第8話 赤いカスミザクラと白いダリア 2
※
重い瞼を開けると、白く。何度かまばたきをして、見えたのは知らない光景。
教室ぐらいの大きさの室内。壁と天井は白、濃い茶色の床の上横長のベンチが二列左右に並び。奥には壇上があり、十字架が壁にある。
一度行ったことのある、結婚式をする場所。教会に居るのが分かり。
「どうぞ。お好きに、見ていって下さいね。長崎へはご旅行で来られたんですか」
後ろから聞こえ、振り向くと。出入口の扉が開き、ふたりが入って来た。
「蝶々夫人の初演をミラノで見て、すぐに長崎に来たが。蝶々の様な女性はいなかったので離れ、日本のあちこちで探していた」
「なるほど。見つけることは出来ましたか」
「百年かけても、見つけることは出来なかった。その間に、生魚を克服することは出来たが。鈴谷牧師は、二十九年生きて、成しえたことはあるのか」
そう言ったあすもが、僕の身体をすり抜けて進み。僕は、とても驚きながら、ふたりが壇上に向かうのを追った。
「そうですね。様々なひととの出会いによって、様々な幸せを頂けたことでしょうか。成しえたこととは、違うかもしれませんが」
僕は、ふたりのそば、少し距離をとって立ち。あすもの隣に立つ、見知らぬひとを見つめた。
三十歳くらいの、白いシャツと黒いパンツの男の人。あすもとは正反対、とても柔らかな雰囲気で、見るからに優しそうだなと思った。
「鈴谷牧師。子供を、次の餌をつくり。あと一年で、餌として喰われるのを分かっているだろう。三十年の短い生涯は、餌として飼育された期間だとは思わないか。何も成しえなかったとは思わないのか」
ぴしりとしたスーツ姿で、前髪を後ろに流しているあすも。いつもより、更にうさん臭く見えて。鈴谷牧師に対して、訳の分からない、とても失礼なことを言ったと思い。
僕は、とがめる言葉を吐いたけれど。音にならず、あすもには届かなかった。
僕は、今の自分は透明で、目だけがカメラの様に動くのに気付いた。
「君は、普通の人間ではありませんね。悪魔かな」
そう言ったあと、鈴谷牧師がにこりと笑み。あすもは、眉間にシワを寄せて言った。
「鈴谷牧師。私と契約をするのなら。普通の人間として、寿命まで生きられるかもしれないぞ」
「それは、無理ですね。あなたは、一年後、私を迎えにくるものには勝てない。男は三十歳女は二十五歳まで現世で生き、迎えにくるものに連れていかれる。その時代の災厄ともに行くことは、私の親族の仕事ですから」
「鈴谷牧師。なぜ、戦おうとしない。なぜ、こんな肥溜めのような人間世界の為、己を犠牲にしようとする」
「それは、愚問ですね。私は、人間世界の為とは、己が犠牲にとは思っていません。娘の為に、迎えを待つだけです」
「鈴谷牧師。その、不快な笑みを消してくれないか。なぜ、他人の為に犠牲になろうとする」
「他人ではなく、娘です。私が仕事を果たせば、娘は仕事をしないで済む」
鈴谷牧師は、笑みを消した真剣な顔で。あすもをまっすぐ見つめて、はっきりと続けた。
「先ほど、戦わないのかと問われましたが。私の抗いは、娘に仕事をさせないことです。普通の人間として、幸せに、寿命まで生きて欲しい」
「鈴谷牧師。それは、無理だろう。娘は普通の人間にはない力を持ち、あなたと同じかそれ以上に、とても美味しそうだ」
あすもが、にやりと、とても嫌な笑みを浮かべ。
「お分かりになりますか。親バカだと思いますが、うちの娘はとてもよいこなんです」
鈴谷牧師は、にこりと、強く見える笑みを浮かべた。
「鈴谷牧師。私と契約をするのなら。娘を、普通の人間として、寿命まで生かせるかもしれないぞ」
「どうして、そんなことを言うのですか。そのような契約をしたところで、あなたになんの益があるのでしょう」
「鈴谷牧師。寿命まで生きられたとしても、人間の生はとても短い。だからこそ、益があることをしようとする。私は、人間とは違う。益があることよりも、楽しい暇つぶしをしたいのだ」
「暇つぶしとして、私と契約をし、迎えにくるものの手をわずらわせるのですか」
