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第6話 マダガスカルジャスミンのテディベア


   ※


 あすもとふたりでレストランに行った、翌朝。僕は、雨の音で目が覚めて、自分の部屋で寝ていた。


「おはよう。昨日は、大変だったみたいだな」


 一階に降りて、居間に入ると。新聞を読んでいた、じいちゃんがこちらに向いた。


「着替えて、顔を洗ってきなさい。朝飯、フレンチトーストだ」


 僕は、ぱあっと気分が明るくなり、言われたとおりにして居間に戻った。


「ほら。メープルシロップ、好きなだけかけていいぞ。おかわりもいいぞ」


 目の前のちゃぶ台の上、出来立ての皿を置かれ。僕は、「いただきます」と言い、フォークを持ってひとくち食べた。

 じいちゃんが作ってくれる、高級ホテルのレストラン仕込みのフレンチトースト。

 中はしっとり、外はかりかり。優しい甘さで、子供のころからの大好物だ。

 シロップをたっぷりかけて、ぺろりと食べ終えてから。牛乳をごくごくと飲んでいると、


「昨日、雷で、レストランの庭の木が倒れたろうが。そこから、人間の骨が発見されたらしい」


 じいちゃんが固い声で言い。僕は、むせてしまった。


「まだ、ニュースにはなってないが。一年前、レストランのオーナーが埋めた。自分の父親が見つかった」


 僕は、ごほごほと咳をくり返してから、口を開いた。


「……何で。じいちゃん、知ってんの」


「昨日の夜、にちかを帰しにきた。あすもから事情を聞いて、怒っておいたからな」


 「おかわりは」と、じいちゃんに聞かれ。驚いている僕は、首を左右に振った。


「今日は、あすもの家に行ってきなさい。土曜だが、店の手伝いはいい」


 僕は、制服に着替えてしまったのに気付いて、「何で」ともらし。じいちゃんは、新聞を読み始めてしまった。

 じいちゃんの言うことは、絶対。僕は、今日が休日だと気づかず、着替えた制服のまま。土砂降りの雨の中、田村のおばあちゃんの家に向かった。


『いらっしゃいませ。にちか様、お待ちしておりました』


 玄関に入ると、タウとラムが声をそろえて出迎えてくれ。相変わらず、結婚式に行くような恰好で、角がなかった。


「……タウ、ラム。この間は、看病してくれて、ありがとう」


「お礼を言って頂いて、ありがとうございます。ぬれた足を、どうぞ、おふきになって下さい。新しい靴下をどうぞ」


 右に立つ、黒髪のタウが、はきはきと言いながらタオルと靴下を渡してくれ。


「お礼~、うれしいです~。ラムはお茶を淹れるので~、お好みはありますか~」


 左に立つ、白髪のラムが、ふにゃりとした声を上げてにこりと笑んだ。


「タウ、ありがとう。ラム、分かんないから、まかせるよ。……ふたりとも、この家に居るのに、角ないね」


「もうひとり、お客様がいらっしゃってますから」


「一時間前から~、ご主人様と~、ずっとにらみ合ってます~」


 僕は、「えっ」ともらして、ふたりに急かされ玄関に上がり。ふたりと別れて、長い廊下を進んで居間に入り。


「……何で、ここに居るの」


 田村のおばあちゃんが居た頃と違い、変に華美になった部屋の中。ソファセットに座る、幸雄に声を上げた。


「にちか。おはよう。ちょっと、黙って、待っててくれ」


 幸雄は、僕を見ず、目の前を見つめて言い。


「にちか。おはよう。本当に、しつこいな。いくら集中しても、私には勝てない」


 幸雄の向かいに座る。あすもが、僕ににやりと笑んだ顔を向けた。


「……何、してんの。何で、幸雄がここに居るんだよ」


「見てのとおりだ。一時間ほど、オセロを楽しんでいる」


 ふたりの間、テーブルの上にはオセロの盤があり。幸雄は、盤を穴が空きそうなそうなほど見つめている。

 どう見ても、楽しんでいる様には見えず。


「……どうして。ここに、幸雄が居るんだよ」


「今日、三隈幸雄が住む寺に赴き、招待をしたからだ。チェスに将棋に囲碁を知らないというから、オセロをしている」


