自惚れと約束
「知っていますか? 腕相撲。肘をテーブルに乗せて互いに手を握り、自分の体側に倒せた方が勝ちっていう簡単な力比べです」
「おまえ、俺を舐めてるのか?」
立ち上るオーラが特別な存在であることを物語る。
初めて出会ったときのような威圧感を彼は帯びていた。
「恐れながら申し上げます。ザイレントの軍って弱いですよね? ディミトリ様であればそんなことは当然ご承知だとは思いますが」
多くの騎士たちが真剣に対人訓練を行っていたのはわかる。
しかし、弱い。
それはおそらく、訓練方法が悪いからだ。
オーバーワークで疲れ切った上に、見たところ怪我をしたまま剣を振っているものも大勢いた。怪我をしたまま訓練をしても変な癖がつくだけだし、なによりも士気が上がらない。彼らの多くはただ怒られるのが嫌だから剣を振るっているだけで、己を向上しようという気概も見えなかった。
それは側から見た感想だけれど、そんなことを指摘されれば関係者としてはムカつくだろう。
「おまえに何がわかる」
「何がわかるか、試せばわかるでしょう」
私は一度右腕を大きく回した。
そして執務机に肘を乗せる。
「まさか勝負から逃げることはしないでしょう。ディミトリ様がそこまで弱虫だったとすれば、今後結婚を了承することはあり得ませんね」
「そこまで言うのだ。おまえが負けたら『はい終わり』では許されないぞ」
「ええ。負けたらディミトリ様の言うことをなんでも聞いて差し上げましょう」
「逆に勝ったら何を望む?」
「言ったはずです。私をもっと、知ってください」
「いいだろう」
メラメラと立ち昇る禍々しいオーラ。
それだけみれば、この人は本当に魔王級だ。なんでこの人があの体たらくの部隊を許しているのだろう。
ディミトリは袖を捲り上げ、腕を露出させた。
適度に筋肉がついている筋張った腕には太い血管が浮いている。私に倣うように執務机に腕を乗せる。細く角張った指をグーパーさせ、その度に血管が生き物のように動いていた。
「後悔するなよ」
「まさか」
私は自分に身体強化の魔法をかけた。エメラルド色に発色するそれは、しかしその素養がない人間には不可視だ。ただ、ディミトリの目が怪訝に歪んだ。なにか感じるものでもあったのだろうか。まぁ、関係ないけれど。
比べれば圧倒的に細いこの腕であったとしても、普通の人間に私が負けるはずがない。
私たちは互いに手を取り合った。
体温の低い、冷たい手。私の熱がきっと彼に伝わっていく。
「では、私が左手をあげたら開始です。いいですね」
ディミトリは何も言わずこっちを見ていた。
それは準備万端の合図。
私は左手を上げた。
——え、嘘。
バン! と私の手は叩きつけられた。
ディミトリは身体強化をしていない生身の人間だから序盤は様子を見ようとしたのは確かだ。でも、こんなにあっさり倒される!?
禍々しいオーラは相変わらず立ち昇っている。
信じられない。
ディミトリ・バルクルスは、とんでもない。
でも、まだだ!
「…………どういうことだ?」
私の手は確かに叩きつけられた。
しかし、それは執務机にではなかった。
握り合った二人の手。私の手の甲は机にぶつかる直前で浮いていた。
不可視の盾。
見えない障壁が私の敗北を妨げ、結果として彼は困惑気に表情を歪めた。
ずるい?
上等。前々世では真面目にやろうとしすぎて死んでしまった。前世はなりふり構わず魔王と戦う中で、綺麗事など無いんだって知ったのだ。
「つまりここからが勝負ということです」
身体強化の段階を上げる。周囲の魔力を集めに集め、自動回復さえ切って私の右腕に集中させる。
みしみし、とリズ・ブラックヴィオラの細腕の芯が音を立てている。
でも、上がった。まだ1センチ程度ではあるけれど、不可視の盾から彼の腕を押し返したのだ!
——いける。
——いける!
ディミトリだってずっと全力というわけにはいかない。
疲れもあるのだろう、2センチ、3センチと徐々に私は戦況を取り戻し始めた。
ディミトリの表情が苦悶に歪んでいた。
すごいよ。あなたはすごい。でも、それは生身の人間としては、だ。
「ぐ……ぐぐ」
「ディミトリ様、わかっていただけますか? あなたは私を、知らないのです」
二人の腕が垂直に立った。
スタート地点まで引き戻したのだ。そしてまだ私に余力はあるが、彼はもう限界のはず。私は魔力を振り絞って、腕を体側に引き倒した。
勝利はすぐそこ。
そう思った。
瞬間だった。
バキリ、と酷い音が鳴って激痛が走り、右腕は力が入らなくなった。
直後に握っていた手が解かれた。
「馬鹿な!」
机をヒョイと飛び越え、出会ったときのように私をお姫様抱っこした。
「な、なんですか!」
「医務室に行くに決まっているだろう! 腕を折るほど本気になるだなんて、おまえは狂っているのか!」
彼の言う通り、私の腕は折れてしまったらしい。
リッサのつもりで自動回復を解いてそのリソースを身体強化に使いまくっていたら、リズの肉体がそれに耐えられなかったのだ。
苦痛と共に、私こそ自分のことをよくわかっていなかったのだと思い知り、とても恥ずかしくなった。
「…………勝負は、私の負けですね」
「そんなものはどうでもいい」
「いえ、一度お約束しましたから。なんでも言うことを聞くと誓いましょう」
彼は私を強く抱きながら、走ることをやめずに言った。
「では一つ」
すでに魔王のようなオーラは消え去り、優しい声で彼は言った。
「おまえのことを、教えてくれるか?」