神様お願いします
間宮の手術が難しい、と聞いたのは、もう蒸し暑くなった頃だった。私、綿天佑燈と間宮遼は尾道市立萩岡第一高校に通う級友である。序でに家はご近所さん。家の後ろの壁を挟んで背中合わせに住んでいる。私は帰宅部で、間宮は吹奏楽部に入っていて部活は違うものの、勉強も出来て運動も出来る間宮は優等生で、尚且つ面倒見もよく、高校入学と共に一人亡き祖母の家へと越してきた私を何かと気にかけては、ちょくちょく話し掛けてくれるようになった。話してみると間宮は本当に賢くて、私が、もっと偏差値の高い高校にだって進学できただろうに、と言うと、勉強は家でも出来るし、家から近いのが一番だからとあっけらかんと笑っていた。
間宮はさっぱりした性格で、裏表がなく、いつも女の子達に囲まれていた。見た目もよかったし、何よりなんでもそつなくこなす所ががつがつしてないと言うことで女子にウケているらしい。表だってキャーキャー言われることもあれば、ひっそりと告白される事もあったりした。因みに、何で私がこんなことを知っているかと言うと、漫画なんかでご近所さんに良くあるご都合設定というかなんというか、私の部屋と間宮の部屋は向かい合っているのだ。春先、たまたま夜中までゲームをしててふと窓の外に目を遣ると、いつもぴっちりと閉まっているはずの間宮の部屋のカーテンが開いていた。優等生もこんな時間まで起きてるんだなあ、明日も学校なのになんて暢気なことを思ってぼんやりと見つめていると、がらがらがらという音と共に窓が開いた。ひょこっと顔を出した間宮は私に気が付いて、一瞬呆気にとられたような顔をして、それからちょいちょいと手を降った。手招きされたと気が付いて、慌てて私も窓を開ける。まだ少し冷たい風が吹いていて、私の鼻先へと焦げたような匂いを運んできた。私は匂いから思い出した心当たりを呟いた。煙草、と言うと、間宮はちょっと笑ってから、口元に咥えて煙草を指差して、内緒にしといて、と言った。それから、ふぅっと灰色の煙りを吐き出した。今度はもっと濃く匂った。昼間の学校とは違う匂いだった。私はちょっと面食らったけれど、気を取り直して間宮の咥えた煙草を指差して、それ、匂いつくよと言った。いかにも優等生だと思っていた間宮から煙草の匂いがするのも面白いけれど、学校に見つかったりしたら停学だろう。間宮はそういうことをしそうになかった。そう言うと、間宮は、この匂い好きなんだ、と言った。そして、でも制服では吸わないよと続けた。そうなの、とだけ私は返した。私は、好きな匂いを次の日の朝には消して、学校へと向かう間宮を想像した。そして、そうか、と思った。私が言えることじゃあないけど、早く寝た方がいいよと言って、私は窓を閉めた。部屋の電気を消してベッドに潜り込む前、窓の外では真っ暗な夜の世界で間宮がまだ煙草を吸っていた。何だか眠れなくて、ごろんと寝返りをうってクッションを抱きしめると、私は天井を見上げて唸った。次の日、いつもより早めに起きた私は、コンビニまで行くと、駄菓子コーナーでココアシガレットを買った。それを持って家まで帰ると、朝練へと向かう間宮と出くわした。おはよう、私が挨拶をすると、間宮はもういつもの間宮で、柔和な笑みを浮かべておはようと返してきた。煙草の匂いも消えていた。私はビニール袋からがさごそとココアシガレットを取り出すと、間宮に向かって投げた。私が、あげる、と言うと、上手くキャッチした間宮は掌を開いてからきょとんとして、それから爆笑した。何がそんなに面白かったのか、ひとしきり笑うと、おもむろにココアシガレットの箱を開けて一本口に咥えた。ありがとう、これ旨いよね。と、ミントの匂いをさせた間宮が笑った。良かったね、と私も笑った。それから通学中や学校でちょくちょく話すようになって、部屋の窓を開けている時に出くわせばどちらかが呼び掛けるようになり、一年生の夏には、一緒に夜ご飯を食べてから、一緒に勉強するようになった。間宮は、本当に勉強でもスポーツでもゲームでも、とにかく教えるのが上手くて、二人で話しているとあっという間に朝がきた。二人揃って下らない理由で睡眠不足のまま学校へと急ぎ、学校でまた顔をあわせてゾンビみたいな姿を指差してお互いに笑った。そんな調子で、私と間宮はいつも一緒だった。