歌わない音術
夕食時、私はおそらく歓迎されたのだろうし、きっと美味しい料理をたくさん並べてもらったのだろうけど、私はぼんやりするばかりで何も頭に入らないまま過ごしてしまった。
きっと夕食は美味しかったのだと思うけど、私はぼーっとしたまま過ごしていた。
急にキスをされるなんて、聞いてない。
でも婚約者として迎え入れられたのだから、そういったこともあって然るべきなのだろうか。でも、結婚することだって私は受け入れたわけじゃないし。
ふかふかのベッドだったとしてもあまり眠ることもできず朝を迎えた。
仕事もなく、学校にさえ通っていない私には別に役割もなく、なんとなく城内をクーシャと歩いていた。
「お嬢様! ——お嬢様ったら!」
「——な、何かしら!」
クーシャは何か怒ったように私を呼んでいた。
「まったく、何かあったんですか? 昨日からずっと心ここにあらずで」
「ご、ごめんなさい」
ふぅ、とクーシャはため息をついた。
「本当に変わりましたね。お嬢様は」
はい。変わりました。
「以前のお嬢様はそんなふうに私に謝ることなんて絶対にありませんでした」
「ちょっと心がわりがあってね!」
まさか中身が入れ替わったなんて言っても信じられないだろうが、普段一緒にいる人が違和感を覚えるのも当然だ。だとすると私がザイレントにやってきたのは正解かもしれない。
「最近のお嬢様は、とても素敵です。優しくて、なんだか少し変で。あ、もちろん以前の頑張っておられるお嬢様も素敵でしたが!」
リズ・ブラックヴィオラは高飛車で周囲に配慮がない人間として描かれていた。
クーシャも初めてみたときは、なんだかリズに怯えているように見えた。
「以前の私も、素敵だったかしら」
「ええ、もちろんです! そりゃ、たまに怖いこともありましたが……。貴族社会には気苦労も多いと思います。その中で必死に戦っていたことくらい、私にだってわかりますから!」
私はたぶん、リズ・ブラックヴィオラの居場所を奪っている。
本当は彼女のいるべき場所に、私が居座っている。
そして以前のリズを慕っている人がいる。
「もし……さ。私が以前のリズと、実はまったくの別人だと言ったら、クーシャはどうする? ……具体的には、ノーザウンの城で舞踏会が始まる少し前から。それで、ひょっこり新しいリズが出てきて、どっちかについていかないとしたら、クーシャはどっちについていくの?」
クーシャは少し悩むような素振りを見せた。
そして、にっこりと笑った。
「そのときはきっと、ふらっと新しいクーシャがやってきて、二人のお嬢様をそれぞれお支えいたしますよ! 安心してください!」
私はクーシャの言葉に、なぜだか泣きそうになってしまった。
クーシャが二人現れるなんて、あり得ない。それと同様に、リズが二人いることだってありえないんだ。
だから私はリズとして、リズの人生に全力で挑まなきゃいけない。
「ところでお嬢様。お嬢様をお支えするために、ずっと聞きたかったことがあるのですが……」
「何かしら」
「お嬢様は、歌わずに音術を使えるのでしょうか……?」
「歌わずに……音術?」
そんな技術があるのだろうか。もっとも私は、普通の音術さえできないのだけれど。
「それなんだけど、最近喉の調子が悪くって、音術自体あんまり使えないみたいで……」
「そんなはずはありません! お嬢様は歌わずとも、手を光らせて私を元気にしてくださいましたよね!?」
「て……手が光った?」
「ええ! なんというかこう、エメラルド色に……」
おそらくそれは、私が回復魔法をかけたときの話だ。
魔法は大気の中のマナが反応して発動し、マナの反応は発光を伴う。しかし、その発光は才能のあるもの以外には不可視だ。
そう言った話は前世で知ったことだ。
冒険RPGの世界観では、魔法なんて当たり前で魔法使いもたくさんいた。
私は乙女ゲームの世界に蘇ったが、前世の魔法を普通に使えるようだった。これはなんとなく、異世界転生特有のチート能力なのかもしれないと思っていた。
でも、違うとしたら。
魔法というのは普通にあるもので、素養があれば誰でも使えるものだとすれば。
「お嬢様……僭越ながら、私もお嬢様を元気にしてさしあげたいです。私にもその、音術を……教えていただけないでしょうか」




