Story 38. ひとつのシルエット
「あ、ありがと……」
薫がさしだしたコップを、歩邑はうけとった。
ドクン、ドクン、ドクン――
――どうしよぉ、どうしよぉ……
歩邑のあたまのなかで、ひとりでに――その光景がリプレイされた。
リュックサックから水筒をひっぱりだす薫。
コップの持ち手をつかみ――利き腕で湧き水をくむと、もちかえることなくそのまま飲んだ。
――あたしも……右手で……
ボンッと小爆発がおきた気がした。
ドックン、ドックン、ドックン――
じぶんの鼓動と息づかいだけが耳にとどいていた。
頬を赤らめ、いっぱいいっぱいの歩邑。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ――
カタカタと指先がふるえる。
みんなの視線をさえぎるように背中を向け、湧き水に――
▽ ▽ ▽
おのおのペースをつかんできた。
会話を楽しみながら、一行はゆるゆるとすすむ。
――もたないかも……アハハハ……
ふたつめの休憩所を出発して、一〇分がすぎたころ事件はおきた。
「いたっ――」
ひまりがちいさく悲鳴をあげる。
迷彩したかのように石段にとけこんで伸びた枝が、ひまりのすねをひっかいたのだ。
「……ひまり?」
かけよった歩邑がいっしょに数段のぼり、ひまりを踊り場にすわらせた。
「血がでてる……」
薫がガサゴソと荷物をさぐって、ウェットティッシュとバンソーコーをさしだす。
「ちょっと! なんでもってんの~」
と村瀬が目をまるくした。
だれもがみな、薫の周到さにおどろく。
手当てしてくれた歩邑に礼をいうと、ひまりが向きなおった。
「みんな先いってて。わたし、すこし休んでくよー」
あたしも――といいかけた歩邑を制して、木崎がたずねる。
「誠ちゃん、どうすっぺ?」
「おれか、皆川か、モッチが残って――」
「リーダーは先導!」
と村瀬がわりこんだ。
誠也は疲労のみえはじめた歩邑をさけ、元気のかたまりみたいな薫の肩をたたく。
「たのむわ」
「おけ。展望台で合流だな」
こころなしか歩邑が青ざめたようにみえた。
――やだな……
わきあがる不安に、胸がざわめく。
――へーきだよね……
村瀬が歩邑のうでをとった。
「ずばり疲れてるっしょ~? 歩邑ちゃん、いこ」
「皆川ー、展望台でな!」
――薫……
「ひっぱってってよ~、誠ちゃん」
「それはムリ」
なんともさわやかに、それでいてキッパリと断る誠也。
村瀬をマネて、木崎がねだった。
「ひっぱってってくんね、皆川~」
「それはムリ」
と誠也をマネた歩邑が笑う。
が、内心は――胸騒ぎがおさまらず、おだやかではなかった。
――へーきだよね……
「体力やばめ? だったら、ひっぱってやんよ」
やんちゃな木崎が、歩邑のうでをグッとつかんでひっぱる。
「楽じゃね?」
「それは……そうだけど」
うでを――手を引かれたことで、想いがあふれた。
「あたし、やっぱりみてくる」
ふりはらって階段をかけおりた。
△ △ △
「やらかしたよー」
グーの手をあたまに、ポンとぶつけるひまり。
枝を見落とし、ケガしてしまった――と申し訳なさそうに。
「あれじゃ運がわるいとしか……」
と枝のあたりをみて薫がいった。
そこにあると知っていても階段にとけこんで認めづらい。
「みんなに迷惑かけちゃって。松本には、いつも助けられてるねー」
と、となりにたつ薫を見上げる。
ひまりのまなざしにこもっていたのは――陳謝でも感謝でもなかった。
「おたがいさまだろ」
ニカッと白い歯をみせた。
太陽が空高くのぼっていく。山頂をめざすパーティーと競うように、天頂をめざして。肌をつきさし焦がすはずの夏の光を、階段をおおう雑木がさえぎる。全身から噴きだす汗を、吹きあげる風がぬぐってくれた。
姫カットの髪がふんわりとなびく。
なんの下心もない――ピュアな薫の笑みをひとりじめしたひまりは、ぼうと惚けて放心していた。
▽ ▽ ▽
階段をかけおりる歩邑の胸に、とめどなくわきたつ不安の波紋が、からだじゅうにひろがっていく。
さいごの一段をけって、トンと踊り場にたつと――視界がひらけた。
――!
歩邑はピタリ足をとめた。
耳をつんざくセミの絶唱に、すべての音がかき消される。
あたりをつつむ静止と静寂。
ひとつのシルエットだけが、歩邑の瞳にうつっていた。
ひとりではない、ひとつのシルエットだけが。