別に少女漫画みたいな事は何も起きなかったけれど、私は間宮の事を特別だと思っていたし、多分間宮も同じことを思っていた。特別仲良しの、特別親友。訳あって家族と暮らしていない私にとって、間宮は初めて出来た心許せる人だった。間宮になら何でも話せるし、間宮となら何をしなくても楽しかった。間宮も学校で見せる優等生の間宮ではなくて、ちょっと面倒くさがりだったり、ずぼらだったり、子供みたいなところもあった。私も皆の前ではにこにこ笑ったり明るく振る舞ったりしていたけれど、間宮の前ではそんなことを意識しなくても良かった。喋らなくても成り立つ空間は居心地が良くて、クラスでの悩みや始めたアルバイトの事、どうしても折り合いがつかない家族との事も、間宮にだったらぽつぽつと話せた。そうして一年が経ち、私達は高校二年生になった。喧嘩したり、仲直りしたり、まるで小学生みたいなつきあい方で、私達は今日と言う日までいつも引っ付きもっつきしてきたから、私は、自分が、間宮の事は誰よりも知っていると思っていた。だから、本当に、それは本当に寝耳に水だった。
「手術することになった。でもちょっと難しいらしい。」
丁度カレーライスを頬張ったところだった。私は大きく口を開けたまま、間宮の言ったことが理解できずに硬直した。手術、って、言った?
「・・・え、・・・・誰が?」
「俺。この夏。」
まるで何でもないことのように告げるその声とは対照的に、私の声は喉の奥に張り付いたように出てこなかった。何で、どうして。スプーンがカシャリと鳴って、食卓に落ちた。言葉が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。それでも喉元まで競り上がった言葉達は、どれも、何も適切じゃない。ただずっと、馬鹿みたいに間宮の顔を見つめ続けて、私は漸く言葉を絞り出した。
「何の、病気?」
「さあ、良く解らない。煙草の吸いすぎかな。最近、足が痺れて歩けない事がある。痛みも出てきた。放っとくと手足が壊死するかもしれないらしい。」
ちらりともこっちを見ない間宮の顔を、私はただ凝視していた。なんでそんな、なんでもないことみたいに言うのだろう。どうして、私に教えたのだろう。だって、私の知る間宮はそんなことを言いたくない人間だ。人前で同情を引くような事を言いたくない、人に心配をかけるような事を言いたくない、人に迷惑をかけたくない、そんな馬鹿で意固地ではた迷惑な奴なのだ。だって、一年の夏休み中、部活でマーチングの練習中に気分が悪くなっても誰にも言わず、家に帰ってきてから脱水症状を起こして倒れて病院に運ばれた男だ。誰かの手を煩わせたり場の空気を悪くするなら自分で何とかした方がまし、という、極端に甘え下手なあの間宮が、自分から自分の体の事を私に話し出した。それが余計に私の不安を煽った。
「えっと、あの、それは、治るんだよね?」
自分で言って、馬鹿なことを聞いたと思った。間宮の使うカレースプーンの音だけがカチャカチャ響く。どうしてなにも言ってくれないの。不安で押し潰されそうな胸をどうにかちゃんと機能させることしか出来ない。吸う空気すらも重い。そんな沈黙は間宮本人が割った。
「さあ?どうだろうな。元々薬で治してたんだけどそれがあんまり上手くいかないみたいだから。まあでも、死ぬ訳じゃないから。」
「そりゃ、そうだけど・・・・・!」
淡々と喋る間宮の事が解らない。
「どうして、こんな時にまで、私の前でまでそんな顔してんの!」
遂に怒鳴ってしまった。こんな事よりも、もっと、慰めになるような言葉をかけてあげたいのに、私はこんな事しか言えない。
「間宮さあ、そういうところ良くないよ!」
気がついたらぼたぼたと涙が零れていた。悔しくて、何が悔しいのか解らないけど兎に角悔しくて腹が立って、涙を止めたいのに、瞼が決壊したみたいに涙が次から次に溢れてくる。間宮は、怖いのだ。本当にらしくなくても、そんな病気になったら誰だって不安だ。間宮だってきっと不安だ。だから私には教えてくれたんだと思う。それなのに私はなにも出来ない。治してあげることは勿論、上手く慰める事も、優しい言葉をかけてあげることも、病気を代わってあげることも出来ない。なんにも出来ない。自分が腹立だしい。間宮も腹立だしい。こんなになってもまだ、泣くことも素直になることも出来ない間宮も、なにも出来ない私も、なんなんだ。悔しい。腹立つ。涙は次から次に零れた。私は嗚咽をあげないことに必死だった。唇を噛みしめて口をへの時に曲げた。間宮はそんな私をじっと見てから、