「……どうして。幸雄、ここに来たんだよ」


 幸雄は、盤に白い石を置き、黒を白に返しながら言った。


「俺と、話がしたいと言ってきたからだ。ここに来て、話にならなかったから。ゲームで決めることにした」


「三隈幸雄は、ゲームに負けたら、にちかのそばから離れるよう言ってきた。だから、勝ち続けている」


 そう言ったあと、あすもは黒い石を盤に置き。白を全て黒に返してしまった。


「三隈幸雄。私の勝ちだ。何度やっても、私に勝つことは出来ない」


「自分が勝つまで、やります。誘ったのは、そっちでしょう」


「三隈幸雄。本当に、しつこいな。そんな風だと、にちかに嫌われてしまうぞ」


「あなたは、大人のくせに。俺に対する態度、大人気ないと思いませんか」


 「思わないね」と、あすもがとても嫌な笑みを浮かべて言い。顔を上げた幸雄が、あすもをじっとにらみ。ふたりに声をかける前に、電子音が部屋に響いた。


「にちか。こっちに来なさい。いいものを見せてやろう」


 僕は、幸雄の隣に座り。あすもは、瞳を少し大きくして、細めたあと。予想外の機械を渡してきた。


「その機械に、この辺りの、仕事相手の情報が送られてくる。その機械で、仕事相手の情報を知ることが出来る。赤いしるしを押せば、情報が出てくるぞ」


 渡されたタブレットには、この辺りの地図が映り。そう遠くない場所、新神戸駅の辺りに赤いしるしが点滅している。


「あなたは、ちゃんと仕事をしてるんですね」


 幸雄が、タブレットを横から見ながら言い。僕は、慌てて、あすもに返した。


「しているとも。昨日は、にちかを付き合わせてしまい、光太郎にきつく叱られ。ついでに、三隈幸雄と交流をするよう言われた」


 あすもが、笑みを浮かべて言ったことに驚き。


「にちかと居たいのなら、危険な目に遭わせず。にちかの周りの人間とうまくやるよう言われた。にちか、昨日は、悪かったな」


 僕は、じいちゃんがあすもに言ったことと、謝られたことにとても驚き。


「どうして、にちかのそばに居たいんですか」


 幸雄が言ったのと、同じことを思った。


「私は、にちかが産まれたときから、よく知っている。十年待って、そばに居られるようなった」


「質問の答えになってません。どうして、にちかのそばに居たいんですか」


「答えは、三隈幸雄と同じだ。理屈ではなく、心が求めるからだ」


 幸雄は、少しして、とても小さく言った。


「俺は、同じ歳だけど。あなたは大人で、ダメでしょう」


「最近法律が変わって、十八歳になったが。にちかの母親と約束をしたときは、十六歳だった。だから、あと三年待つさ」


 幸雄は、ぐるっと、僕に顔を勢いよく向けて言った。


「にちか。こんなやつで、いいのか。にちかは、どう思ってるんだ」


 僕は、先ほどからのふたりの会話に、聞かれた意味が分からず。


「三隈幸雄。お前、分かっているな。光太郎から聞いたか」


「俺は、にちかに初めて会ったときから、分かってた。光太郎さんに聞いたら、誰にも、にちかにも言うなと言われた」


「では、私のことも分かるのか」


 ふたりは、更に、分からない話を続け。あすもの幸雄への質問に、どきりとした。

 幸雄には、普通の人間でないものが見えることは、十年前出会ってすぐに話してあるけれど。あすものことを言うつもりはなかった。

 口止めはされていないけれど、言うことではない。そう思っていたのは、なぜか。

 考えていると、


「にちかに、近づいて欲しくないひとだ。心で、思います」


 隣の幸雄が、とても固い声で言い。


「三隈幸雄。とてもいい答えだ。では、近づかないほうがいいものか。今から私の仕事に付き合ってもらい、決めてもらおうか」


 あすもが楽しそうな声で言ったあと、幸雄が「はい」とはっきり言って、とても驚き。あすもは、とても嫌な笑みを向けてきた。


    ※


 屋敷の外に出ると、雨は上がっていた。行かない提案は出来なかった。

 タウとラムが作ってくれたお弁当。持ってくれた幸雄は、ひとことも喋らず。

