとずっと、アルは怖い思いをしていたのよね。
それでも、ずっと私のことが大好きで、私に恋をしてくれていたから──……だから、ああやってキスをしてくれたのよね?
もう一度、勇気を出して仮面を外してくれたのよね?
分かってるわ。大丈夫よ。全部ちゃんと伝わっているの。
だから、自信を持ってよアル。泣かないでよ。そんな不安にならないで。
「……アル。私、嬉しかったわ。私も、……私もアルのことが大好き。」
私は布団に入って天井を見上げたまま、声に出して呟いた。
私の声は馬鹿みたいに震えていた。私の目からは変に涙が溢れていた。心臓はもう痛すぎて、喉の辺りまで絞られているようだった。
アルよりも、私の方がよっぽどお子様みたいで格好悪かった。
私がもし自分からキスをしたら、絶対に私の方が下手だろうと思えた。
自覚したら、声だけじゃなく布団を握っている手まで震えてきた。
「……ねえ、アル。私もあなたと一緒なの。私もあなたが好きなのよ。」
私は泣きながら馬鹿みたいに繰り返した。
馬鹿だった。もっと早く気付けばよかった。
もっと早く──……違うわ。最初からよ。
アルが「貴女を一生大切にします」と誓ってくれた日。私たちの婚約が内定した日。
あの日に私も馬鹿みたいな演技をやめるべきだった。普通の私に戻るべきだった。
アルは私に誠実に向き合ってくれていたんだから、私もアルに誠実に向き合うべきだった。
一人で「公爵令息に一方的に惚れられている私」に酔っていないで、ちゃんとアルのことを見るべきだった。
……「ちゃんとアルのことを見てあげている私」に酔っていないで……もっと自分の気持ちに向き合うべきだった。
そういえば私、今まで一度でもアルの容姿を褒めたことがあったかしら?
……ないわ。一度もない。浅はかだと思われたくなかったから。
アルと将来を語り合ったことがあったかしら?
……したことない。私が期待してる感じを出さないようにしていたから。
…………私、アルに一度でも「好き」って言ってあげたこと──
──ないわ。当然よ。だって……今、やっと自覚したんだもの……!
ああ……馬鹿にしていたミーハーな他のご令嬢たちのように、素直にアルの見た目を「格好いい!」って褒め讃えてしまえばよかった。
内心見下していたアルの妹のセレナちゃんのように、素直に「誰よりも素敵なアルとの結婚が、私の一番の夢」って堂々と語ってしまえばよかった。
手玉に取っていたつもりの公爵令息のアルのように、素直に「あなたに惚れてほしくて頑張っています」ってバラしてしまえばよかった。
「アル……ごめんね。っ、ごめんなさい。
ごめんね、アル。アルは謝らなくていいのよ?……私、アルからキスされても嫌じゃなかったもの。アルのことが好きだもの。……ねえ、謝らないで。お願いっ、不安にならないで……!」
アルは何も不安になることなんてないの。悪いのは私なんだから。
「ねえ、アル……違うの。私、アルのことはもう馬鹿になんてしてない。アルのこと、もうお子様扱いなんてしてない。アルは格好良い男性よ。……っ、アルのこと考えるだけで胸がこんなに痛いの。
アルは私に相応しいわ。……違う、私なんかには勿体無いの。充分すぎるからもうこれ以上格好良くならないで。お願い、格好悪いままでいてよ……!
……っ、むしろ私よ。私……っ、私の本性が知られたら……!こんな汚い考えで、今までアルを思い通りに動かして満足していた女だって……アルっ……アルが、私の本性を知ったら──……私、アルに嫌われちゃう……!」
私は泣きながらガタガタと震えた。
早くこの馬鹿な演技をやめなくちゃ。
これ以上アルを苦しめたくない。もう一日でも、一秒でも騙したくない。
早く楽になって、私からも下手なキスがしたい。それでもう一度、アルに笑ってキスしてほしい。
…………でも、
もう、演技のやめ方が分からない。何を言っても何故か演技にしかなれないの。
なかなか振り向いてくれない、余裕があって自立している、自分の思い通りにならない……そんな、お姉さんの私。
もう何年もかけてしまったせいで、何を言ってもそうなっちゃうの!
──……どうすればいいの?全部白状すればいいの?
でも、でも……!そんなことしたら、さすがにアルだって目が覚めちゃうわ!
そうよ。だって、最初にセレナちゃんを認めてあげたのも嘘だったんだもの。
アルを騙して手玉に取って高笑いしていたんだもの。
アルも、セレナちゃんも、他のご令嬢たちも、私の家族も──私、みんなみんな見下して馬鹿にしていたんだもの!
そんなの、白状できるわけがない……!
アルの前で双子の片割れのセレナちゃんを否定したら、全部一気にひっくり返っちゃう。
アルに今さら「昔はあなたを騙して馬鹿にしていて、今はあなたが大好きです。」だなんて、そんなの……さすがに受け入れられるわけがない……っ!
そこら辺のミーハーなご令嬢たち以下だわ。
ただの普通の女の子。冴えない、地味な、特技もない、今は趣味もろくにない、ただのつまらない女の子。
ただ、性格が誰よりも悪いだけ。
……っ、何これ、全然ダメじゃない。最低よ、最悪じゃない!!
私、アルに……大好きなアルに嫌われちゃうわ。
……何だ。僕が頑張って振り向かせようとしていたのは、こんなにもひどい女性だったんだ。
頑張って損した。……ああ、何を僕はこんなに必死になっていたんだろう。
……馬鹿みたいだ。好きになる価値もない人じゃないか。
って、きっと……絶対にそうなっちゃう……!
私はその晩、泣きながら眠れないままぐるぐると考え続けていた。
そして、考えて、考えて、考えて考えて──……
私はついに、ある結論に至った。