「なんでお前が泣くんだよ。」
と言った。
「うるさいよ!私の水分なんだから涙だろうが涎だろうがどこから垂れ流しても放っといてよ!」
食って掛かった私に、間宮がちょっと面食らってから、笑い出した。
「なに笑ってんの!あんた!」
「いや、だって、お前。何で怒ってんの。俺、病気打ち明けて怒鳴られた奴なんて聞いたことねーよ。可哀想だろ、俺。」
どんな神経してんだ、お前、と間宮が笑う。
「笑うなあ!」
「いや、だってさ!お前、おかしいんだもん!」
私は怒鳴って、間宮は笑って、一頻りぎゃーぎゃーやり合った後、間宮はいつものふざけた間宮に戻っていた。
「もうドラムが叩けないかと思うとちょっと不安だったんだ。」
ふっと吐き出した言葉はとても自然で、すうっと私と間宮の間に浮かんで消えた。うん、そんなの、知ってるよ。間宮がどんなに吹奏楽部で頑張ってきたかを、打楽器が好きかを、ドラムをずっと続けていこうと思っているかを、私が多分一番知っている。ゲームセンターで、ちょ
こっとだけゲームのドラムを叩いてくれた得意気な横顔を、間宮の部屋でせがんでドラムセットを叩いて貰った時の真剣な顔を、世界で一番好きだったのは絶対に私だから。
「治るよ、絶対。」
間宮の目を見て言いきった。間宮はちょっときょとんとして、それから、
「ありがとう。」
と言った。私はまた泣きそうになったけど、今度は泣かなかった。それからまた二人でぽつぽつと話し始めて、いつものように、クイズ番組に二人で答えたり、どっちが似ているかCMの物真似をしたり、今度のテストの点数について予想したり、話題の漫画の展開について語り合ったりした。冷めたカレーはもう美味しくなかったけど、間宮は全部食べていた。
そして私は、一つある決意をしていた。
「じゃあ、お先に失礼します。」
アルバイト先の喫茶店から出ると外は土砂降
りだった。矢のような雨が、叩きつけるように道路に降り注いでいる。私はちらっと空を見上げると、傘を差してから道路へと一歩踏み出した。
あの日、間宮の病気を知った後、私には一つの腹案が出来ていた。お百度参り。本殿前でお参りをした後、入り口に戻り、それからもう一度本殿でお参りをすることを百回繰り返す。そうすると、神様が心願を叶えてくれるという。これしかないと思った。医者でも魔法使いでもない私が間宮に出来ることはない。病気を治すために頑張るのは医者で、間宮にだってそれはどうにも出来ないことなのだ。だったら私は祈るしかない。万難を廃して手術に臨めますように。願わくば間宮の手術が上手くいきますように。神頼みなんてと間宮は言うだろう。あいつは神も仏も信じてないと言う。去年、一緒に駅前の神社の夏祭りに行った時にも、尾道で一番大きな千光寺に初詣に行った時にも、間宮は夏祭りとか初詣を楽しんでいるだけだった。おみくじを引く私を覗き込んでは、おまえってそういうの好きだよなと言い、お守りを買わないのかと聞くと、願いは自分で叶えるから価値があるんだよと、何だか気障ったらしい事を言って私を笑わせた。そんな間宮だったから、神社に参拝しろと言っても絶対に行かないだろう。ならば私が代わりに行く。代参と言うものがある。本人に代わって神社や仏閣、教会に参拝することだ。車や電車、果ては飛行機なんてものもある交通機関の発達した現代ではちょっと理解に苦しむが、移動手段は徒歩が圧倒的だった江戸時代までは、お伊勢参りは一生の夢、お遍路は人生を賭けて行うことだった。行きたくても行けない、そういう人達が大多数だった時代、代参は当たり前のシステムだったのだ。来たのが本人であっても他人であっても、神様は本気の願いには応えてくれる。問題は、その本気を、どう伝えるかだ。私は一歩踏み出す毎に濡れていく両足で道路を踏みしめた。駅とは逆の方向へと向かう私は、どんどん暗がりへ飲まれていく。商店街は途切れ、そこからは山際を這うように密集する、昔からある民家の裏道を、ひたすらに山道を登っていく。