 幸雄の隣で、僕は口を開けず。あすもは鼻歌を歌い、僕たちの前を歩き。

 三人、静かなまま歩き。あすもが今日の仕事場だと言った、新神戸駅に着き。

ハーブ園に向かうと言われ、三人でロープウェイに乗ることになった。


 僕は幸雄と並んで、向かいにあすもが足を組んで座り。鮮やかな赤の枠以外足元も透明なゴンドラが、上に向かって動きはじめた。


「聞くのを忘れていたが。ふたりとも、高所恐怖症ではないのか」


「違います。俺に、にちかも、大丈夫です。知らなかったのに、ゴンドラに乗せたんですか」


「そんな風に、私より、にちかを知っていることを強調されても。私は、三隈幸雄と違い、苛立つことはない」


「大人ですからね。大人なのに、にちかのそばに居たいの、ダメだと思わないんですか」


「三隈幸雄。私は、そばに居たいだけだ。何か、誤解をしていないか」


「さっき。俺と同じだと、言っていましたから」


「なるほど。三隈幸雄は、にちかに、よこしまな目を向けているのか。だから、私を警戒するのか。見た目通り、成長が早いのだな」


 そう言って、あすもは、幸雄にとても嫌な笑みを向けた。

ふたりが、どうして言い争っているのか。僕のことを言っているけれど、意味が分からず。


「あすも、幸雄に変なこと言うな。幸雄、あすもの言うこと聞くな」


 とりあえず、そう言ったあと。ふたりは黙って、僕は大きく息を吐いた。

海と街並みと山、ゴンドラの中からよく見渡せる、曇り空の下神戸の景色を見ながら。幸雄とあすも、ふたりが仲良くなることは無理だろうなと思った。

 静かになった、ゴンドラが着き。


「にちか。今日は、探し物の仕事を手伝ってもらう。園の中を探してもらうが、にちかなら分かるだろう」


 そう言った、あすもが先にゴンドラから出て。僕は幸雄と続き、ハーブ園の門をくぐった。

 園に入ると、西洋のお城みたいな建物と花と緑が溢れた景色。薄曇りの下、濡れた色鮮やかな景色は綺麗だなと思った。


「ふたりは、腹ごしらえをしたらいい。ここで、ふたり居なさい」


 園に入ってすぐ、屋台やおみやげ屋さんが並び、眼下の景色を見渡せるテーブルと椅子が並ぶ場所。雨が降っていたからか、ぽつぽつと家族連れやカップルが座り、穏やかな休日を過ごして居る。


「弁当を、見張っておいてやるから。これで、飲み物を買ってきなさい」


 プラスチックのテーブルについた。場違いに見える、今日は、とてもうさん臭く見えるあすもが言い。

 紙幣を渡され、テーブルに荷物を置き。幸雄は無言で屋台に向かった。


「幸雄を、パシリに使うな。何で、ふたり、仲悪いの」


「にちか。座って待ちなさい。どうして、三隈幸雄に、私のことを話していなかったのかな」


 質問を質問で返され。僕は、あすもの向かいに座り、まだ出ていない答えを言えなかった。


「見えることを、三隈幸雄は知っているんだろう」


 口を開く前に、あすもがにやりと笑んで言い。僕は、今日、あすもは嫌な感じに戻っているなと思い。


「……最後の花で、出会ったひとたち。今までと、全然、違うから」


 話さなかった訳を、ぼんやりと答え。


「なるほど。三隈幸雄を、巻き込みたくなかったのか。危険な目に遭わせるかもしれないから」


 僕は、あすもが言ったことに、そうだったのかもしれないと思った。


「だがしかし。私は、光太郎から、三隈幸雄と良好な関係を築くよう言われた。にちかの本意でなかろうと、そうしないと、家に入れないと言われてしまった。にちかとの契約のことを言わずに、腹を割って話せば、三隈幸雄と関係を築けると言われた」


 僕は、じいちゃんが言ったことに、とても驚いた。


「私は、三隈幸雄と関係を築くことなど、どうでもいい。にちか以外のことなど、どうでもいい。人間社会のルールなど、どうでもいい」


 あすもが楽しそうな声で言い、僕が口を開く前に「だがしかし」と続けた。


「ルールが厳しいゲームのほうが、楽しいものだ。勝ちだけのゲームほど、つまらないものはない。先ほどは、本当につまらなかった。三隈幸雄と仲良くなるというゲーム、楽しませてもらおう」