「鈴谷牧師。些細なことだが、嫌がらせにはなる。天使は、とても強いが、嫌がらせには弱い」
「私は、迎えのものと約束をしたので、娘は大丈夫だと思うのですが」
「鈴谷牧師。あんな美味そうな娘、ほおっておくわけがないだろう。お綺麗ないちゃもんをつけて、連れていくこと。あなたも分かっているだろう」
「ここへ、あなたを迎え入れた時点で。契約をすると分かっていたでしょう」
「鈴谷牧師。あなたの花、魂は、とても美味そうだ。半分頂けば、半年寿命が縮むが。間抜けな天使と神をあざむき、願いを叶えよう」
「私は、悪魔アスモディウスと、契約を結ぼう。娘を、普通の人間として、寿命まで生かしてくれ」
「鈴谷牧師。名乗る前に、私の名を呼ばないでくれ。言えと言う前に、契約の言葉を言わないでくれ。恰好がつかないだろう」
そう言い、あすもは嫌味じゃない笑みを浮かべ。穏やかに笑む鈴谷牧師は、あすもの左手を持ち自分のお腹におさめた。
「それでは、最後の花を頂こう。ラスト・フラワー」
そう静かに言ったあと。あすもは、左手をゆっくり取り出して、光っている手の平を開いた。
「白いダリア。誰からも好かれる、唯一無二の花。花言葉は、『感謝』『豊かな愛情』」
あすもの手のひらの上には、田村のおばあちゃんの白いリコリスに負けない、まばゆく発光する花。
白く丸い短い花弁が、ぎっしりと集まり。円を描いている姿はとても華やかで、いつまでも見ていたいほど、とても綺麗だ。
「皇帝ナポレオンの最初の妻の逸話から、『裏切り』の言葉もある。天使と神に背こうとする、あなた自身のようだな」
「美味そうな花が、私からとれたかい。娘を守ってもらうのに、足らないのなら。全てを持っていってもいい」
鈴谷牧師は、真剣な顔で言い。あすもは、花を一瞬で食べてから、
「これで、充分だ。私に、悪魔に、娘を守らせる気か」
にやりと、嫌な笑みを浮かべて言い。僕は、分かっているのに、言葉を吐いて届かず。
「私は、妻を奪った、天使と神が嫌いだ。悪魔になら、私の愛する娘を託せる」
鈴谷牧師は、にこりと、怖さを感じる笑みを浮かべ。あすもは、瞳を少し大きくし、とても細めた。
「鈴谷牧師。契約成立だ。約束どおり、あなたが愛する娘、明日香のことは任せておけ」
僕は、あすもが言ったことに驚き、突然強い風に包まれ。目を閉じて開くと、違う景色が見えた。
薄暗くて湿った、六畳ほどの古い畳の部屋。家具はほとんどなく、隅に置かれた低い小さなテーブルの上、鈴谷牧師の写真と銀色の布に包まれた箱があった。
「お前、頭おかしいんじゃないの。悪魔とか、契約とか、いい大人が何言ってんの」
僕は、すぐ後ろから聞こえた、高い声に振り返り。
「お前ではなく、アスモディウスだ。一週間前に死んだ、お前の父親と契約をしていた悪魔だ。頭がおかしいとは思うが、怖くはないのだな」
「だから、お前、頭おかしいんじゃないの。お父さんが死んで大変なんだから、さっさと出て行け」
「目上の人間に向かって、お前とは。十三歳にもなって、礼儀がなっていないぞ。鈴谷牧師に化けて、怒ってやろうか」
立ったまま、にらみ合うふたりが見え。あすもの向かいに立つ、小柄なセーラー服の女子の顔にとても驚いた。
「まったく、父親に似ず、不遜で口が悪いな。これから、私と一緒に暮らしてくうち、きちんと調教してやろう」
「何、言ってんの。私は、ひとりで、天使どもと戦って生きてくの」
「私のことは、聞かされていなかっただろうが。鈴谷牧師、父親から、自分に課せられた運命を聞かされているだろう。明日香、私が、天使からお前を守ってやろう」
あすもに明日香と呼ばれた、仏壇の写真より若く見える。僕の母さん、明日香は、あすもを思いきりにらみつけて言った。
「いらない。天使は嫌いだし、悪魔も嫌い。私は、お父さんの言っていたとおり、普通の人間でいるの」
「普通の人間では、天使に勝てない。明日香は、二十五歳で、人間の死後の世界には行けず天界に連れていかれる」
