【SIDE シャルル】リズへの許諾
地下のドアがパタリと閉じて、僕と男が取り残された。
リズだ。
リズが帰ってきた!
僕が婚約破棄した後に、彼女は失踪したと聞いていた。もはや死んでしまったのかとさえ思うこともあった。僕のせいで気に病んでしまったのだ、と。
しかし彼女は、僕の元に戻ってきたのだ!
その事実に安堵しつつ、そうと分かれば新たに気になることも生まれてくる。
彼女はいったいどこで生きていた?
王都から離れ、ノーザウンの辺境で生きていたのだろうか。それは穏健な可能性である。ブラックヴィオラの御令嬢が身を隠し生きていくと知った誰かが保護した、ということだろう。いずれにせよ、その後における見返りを何か要求する可能性はあるだろうが。
しかし、他国に逃れていた場合は後々問題になるかもしれない。なにせリズは屈指の音術使いである上に、武器商会を抱えるブラックヴィオラ家の人間だからだ。その事実はいずれノーザウンにとって脅威になることが確定している。
つまり。
おまえは、誰だ?
筋肉質で姿勢の良い、武闘家のような男。
僕は背の高い男を睨め付けた。
「先ほど市井の商人だと言ったな。なぜリズ・ブラックヴィオラが商人になっている?」
「……おまえ……わかっていないのか」
なんだか見下すように男は僕に悲しげな視線を向けた。
その態度が妙にイライラする。商人の分際で、まるで僕と対等だと言わんばかりだ。
「知らないな。どうせどこの馬の骨ともわからない商家なのだろうが、名乗ってみろ。今回もしパルの呪いを解くことができれば少しは融通してやらんこともない」
「……。もうリズはバレていることだしな」
言うと、男は額のあたりに手のひらをおいた。それを滑らせるように顔をなでると、ぼんやりとした印象だった顔がはっきりと輪郭を持った。
なんだ?
何が起こった?
それは知った顔だった。幼いことから貴族の舞踏会で何度も目にしたことのある男だ。
「ディミトリ……王子……?」
「久しぶりだな。シャルル」
その顔を見て、徐々に物語が繋がり出した。
そうだ。
リズに婚約破棄を告げたあの日。
あのときもディミトリはその場にいたはずだ。
そう言えば、僕に捨てられたばかりのリズに対して他国の貴人が求婚していた、とも。そんな冗談はよくあることだと気にも留めていなかったが……。
「おまえが……リズを攫ったのか」
「ずいぶん人聞きが悪いな。助けたんだよ。不要だったかもしれないがな。……まさかおまえ、リズがどんな目に遭っていたのかも知らないのか」
自分はさもなんでも知っていますと言わんばかりのその態度。
この男は昔からそうだ。
小国の王子の癖に、僕にへりくだることがない。田舎者の癖に。
「し、知らないわけじゃないさ。……ただ、そうさ! 結局ここに、戻ってきたのだろう!」
確かに僕は、リズがいなくなってから何をしていたかは知らない。
しかしここに現れたリズの行動を見れば、今の気持ちを推し量ることは簡単じゃないか!
すなわち、ノーザウンでの暮らしへの復帰である。
パルを呪ったのはリズかもしれないという疑惑はあるものの、現に彼女はパルを助けに来たじゃないか!
それも、ジョセフに剣を突きつけられてまで。
「僕は慈悲深いからな。リズがノーザウンに戻りたいと言うのであれば取り計らってやらんこともない」
不機嫌そうな目でディミトリは僕のことを見た。
それはそうだろう。
僕がその気になれば、リズはあっさりとこちらに戻ってくるはずだ。
「……ところでシャルル。おまえはどうしてリズと婚約破棄なんてしたんだ?」
「そのときにはそのときの事情があったまでだ」
「おまえは本当に——」
ディミトリはため息をつく。
なぜかそういった所作の一つ一つが不快である。
「ものの価値がわからないやつだな」
……いま、なんと言った?
ものの価値が、わからない?
ノーザウン第一王子の僕が?
小さな頃から文武両道で、聖歌学園でもトップクラスの成績を修めるこの僕が?
「田舎王子が、偉そうに! 別にリズを手放したわけではない!」
「ほう……どういうことだ?」
「リズに選択の自由を与えたのだ。彼女はブラックヴィオラの箱入り娘。そとの世界を知ることも必要だろう!」
おい。
おい、なんだ。そんなふうに、ゴミムシを見下すような目で見るのはやめろ!
「まぁ、わかってるさ。おまえは何も知らないから適当なことをいっているんだ。だから別に、保身だけで他意はないのだろう。しかし、おまえがリズに外の世界を見せるために刺客を送ったのだとすれば、俺はおまえを殺しかねない」
「なんと不敬な! ぼ、僕はノーザウンの皇子だぞ! ディミトリ! おまえこそ少し一緒にいたからといって、リズを自分のものにでもしたつもりか!」
「本当にわかっていないな。あれはおまえが自由を与えるものでも、まして俺のものでもない。あれは、もとより自由なんだ」
「い、意味がわからない」
「そもそもおまえ、新しい婚約者がいるのだろう。平民だったか。そいつはどうするつもりだ?」
「もちろん、リズが僕と結婚したいと申し出るのであれば、別れることも考えよう」
それは本当に、あまりにも。
あまりにも楽しそうにディミトリは笑った。
「おまえは本当に面白いな! あっちと別れこっちと別れ!」
「お、おまえだってわかるはずだろう! 国を預かるものであれば、婚姻は重要だと!」
「いいや、わからんな。俺は、リズがいればそれでいい」
なぜ?