「……ゲームとか言うな。幸雄に、変なこと言ったり、変なことするな」


「私は、三隈幸雄に対して、自分をずいぶん抑えて接している。光太郎に言われたとおり、腹を割って話している。大人気がある、優しい態度をとっていると思うが」


「とってない。幸雄に、僕よりも意地悪だ」


「仕方がないだろう。にちかの好意と信頼を得ている相手に、これ以上は、穏やかな態度はとれない」


「分かりやすく言って。あすものせいで、幸雄と変な感じなんだからな」


「私は、三隈幸雄が、私よりにちかと仲がいいことが気に食わない。変な感じとは、どういうことだろう。私は、三隈幸雄とにちかの仲が壊れること、とても嬉しい」


 僕は、あすもが言ったことに、とても驚き。


「本当に、大人気ないですね。壊れてもいないし、変な感じではありません」


 そう言って、幸雄が、僕とあすもの前にペットボトルのお茶を置き。僕の隣に座り、ペットボトルのお茶をごくごくと飲んでから。


「昨日、俺は、あなたに言い過ぎました。そのことを、にちかに言われて、拗ねていただけです」


 幸雄は、「すみません」とはっきり言い。あすもは、両目をとても細くして、「昨日」と言った。


「にちかとふたりきり、ディナーを楽しんだことしか覚えていないが。三隈幸雄、そういった素直な態度は、素晴らしいと思う」


「ありがとうございます。俺も、あなたと、にちかの仲が悪くなるのは嬉しいです」


「にちかと十年一緒に居られたこと、当たり前に思っているだろう。これからも続くと思っているだろう。そんなものは、幸運な偶然だ」


 また、はじまったと思ったとき。あすもが立ち上がった。


「ふたりで食事をしておきなさい。私は、仕事に行ってくるから。にちか、サンドウィッチに日本茶を選ぶような、三隈幸雄としばらく一緒に居なさい」


 僕は、あすもがすたすたとテーブルを離れていき、ほっと息を吐いた。

 とても遠くから、救急車のサイレンが聞こえ、


「にちか。サンドウィッチに日本茶はダメだったか。ほかのが良かったら、買ってくる」


 隣から固い声が聞こえて、顔を向けると。幸雄が真剣な顔でいて、僕は鼻をつまんで言った。


「あすもの言うことなんか、聞くな。どうしたの。あすもと居ると、変だよ」


 鼻から手を離すと、幸雄は顔を下に向けた。


「変になって、ごめん。でも、あいつの言うとおりだと思った」


 珍しく、歯切れの悪い、小さい声を上げたあと。幸雄は頼りない声で続けた。


「にちかのこと知ってるの、光太郎さんと、俺だけだったから。でも、あいつは、にちかのことを知ってた」


「……幸雄に見えないものが、見えること。僕が、あすもに教えたわけじゃない」


「そっちじゃない」と、幸雄が言い。とても固い表情を浮かべた顔を上げて続けた。


「あいつは、知ってて、俺と同じだって言った。あいつは、にちかをさらいにきたように思う」


 僕は、口を開けず、今更疑問に思った。

 あすもは、どうして、僕の前に現れたんだろう。


『私の名前は、鈴谷あすも。明日香と約束した、対価を頂く為に。これからは、私がそばに居よう。最上にちか、十年待った私に、対価を差し出すときがきたぞ』


 二週間ほど前。突然、目の前に現れた日。あすもは、目の前で『最後の花』を取り出して食べ、楽しそうに言ったのを思い返し。


「……さらいにはきていない。……でも、差し出さなきゃいけないって」


 ぼそりと言うと、「にちか」と強く肩を持たれた。


「あいつを、どう思ってる。俺は、一緒に居ないほうがいいと思う」


 僕は、言われたことに、答えることが出来ず。まっすぐな目を向けてくる、幸雄の肩に乗ったものに気付いた。


「にちかしゃん。みつけましゅた」


 幸雄の肩の上に立った。白くて、ふわふわしている。手のひらほどの大きさの、くまの小さなぬいぐるみ。

 ぬいぐるみが甲高い声を上げたあと、左手の甲にびりっとした痛みを感じた。


「にちかしゃん。ぼくと、きてほしいところがあるのでしゅ」


 閉じてしまった目を開くと、僕の太ももの上に居た。ぬいぐるみが、黒く丸い目を向けて続けた。