明日香は、「うるさい」と言い。背中を向けて、隣の台所に入り。皿を手に戻り、あすもに投げつけはじめた。
「出て行け! 私は、ひとりで生きていく! 天使が嫌い! 悪魔も嫌い! みんな、大嫌い!!」
「娘が、普通の人間として生き、寿命を迎えること。鈴谷牧師の願いを叶える代わりに、半年の寿命を先払いしてもらった。契約どおりに、天使への嫌がらせの為に、明日香を生かしてやろう」
明日香が投げた、お寿司を全部よけ。あすもは、にやりと嫌な笑みを浮かべて、楽しそうな声で続けた。
「私が、悪魔アスモディウスが、生魚が苦手で逃げると知っていたのか。残念だが、日本に長くいて美味いものを食べ続け、生魚は好物になっている」
明日香は、怒りをあらわにした顔で、皿を持つ手を上に上げ。僕は、無駄なのに、届かない制止の声を上げた。
「どうした。父親と過ごせた半年を、私はとりあげたんだ。怒りを暴力でぶつけられても、私は構わない」
あすもが、笑みを消した顔で言い。明日香は、皿を畳みの上に落として、ぐしゃりと崩れた。
「明日から、私は、ここに越してくる。遠い親戚、鈴谷あすもとして、明日香の面倒を見てやろう。今日のうちに泣いておかないと、明日から、私に泣き顔を見られることになる」
明日香が顔を上げると、あすもは玄関の扉の向こう。立ち上がり、怒りに染まった顔で扉に近づき。
「……勝手に、決めるな! 二度と来るな、悪魔!!」
明日香は、扉に向けて、思いきり皿を投げつけ。僕は、思わず目を閉じて、
「意地をはって公園で寝泊まりをし、熱を出し倒れていたところを、連れて帰られた気分はどうだ」
目を開き、あすもの声が聞こえた後ろに向くと。畳に敷かれた布団の上、布団をかけた明日香が真っ赤な顔で寝ていた。
「……最悪に、決まってる。……勝手に、あんたがここに連れて帰って来たから。……勝手に、私のこと決めないで」
「分かった。とりあえず、眠りなさい」
布団のそばに座る、あすもが明日香の両目を片手で隠し。とても、小さく聞こえてきた。
「……お父さん、……どうして、いなくなっちゃったの」
「明日香を生かす為だ。眠りなさい」
「……私、ひとりで。……どうしたらいいか、分からない」
「生きなさい。父親の願いを叶える為に」
少しして、あすもの手の下、明日香の頬に涙がつたい。僕は、胸がぎゅっとなって、視界がぼんやりと歪み。何度かまばたきをすると、目の前を、白い花びらが通った。
「本当に、高校に行かなくても良かったのか。今からでも、私の力で、どこへでも入れるぞ」
温かく感じる日差しが、開いた窓から差し込み。畳の上、明日香が長そでのセーラー服で大の字に寝転がり。そばに座るあすもは、うさん臭くないスーツ姿で眼鏡をかけている。
「いつも、言ってるでしょ。私は、あすもの力は、出来るだけ使いたくない」
「私の仕事を手伝うことを、これからは専業にしたらいい。私の屋敷に来ればいい」
「いつも、言ってるでしょ。私は、あすもの仕事を手伝いたくない。自分ひとりで、生きていきたい」
「中学を卒業したが、本当に、働きながらひとりで暮らせるのか。グラバー園の土産屋の給料など、しれているだろうが」
「あすも。明日から、私と一緒に住めないの。寂しいの」
あすもは、ぽこりと、明日香の頭を黒い筒で叩き。窓に向いて、明日香に背を向け言った。
「この部屋は、古くて、狭く。この私が、二年も住んだのが不思議なところだ」
「いつも、言ってたでしょ。いつでも、出ていっていいって」
「この部屋の窓から見える、景色がよかったからだ。春は、特によかった」
明日香は上半身を起こして、あすもの隣に座り。ふたりは、窓の外、桜の花と青空を見つめ。
「卒業おめでとう。明日香のこれからが、幸多きように」
「何、それ。柄にもないこと言わないで」
「鈴谷牧師が生きていたら、言っていただろう。今だけ、私を身代わりにしてもいい」
少しして、明日香は、涙声で「何それ」と言い。あすもの肩に、頭を乗せた。
僕は、ふたりを見ていると、胸が温かくなるのを感じ。目の前を、白い桜の花びらが舞い。ぼうっと、火にくるまれてしまった。