そんな清々しい表情ができる?
ここは、敵地だぞ?
しかもノーザウンはザイレントと比べれば圧倒的に大国だ。おまえの首など、僕の気持ち一つで飛ばすことだってできるというのに。
昔から知っているとはいえ、この男は得体がしれない。
しかし、得体が知れないとはいえ、状況は決まっている!
「リズがいればいいだなんて世迷言だ! リズはこれから、ノーザウンに戻ってくるんだぞ! つまりおまえの元に、リズはいない」
僕が言い切ると、ディミトリはやや視線を虚空に逃した後に言った。
「確かに、その可能性もあるな」
「可能性ではない! 絶対だ! ノーザウンとザイレントだぞ!」
「その価値観はわからんが、まあ、本人に聞けばわかる」
聞けばわかる?
その結果リズを失う可能性があるということがわからないのか?
僕はソワソワする時間を過ごしていた。
リズが帰ってきて、目の前には他国の王子がおり、パルが目を覚ますことがあるという。あらゆる可能性が頭をよぎり、結果として何も考えられなくなっていく。
数分が数時間にも感じられる。
それでも。
それでもついにその扉が開かれた。
まず出てきたのはリズだった。
そう、間違いなくリズだ。
扉に入る前はぼんやりとした印象だったが、なぜか今ははっきりと彼女の顔がわかった。
彼女はどうしようもなくリズなのに、どうして最初彼女のことがわからなかったのだろう。
リズは疲れを滲ませていたが、その表情は晴れやかだった。
理由は明白だ。
彼女に続いて、パルがジョセフにおぶられて顔を見せたのだから。
パル。
我が弟であるパル・メルバーティ!
その目は虚ながらも、確かに開かれていたのだった。
「リズ…………やってくれたのだな?」
「ええ。ずっと寝ておられたので体力は落ちていますが、徐々に回復していくと思います」
第一席音術師でさえ解けなかった呪いを。
あるいはカノンでさえも解けなかった呪いを。
リズは解いて見せた!
そして、その理由は明白だ。
すなわち、ノーザウンへの、あるいは僕への忠誠である。
リズは一度ノーザウンを離れた身であるため、彼女なりの有用性を見せる必要があった。おそらく彼女は聖歌学園から離れていようとも日々音術の鍛錬を惜しまなかったに違いなく、その成果こそがパルの覚醒であり、リズがノーザウンに必要な人物だという証明なのである!
きっと、彼女は恐れているはずだ。
自分はノーザウンに戻れるだろうか。
果たしてシャルル皇子は自分を受け入れてくれるだろうか、と。
安心したまえ。
僕は、君の味方だ。
君がこれからノーザウンに再び受け入れられるのはいくつもの困難が伴うだろう。でも、大丈夫。
僕が再び、君の居場所を作ってあげよう。
必要であれば、それは僕の横でも構わない。
「リズ。パルの除術、見事だ」
「ありがとうございます」
「その功績を評価し、再び僕の婚約者となることを許可しよう!」
リズは、ぽかんとした表情を浮かべている。
そうだよな。
あまりの感動に、すぐに意味を咀嚼できないのだろう。しかし言葉通り、君は再び僕の婚約者とな——
「——え、嫌ですけど」
「どどど、どゆこと?」
いま、嫌って言った?
聞き間違いだろうか? しかしこんな簡単な言葉を聞き間違えるか? だとすれば僕の言葉のどこかに嫌な部分があったということだろうか。
ま、まさか!
リズは、カノンの気を使っている!?
リズが僕の婚約者に復帰するということは、確かに反対にカノンはその座から下されるということだ。元々はノブレスオブリージュの染み付いた貴族であるリズは、平民から成り上がったカノンの成功譚の崩壊をよく思わないということか!
素晴らしい!
なんと素晴らしいんだ、リズ・ブラックヴィオラ!
「カノンにまで気を使う、その心意気。感動したよ。しかし僕はね、君と再び婚約することを望んでいるんだ。他ならぬ、ノーザウン第一皇子である僕が——」
「嫌ですザイレントに住みたいですもん」
——嫌ですザイレントに住みたいですもん!
はっきりとした拒絶を理解し、僕は顎が外れそうになった。
こ、この女は、何を言っているんだ?
「き、君はいま、ノーザウン第一皇子の皇太子妃になるというチャンスを不意にしようとしていることを、わかっているのか……?」
情けないことにわなわなと顎が震える。
そんな僕の視界には、さらに理解不能な現実が飛び込んできた。
リズが、ディミトリの腕に抱きついた。
そして、にっこりと笑って言ったのだ。
「私、ディミトリ様と婚約してるので」
僕は立っていられず、膝から崩れ落ちた。
ディミトリは笑うわけでもなく、誇るわけでもなく、どこか気恥ずかしげに視線を宙に彷徨わせていた。