「にちかしゃんにしか、ぼくのすがたはみえないでしゅ。あくまにみつかるまえに、さいごのはなをとられちゃうまえに、いきたいのでしゅ」


 ぬいぐるみには、三角の茶色い鼻はあるけれど、口はない。どこから声を出しているのだろうと思い。


「にちか。どうした。もしかして、何か見えてるのか」


 幸雄が、心配そうな顔で言い。僕は、「トイレ行ってくる」と返し。ぬいぐるみを両手に包んで、席を立った。

 土砂降りのあとだけれど、土曜だからか園にはひとが多く。僕は、花と緑が溢れる園をしばらく歩き、人気のない花壇の前で止まった。

 両手をゆっくり開くと、


「にちかしゃん、やさしいでしゅね。ぼくのいもうとには、かないましぇんが」


 両手の中に立つ、ぬいぐるみが両手をぴこぴこ揺らしながら言い。白くなりかけている頭で、なんとか口を開いた。


「……君は、魂なんだよね。なのに、何で、そんな姿なの」


「にちかしゃん、ぼくは、かわいいでしゅか」


 白い、ふわふわした。小さなくまのぬいぐるみが、黒い目を向けて言い。

 僕は、こくりと頷き。ぬいぐるみは、両手をぴこぴこ揺らした。


「ぼくのいもうとは、ぼくを、かわいがっていたんでしゅ。だから、このなかにいたんでしゅ。でも、もう、いらないんでしゅよ」


 僕は、ぬいぐるみが言うことが分からず。普通の人間ではないものを、物心つく頃から見ていたけれど。初めて見る姿だと思った。

 僕にしか見えない、普通の人間ではないもの。透けている人間の姿かひとの黒い影で見え。今、両手の中に居るぬいぐるみの様な、かわいらしい姿はなかった。


「にちかしゃん。ぼくを、いもうとのところに、つれていってくれましぇんか」


 僕は、左手の甲にぴりっとした痛みを感じ、「どうして」と言った。


「あくまに、さいごのはなをとられるまえに、あいたいからでしゅ。にちかしゃん、おねがいしましゅ」


 ぬいぐるみが、ぴこぴこと両手を動かし。かわいらしい姿と動きを見ていると、左手の甲がずくずくとうずくのを感じた。


「……あすもは、今日、ここに仕事をしに来たと言ってた。君の花を、とりに来たんだと思う」


「しってましゅ。あくまと、にちかしゃんがきたのも。おしえてもらったから、しってましゅ」


「……君は、妹さんに、何をしに行きたいの」


「にちかしゃん。ぼくのおねがい、きいてくれないんでしゅか」


 最後、ぬいぐるみの声が、ぼわぼわしたものに変わり。突然、ぬいぐるみがはじけて、頭からすっぽりと包まれてしまった。

 身体を包むのは、ふわふわしたもの。知らない花の匂いが強く香る、とても薄暗い中で、全身の温度が下がっていくのを感じ。


「きいてくれないのなら、たべたらいいといわれたのでしゅ。にちかしゃんは、とてもおいしいそうでしゅねえ」


 ぼわぼわした声が聞こえ、冷たい身体がしめつけられるのを感じた。


「ぼくは、にちかしゃんをたべたあと、ぼくのいもうとをさらったやつをたべるんでしゅ」


 僕は、頭が真っ白で、息が苦しくなっていき。


「おしえてくれた、あくまにかんしゃでしゅ。ぼくは、いもうとと、ずっといるんでしゅ」


 ぼわぼわした声が楽しそうに言い。どうしたらと思い、


『普通の人間ではないものが寄ってくれば、左手の甲で感じることが出来る。感じても、無視をしておけば大丈夫だが。何かあれば、私の名前を呼べばいい』


 昨日言われたことを思い返して、口を開いた。


「……あすも。ぬいぐるみのひとに、ひどいことせずに。助けろ」


「呼べばいいと言ったが。もう少し、かわいらしく言ってもいいのではないか」


 そう、嫌な笑みのときの、あすもの声が聞こえ。息の苦しさがなくなり、冷たさに包まれた。


「にちかは、とても、役に立ってくれるが。やり方を指定されるのは、面倒に思うよ」


 僕を水平に抱く、あすもがにやりと笑って言い。包まれていたものから、出られたのが分かり。園の風景が見えて、ほっと息を吐いた。


「……面倒とか言うな。僕は、あすもの役に立ちたいわけじゃない」


「面倒だが、嫌だとは思わない。私は、にちかに頼られること、どんなことでも嬉しく思うよ」


 嫌な笑みに、降ろせと言う前。


「にちかしゃん。ぼくのおねがい、きいてくれないんでしゅか」


