Story 3. こころのなかの光景
こめかみから頬へじりじりとながれた汗が、あごの曲線をすべって床におちる。
「つぎ! お願いします」
東の中空はほとんど闇につつまれ、せっかちな星がすでに瞬いていた。
五月の下旬ともなれば、もうずいぶんと日が長い。
西の地平にしずんだばかりの太陽のほのかな光が、体育館をぼんやりと浮かびあがらせる。
高い窓から照明がもれていた。
キュキュッ! キュッ!
バン! ズシィン!――
シューズとボールの合唱。
こきざみに踏みこむシューズ音と、ゆがんだボールの発する衝撃音が、館内でおこなわれる運動のはげしさを教えてくれる。
バレー部の練習である。
正確には、この小学校の児童だけで構成されたバレーボール“クラブ”だが。
地区大会で優勝するほどの実力をもったチームだけに、練習は熱心だった。
四年生から六年生までの、二〇人弱が励んでいた。
「ラスト2」
「こーい」
選手たちのかけ声が熱い。
練習には歩邑と佳奈、そしてもうひとり同じクラスの富永ひまりが参加していた。
三人ともレギュラーの座をえた強者である。
「ラストー」
六年生エースが上体を反らして跳ぶ。
力いっぱい打ちつけられたスパイクの音が館内にひびきわたった。
コーチが練習終了をつげると、かたづけがはじまる。
最上級の六年生が率先して動いた。下級生たちも負けてはいない。
ボールをあつめ、ネットをたたみ、床にモップをかける――慣れた作業とばかり、てきぱきとこなしていく。
「あたしたちが運びます」
声をかけた歩邑とひまりが、カーボン製の支柱に両手をそえる。
「せーの」「せーの」
二〇数キロはあろう支柱をもちあげた。
意外に力もちなのである、ひまりは。歩邑はいうまでもなかろう。
非力な佳奈は、向こうでボールを拾いおえた。
横一列になったモップ隊が走りだす。
あっというまに清掃をおわらせると、選手たちはそれぞれ帰途についた。
体育館をでて、ちらばっていく。
「おつかれ~」
「お疲れ様でした」
「バーイ」
――練習キツかったあ
湯船に顔を、鼻までしずめて歩邑がぐちった。
おとなが足をのばしても充分なひろいバスタブは、きずついた筋肉を温かにつつみこんで修復をうながしてくれる。
浴室にはイエローとグリーンの色調のグッズがならび、そのさわやかさが疲れた気分をふきとばした。
――もっとうまくなりたい!
向上心がさけぶ。
長丁場に耐えられる持久力、よりコースをねらえるスパイク精度といった、いくつかの課題があった。
――とりま基礎練やるル……ルル……
くちびるをプルプル振るわせると、吐いた息がぽこぽこと泡になってはじける。
なんだか面白くなって、ぽこぽこをつづける歩邑。
はじける泡をぼんやりみていた。
ぽこぽこぼこぽこ……
とらわれるもののなくなったあたまの中に、ふっとあらわれたのは帰り道の光景だった。
天井をあおいで深呼吸する。
――両手で抱きしめた薫のリュック
閉じた双眸のスクリーンに映しだされた、あのときのじぶんがそうしていたように歩邑は抱きしめた。ただし自身のひざを、そっと。
――あたしがあるくと……
うしろから足音がして
リュックを抱えてあるく歩邑。すぐうしろをついてあるく薫。
――ふり返ると……
こっちをみる薫がいて
首だけふり向いてようすをうかがう歩邑。気づいて顔をあげた薫。
視線がかさなる。
――話しかけると……
温かな声が応えてくれる
うしろ向きにあるいて話しかける歩邑。くるくると表情ゆたかな薫。
“あはは、息ぴったりだな”――
無防備な薫の笑顔が、いっぱいにひろがっていく。
いつのまにか、両腕に力をこめていたじぶんにハッとして歩邑はうつむく。
お湯のなかに顔をふせた。
「びっごびごばいんばぼん」
歩邑だけのナイショのことば。
「なんなんだろうね……」
もう一度、天井をあおいでスゥと深呼吸した。
冷やされた湯気が、しずくとなって落ちてくる。
ぴとぅん――
静寂をやぶって脱衣室から声がした。
姉の早倉だった。
「起きてる? ほむ~」
ざぶんと歩邑が立ち上がる。
「いま出ようとしてたとこ」
シューッと中折れドアがひらく。
バスタオルをあたまからかぶった歩邑が浴室からあらわれ、足ふきマットに立った。
「大丈夫だった?」
「んとね――」
数言かわして交代した早倉は、うしろ手にとびらを閉めた。