Story 32. わからない選択
――んン……?
薫は苦戦していた。
第二回の水泳授業が、曇天のもと行われている。
今日もオリジナル・スタイルのクロールを、練習しようとしているのだが。
――どうやるんだっけ……
どんなタイミングで、どうやって息を吐いていたのか――わからなくなった。
“鼻から吐いて口ですう”を習って、かえって混乱したらしい。
――四回かいて……犬つぎ……だよな
薫は――犬かきの動きをとりいれた息つぎを、犬つぎと呼んでいる。
右左と水をかきながら鼻からプクプク吐きつづけ、犬つぎでパッと水をふきとばして息をすってみた……できた。
――っし! “ぷくぱ”の反復練習じゃい
とゴールした薫がプールサイドを走る。
拡声器のノイズがした。
「松本さん! あ・る・い・て」
薫は注意され、なにげなく上級者グループに目をやる。
楽しそうに舞い泳ぐ歩邑がキラとかがやいていた。
“上体をひねって顔を水の上にだす、だぞ”――
歩邑の声がこころにひびいた薫は、二度目のスタートでやってみる。
右左右とゆっくり息を吐きつつ、左手をのばしながら上体を右にひねった。
――水の中なんですけど……
顔がしずんだままの薫があわてて足をつく。
「ぶはっ」
――いきなりできたら世話ないっての
とナットクして基本にもどる。
――“ぷくぱ”のサイクルは、からだで覚える!
プール休憩の、薫と木崎の話題は息つぎ。
「口で吐くんじゃねえの?」
「“ぷくぷくぱ”から練習だな」
知識をふやした薫が、じまんげに披露していた。
「意味わかんね」
「鼻からプクプク息を吐いて、口をパッとあけて息をすう――のが“プクプクパ”だねー」
と説明したのはひまりだった。
そこが指定席かのように、薫のよこにすわる。
「んなジョーシキ、知るかよ」
「知らないから、息つぎヘタよねー」
「…………」「…………」
ほほ笑みからくりだすひまりの、どストレートをくらった木崎と薫は――ぐうの音もでない。
「手ほどきしましょうか」
「マジ? あざっす」
「ってか、皆川に教わってる」
フフン!――と得意満面の薫。クラス一泳ぎのうまい歩邑の指導をうけているという優越感がありありとみえた。
「それって――」
なにげなく、ひまりがいった。
「歩邑が泳ぐの、ジャマしてないのかなー」
――ジャマ……して……る?
△ △ △
「宿題のカクニンからだぞ」
じゅんび運動をしながら、ひとりごちた。
薫が泳げないときいてアレコレあたまを悩ませたすえ、波乱をこえてつかんだお師匠さまポジション。
歩邑は上機嫌だった。
鼻歌がきこえそうなルンルンの泳ぎがキラキラとまぶしい。
水とたわむれながらクロールするそのすがたは、みるものまで楽しい気分にしてくれる。
となりのレーンの佳奈もだ。
元気むすめ――ひまりのことばを借りれば、“おてんば”のイメージにたがわぬハツラツとした泳ぎっぷり。
案外、泳ぐのが好きな佳奈は歩邑を目標としているらしく、熱心に練習をかさねている。
クラスの男子の注目が、歩邑と佳奈にあつまっていた。
「おまえら、どっち派?」
「皆川、キレーだよな」「ツンな坂井」
「……どっちも! えらべないって」
と休憩中の男子たち。
空をおおった雲が、急速に西から黒く塗りかえられていく。
――ぼくが……うばってる?……時間を
ひざをかかえ、うつむいた薫の――表情はみえない。
おきらくな木崎がさそった。
「モッチもやろうぜ! なあ」
薫のこころのうちに住まう――のびのびと泳ぐ皆川をもっとみたい、あんなふうに泳げるようになりたい、という想い。
その両方をかなえることのできる、ひまりのオファー。
――うばわなくてすむなら……
ピィーーッ!――
柳沢の合図がきた。
▽ ▽ ▽
「――の五分は自由時間にします」
待ちきれない歩邑が、きくが早いか薫をつかまえに走る。
目に飛びこんできたのは――予期せぬ光景だった。
「なに……してるの?」
顔をこわばらせ、しぼりだすようにいった。
ひまりがうれしそうに胸をはる。
「わたしが先生なんだー」
“ぷくぷくぱ”を練習中の薫と木崎。
――ジャマしてゴメン
薫は不器用につくった笑みを、歩邑に向けた。
――気づかなくてゴメン
「やっぱ富永に教えてもらうわ」
顔をふせる歩邑。その目にうつる景色がにじんでいく。
ぽつり、ぽつり、ぽつ、ぽつぽつ――
とうとう降りはじめた。
「終わりにします! みんなー校舎へ」
柳沢のうしろについて、そそくさと退散する子供たち。
ひとり背をむけた歩邑だけが、時が止まったかのように立っている。
「なんで……」
波紋をみつめるその頬を、音もなく、ひと筋のしずくがツーとながれた。