 甲高い声が小さく聞こえて、顔を向けると。地面にうつぶせで落ちている、小さなぬいぐるみが見えた。


「にちか。あれを踏みつぶして、花を頂いてもいいか」


 あすもに、「ダメだ、降ろせ」と言い。地面に両足がついて、ぬいぐるみのそばに立った。


「君の、妹さん。この園のどこに居るの。あすもが最後の花をとる前に、会いにいこう」


「にちか。先ほど、食べられそうになったのに。無駄な情をかけるのか」


 僕は、あすもの声を無視して、小さなぬいぐるみを両手でひろった。


「連れていくから、最後に会おう。変なことしないって、約束出来るよね」


 ぬいぐるみは、背中をむけたまま、「しましゅ」と言った。僕は、場所を聞き、あすもに案内されて向かった。

 着いたのは、六角形の屋根のホール。定期演奏会の看板があり、中に入るとピアノの演奏が聞こえてきた。


「今演奏されているのは、ランゲの『花の歌』。グスタフ・ランゲは、ドイツの作曲家でピアニストだ。同じ時期に活躍していたのはブラームス。400曲以上あるランゲの曲の中、『花の歌』はいつの時代でも人気がある」


 僕は、初めて聞く、優しくゆったりした曲のことを知り。


「きょうは、へたでしゅね。おいわいだからって、だめでしゅね」


 両手の中から、ぬいぐるみの声が聞こえたあと。あすもにうながされて、重い扉の中へ入った。

 とても天井の高い、全て木で出来たホール。暗い客席には100人ほどが座り。スポットライトが当たる壇上には、ピアノを弾く女の人が見えた。


「……あの、ピアノ弾いてるひと。君の妹さんなの」


 とても小さく言うと、両手の中から聞こえてきた。


「そうでしゅ。ぼくの、いもうとでしゅ。ずっと、ぬいぐるみのなかから、みてきたんでしゅ」


「……妹さんより、先にいなくなったの」


「そうでしゅ。ぼくは、いもうとがいかないでっていったから、ぬいぐるみのなかにいたんでしゅ。でも、もう、いらないんでしゅ」


「……妹さん、本当に、そんなこと言ったの」


「いってないでしゅ。ぼくは、もういらないんでしゅ。いもうとには、ぼくより、だいじなひとができたんでしゅ」


 質問をする前に、ピアノの演奏が終わり。拍手が起こって、壇上の女の人が席を立った。女の人は、マイクを持って客席の前に立ち、深くおじぎをしてから話しをはじめた。


「今日の演奏は、お聞き苦しくて、すみませんでした。言い訳になるんですが、兄がいないので調子が出ませんでした」


 僕は、驚いて、両手の中を開き。ひょいと、あすもに奪われてしまった。


「私の双子の兄は、小学生のときに旅立ちました。でも、お揃いで持っていたテディベアを、兄と思って一緒に居ました。母に怒られても学校へ連れていき、夜は一緒に寝ていました。一日中一緒に居て、話しかけると、声が聞こえてきていました。もちろん、演奏をするときも、いつも一緒でした」


 僕が口を開く前に、あすもが人差し指を唇につけ。女の人は、鼻を鳴らしたあと続けた。


「兄は旅立ち、今日、兄と思っていたテディベアはいなくなりました。私の大好きなものは、いつも、なくなってしまいます。……誰かと、一緒に居るのが怖くなります」


 女の人が、嗚咽をもらしはじめ。僕は、どうしたらと思い、隣に顔を向け。


「あれが、お前の望みか。自分に縛られ、妹は幸せになれず。お前は、もう、そばに居ることは出来ない」


 テディベアを正面に向け、静かな声で言った。あすもを黙って見つめていると、向き合うぬいぐるみの目が光り。


「嫌だ。妹には、僕のぶんも、幸せになってほしい」


 はっきりとした少年の声が聞こえたあと、あすもが静かに言った。


「それでは、花を頂こう。ラスト・フラワー」


 そう言ったあと、あすもは、ぬいぐるみを壇上に向かって投げ。女性の上に、白い小さな花が舞い。足元に小さなぬいぐるみが落ちた。

 女性がぬいぐるみを手にし、その場に崩れ。男の人が駆け寄り、僕はあすもに肩を抱かれホールをあとにした。


「兄の花は、マダガスカルジャスミン。甘い香りの花を咲かせたあとは、綿毛となり飛んでいく。花言葉は、『清らかな祈り』『清純』『愛される花嫁』。「ハナヨメバナ(花嫁花)」という名前も持っている」