僕は、驚き、目の前の光景が変ったのに気付いた。
薄暗い、知らない山道の風景。地面のアスファルトに、雨が強く叩きつけられている。僕は、目線を上げて、どくんっと透明の心臓が鳴った。
目の前には、前がへしゃげ窓ガラスが全て割れた、ひっくり返っている乗用車。そばのガードレールがへこんでいて、ぶつかったあとなのが分かり。車に顔を向けると、どおんっと大きな音を立て、オレンジと赤と煙に包まれていった。
僕は、透明なはずなのに、火の熱さとオイルの匂いを感じ。
「ちくしょう。にちかの誕生日に、旭さんとにちかを巻き込むなんて。天使のやつ、許さない」
後ろから聞こえた、怒りが強くにじんだ声に向くと。仏壇の写真のまま、母さんが雨に打たれ、顔を下に向けて立っていた。
「些細な嫌がらせを企てたことに、罰を下したんだろう。明日香、すまない。私は、鈴谷牧師との約束を守れなかった」
母さんの隣に、あすもが立ち。母さんは、とても小さな声で言った。
「……私、普通の人間として、生きたかっただけなのに。……旭さんと、にちかと一緒に、歳をとりたかっただけなのに。……何で、お父さんと同じ様に、餌にならないとダメなの」
「産まれる前から、決められていたからだ。二十五歳まで人間世界で過ごし、天界に連れていかれること。天使の餌になることは、どうやったって、決まっていたからだ」
あすもが平坦な声で言い。少しの間のあと、母さんが、とても小さく言った。
「……あすも。……私を、普通の人間として生かしてくれるって、言ってたよね。……私を、裏切ってたの」
「鈴谷牧師の寿命を半年に縮めたのは、契約をする為ではない。天使に、小腹が減ったから美味い魂を喰いたいと、急かされたからだ。人間世界で、明日香を二十五歳まで生かすこと。天使に縛られた悪魔である、私に、課せられた仕事だった」
「……あすも。……私を、裏切ってたの」
「植物と同じで、美味い人間の魂は、人間世界で辛い想いをさせると更に美味くなる。食べ頃は、男は三十歳で女は二十五歳。悪魔よりも、天使は舌がこえている。明日香の家系の人間は、とても美味いと評判だ」
母さんは、「ひどいよ」と、とても小さく言い。先ほどの車の様に、黒い炎に包まれた。
「明日香は、父親より美味いだろうから。大事に育てる様言われていた。さあ、最後の花を、取り出させてくれ。天使への点数稼ぎを、私にさせてくれ」
「ふざけるな」と、人間のものではない声のあと。あすもが、黒い火に一瞬で包まれた。
「ふざけてなどいない。私は、悪魔で、魂を食べるもの。天使と同じ様に、人間は餌としか思っていない。楽しい暇つぶしのおもちゃにしか思えない」
黒い炎の中から、あすもの平坦な声が聞こえ。僕は、ガラスをひっかいたときの様な、快くない大きな音が聞こえ。目を閉じて、開き。
ぼろぼろで、地面にうつぶせに伸びた母さんが見えて。そばに立つ、あすもが嫌な笑みで見下ろし、とても楽しそうな声で言った。
「悪霊になれば、私に、天使に勝てると思ったか。悪霊になれば、とても美味い花を、取りだされるだけだ。大丈夫だ、娘は生かしてある。人間界で二十五歳まで生かし、明日香の様に辛さを与え、悪霊になってから花を頂こう」
僕が、透明な足で、母さんに駆け寄る前。あすもが、背中に足を振り下ろし。母さんの身体は、さあっと消えてしまった。
「残念、父親と同じ花か。お前の育て方が悪いせいだと、天使に文句を言わなければいいが。まあ、娘をもっと美味く育てると、てきとうに言っておけばいいだろう」
そう言いながら、地面で光る『白いダリア』を手に取り。
「父親の、半年分の魂をかけた、悪魔との契約。娘の、疑似親子の様な、悪魔との共同生活。娘の娘の、これからの物語。三部作で、物語を終えることにしよう。楽しい暇つぶしが、もう少し出来そうだ」
あすもは、にやりと、とても嫌な笑みを浮かべた。
僕は、もう、何も見たくなくて。透明なのに濡れているのを感じる目を、とても固く閉じた。
第8話 赤いカスミザクラと白いダリア 2 了