Story 8. もうひとつの宝物
授業をする担任の声は、いつものようにきこえているのに、薫にはまったくとどいていなかった。
――ふり返ろうとした歩邑の瞳はひかってみえた。
泣かせてしまった……
薫はとまどっていた。
質問にうまく答えられなかったこと、歩邑を泣かせてしまったこと。
後悔と自責の念が、薫の思考にあふれる。
――なんていえばいい?
どんな顔をして歩邑に話しかければいいのか――まったくわからなかった。
薫はなにもない空中を、みるともなくみていた。
――笑顔がみたい……のに
やるせない思いが、あのときの記憶を呼び覚ましたのかもしれない。
悪ガキどもがあつまっている。
ブランコと鉄製の柵にすわって、なにやら相談している。
「グッアイディァ」
やたらと発音よく、ひとりがいった。
「神かよ」
べつのひとりが同調する。
完全に立ってしまったようだ。
よからぬことを企てているというフラグが。
山並みがカーテンのひだのようにうねりながら東西につづく。
その南面の扇状地につくられたこの町は、ふたつの川にはさまれた地域が古くからの中心部であり、川向こうの斜面にそれぞれ新興住宅地がひらかれていた。
商店街は町を東西につらぬく旧道にあり、おそらくもとは街道の宿場町だったのだろう。ちいさな個人商店が二、三〇軒たちならんでいる。
北に迂回するようにつくられた新道には、スーパーやドラッグストアといったわりに大きな店ができていた。
おだやかな田舎町――
しかし連中は、おだやかではなかった。
例の悪ガキどもである。
大人たちにナイショで、なにかを成し遂げようとしていた。
ヤツらは時間をもてあましているのだ。
いまは夏休みである。
朝から公園にあつまって相談、いや悪だくみしていた結論がついにでた。
裏山の探検にいく――
なんとも子供じみた発想なのだが、本人たちは――想像するだけでわきおこるドキドキとワクワクに、胸を高鳴らせていた。
この町は、北に向えばかならず山にいきあたる。
住宅地の坂をのぼりきったところから、奥へとすすむことに決まった。
上級生をリーダーとして五人は行動を開始した。
つきあたりの家のわきから進入路をさがす。
左は下り道とわかって、右をみると――あった!
間伐などの手入れのためなのだろうか、踏み固められた小径があった。
季節がら下草がしげってあるきにくい。
とおせんぼする植物をかきわけ――棘にやられた。
「痛っ……チッ」
茨でひっかき傷ができていた。
注意不足のじぶんに舌打ちしたのは、いまから二年前の、小学三年生の薫だった。
かれこれ、一時間ほど経っただろうか。
起伏のある、しかも不案内な山道をさまよっている悪ガキどもに、疲労の色があらわれた。
そんなおり謎の建物を発見する。
コンクリート製の四角いその建物は、ドアにはカギがかかって入れなかったが、斜面を利用して屋根にのぼることができた。
われさきに先端まで走っていく。
目に飛びこんできた景色に――息をのんだ。
南にひろがる田園地帯がはっきりとみえる。
その向こうの街並みはややかすみ、はるかかなたの稜線はおぼろににじんでいた。
誰かが始めた。
「やっほー」
つられて、めいめいにさけびだす。
――山登りじゃないっての
薫は文句をいいながらも音頭をとった。
「みんな! せーの」
「やっほー」
なぜか笑いだす悪ガキども。
たわいもない出来事によろこび、笑い、悲しみ、腹を立てる――感情をきらめかせるかけがえのない経験。
ありのままをすなおにうけとめられる子供のころにだけ、手に入れることのできる宝物をまたひとつ、かれらは思い出という宝箱にしまったのだ。
たがいに小突きあいながら笑う。
リーダーが声をかけた。
「落ちるぞ」
「へーきだよ」
屋根の端で足をブラブラさせ、顔だけふり向いて笑ったのは――歩邑だった。
見上げた少女の、大きな目をいっそう大きくみせるカールしたまつ毛。
かがやく白い歯と、漆黒の瞳がまぶしい。
――笑顔が似合う、きれいな子
薫は思った。
おてんばで生キズの絶えない悪ガキ、それでいて品のある美少女――それが歩邑だと。
屋根でふり向いた歩邑と、リュックを抱えてふり向いた歩邑が、薫のなかでかさなりあった――
――笑顔がよく似合う歩邑
それなのに笑顔をうばってしまったじぶん。
情けないじぶん。
あのあと歩邑と――ひと言も話さなかった。
足がしぜんと、歩邑を避けてしまった。
「キーン、コーン、カーン、コーン」
この日、いく度目かのチャイムが鳴り、下校の時間がきた。
クラスメイトたちが三々五々と教室をでていく。
ザシュッ――