 いつの間にか雲がなくなっていた、薄い青空の下。あすもが静かに言い、僕は「手離せ」と言った。


「先ほど、壇上の妹に駆け寄ったのは、妹の婚約者だ。演奏のあと、婚約を皆の前で言う予定だったが。兄の嫉妬のせいで、台無しになってしまったな」


 僕から手を離した、あすもが笑みを浮かべて言い。僕は、言葉と顔が合っていないと思った。言葉は嫌味に思えるものだけれど、笑みは嫌なものでなかった。


「妹の為、現世にとどまり。妹が望む、姿と言動を続け。魂をすり減らし続けた、兄の献身。妹に届いていたらいいが」


「……あんな風に、乱暴にするなよ。花、投げて大丈夫だったのか」


「あんな風にしなければ、兄の最後の花は届かなかった。今頃は、花は消えてなくなってるだろう。兄の魂は、すり減り過ぎていた。私が取り出さなくても、消えてなくなっていた」


 僕は、あすもに言われたことを、頭の中でくり返し。ぬいぐるみの姿をしていたお兄さんの、妹さんへの想いに喉がぎゅっとなり。


「消えそうな兄は、今日の仕事相手ではなかった。ここに居た、さまよえる魂は横取りされ、生きている人間が花を抜かれていた」


 僕は、「どういうこと」と言い。あすもは、笑みを消した顔で続けた。


「消えそうな兄は、そそのかされていた。私の仕事の邪魔をし、私を挑発してきたものに。悪魔が、私以外にも現れた」


 僕は、とても驚き、少ししてから言った。


「……あすもみたいなの、何で、何人も居るの」


「大丈夫だ。私は、にちかを、悪魔から守ろう」


「いや、何言ってんの。何で、他の悪魔が居るの」


「嫉妬の悪魔。私のことを嫌い、私に嫌がらせをするのが大好きなものだ。にちかと契約をしたので、現れたのだろう」


 「何で」ともらすと、あすもは嫌ではない笑みを浮かべ。先ほどの花、マダガスカルジャスミンをひとつ伸ばしてきた。


「大丈夫だ。私は、にちかを、何からも守ろう。その命ある限り真心を尽くすことを誓おう」


「……恥ずかしくないの。そういうこと言うの」


 僕は、思ったままを言い。あすもは、瞳を少し大きくして、とても細めた。


「本当に、同じことを言う。言われたことは、嬉しいが照れくさいと。素直に言えば言い」


 僕が否定の言葉を返す前、あすもは小さな花を口に入れた。


「匂いがよく、くちどけがいい。美味かったが、全然足りないな」


「……昨日、たくさん食べてたろうが」


「昨日のアイビーは、いいものだった。にちかと仲良く過ごすだけなら、しばらく、花を食べる必要はない。にちかを非常食にする必要はない」


 口を開く前。あすもは、僕の頬を折った人差し指でそっと撫でた。


「しばらく、そばに居るのを控えることにしよう。しばらく、会わない」


 じっと見つめてくる瞳は、黒く、透明に見え。


「にちかを、明日香のようにはさせない」


 冷たい温度と、固く強い言葉。あすもの初めて見る様子に、僕は口を開けず。


「にちか。ここに居たのか。もうすぐ、園が閉まるが」


 後ろから聞こえた、幸雄の声に振り返り。


「幸雄、ごめん。あすも、閉まるって…」


 正面を向くと、冷たい温度の主はいなくなっていた。


「あいつは、どこに行ったんだ。にちか、仕事を手伝っていたのか」


 隣に立った幸雄に聞かれ、僕は答えらえず。


「あの、あなた、にちかさんですよね」


 透明な高い声が聞こえて、顔を向けた。


「私、昨日、ハンカチを貸してもらったものです」


 そう言ったのは、昨日、レストランに居た着物の女の人。今日は、薄いピンクのワンピース姿で、外国の人形みたいだ。


「演奏会のホールにいましたよね。出ていったから、私も出て。この辺りを、探していたんです」


 「良かった」と、女の人は、表情が何も浮かんでない顔で言い。


「私の名前は、熊野くまのゆめみです。昨日のことで、お聞きしたいことがあります。このあと、うちに来てくれませんか」


 僕は、こげ茶の透明な瞳に見つめられて、背中が冷たくなるのを感じた。


第六話 マダガスカルジャスミンのテディベア 了



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