電灯がないから、足元を照らすのは水溜まりに映る民家の灯りだけだ。それもどんどん疎らになる。この辺りはもう殆ど空き屋だらけだった。息が上がる。坂道が急なのだ。自転車じゃあ上がれないので、この辺の人達は坂の下に自転車置場を持っている。私も初めて見た時にはびっくりした。こんなところに人が住めるんだと思った。でも、この山の頂上には尾道で一番有名な千光寺もある。神社もある。神様が人を必要とするのか、人が神様へと引き付けられるのか、こんな不便な場所にも信仰がある。どうでもいいことで頭をいっぱいにして、息が苦しいのを誤魔化す。運動不足だ。まだまだ動けると思っていたけれど、やっぱり体は正直だ。陸上も、地元も、家族との対話も、全部投げ捨ててからもう随分と経った。空洞になった私の内を埋めたのは間宮だ。間宮との会話が、思い出が、私を作っている。間宮が居なかったら私はなかった。だから、間宮を守る。必要ないのかもしれないし、こんなことしても間宮の特別にはなれないかもしれない。でも私にしか出来ないから。間宮のために命を使えるのは、私だけだから。そう思う事で、地獄へ続くような真っ暗な獣道も怖くなかった。私は腐葉土を踏みしめる。足元が滑るけれど前だけを見ていた。脇道の暗がりから沸き出る悪霊がこっちを見ている気がする。空想ですら歩みが凍りそうだった。ばちばちと弾くような雨音に遮断されて何も聞こえない事が怖い。前も後ろも右も左も、全部が無防備になる。私は全身の毛を逆立てて猫のようにひたすらに前へ走った。
「・・・・・・・・・・・・・あった。」
築地神社。味もそっけもないコンクリート階段の手摺に指を伸ばした。雨が滴っている手摺をしっかりと握る。階段はコンクリートが割れて所々壊れていた。私はぐっと足に力を入れる。階段は上から雨水が流れて滝のようだった。一歩、一歩と踏みしめて上がった。落ちないように握り締める手摺が滑る。どうにかして階段を上がりきった先、真っ暗な闇の中に、古くて所々崩れたような、小さな神社が見えた。築地
神社。いつもひっそりとして誰も居ないこの神社は、夜になっても勿論誰の姿も見えない。神主さんも居ないこの小さな神社を、私は偶然見つけた。こっちに越してきてから直ぐだったと思う。尾道で有名な隠れ家的パン屋さんを探してうろうろとしていた時、何本か道を間違えて坂を登ったり降りたりしていたら、あったのだ。そこだけぽったりと忘れ去られたように静かで、こじんまりとした神社だった。明るいなかで見ても、もう手入れをされていないことが解る境内に、苔むした手水。狛犬も磨耗していた。それで、ぐるっと境内を見渡して、いつものように由来が書いてあるものを探した。大抵の神社には、由来や主祭神を記した立て札がある。神社の隅にそれを見付けて、私は不思議な気持ちで立て札を読んだ。主祭神、白井露湯彦尊。由来は不明だが、この地を治める豪族の娘は生来多病であり、八歳を過ぎても歩くことが出来なかった。しかし、その母親が築地神社を参った所娘の病気が快癒したので、氏神として広く信仰を集めた。へえ、そっか。良く解らない由来を持つ神様は、私は好きだ。お賽銭を100円入れて参拝すると、私は身を清められなかった非礼を詫びた。それから自己紹介をして、神様に質問をした。あなたはどのような神様なのですか、あなたの事が知りたいです。私は満足して、また来ることを約束して、それで帰った。パン屋は帰り道に無事見つかって、パンを噛りながら家路についた私は、何故だろうとても気分が良かった。静かで落ち着いた空間。ただそこにいる神様。ひっそりとした空気が気に入って、私はそれから時々築地神社を覗いては参拝した。でも今日は違う。明確な理由がある。築地神社の神様は、病気の娘を治癒したと言う。ここだと思った。間宮の事を願掛けするなら、築地神社しかない。だから来た。無理難題を通して貰うのなら、こちらもそれ相応の本気を見せないと。私は荷物を階段に置いて、真っ直ぐに進む。拝殿まで進んでから、賽銭箱に千円札を入れた。それから拝殿で二礼二拍して叩頭する。濡れた地面。額にじゃりっとした砂地の感覚がした。目を瞑る。
「私は、尾道市三堂に住む綿天佑燈と申します。図々しくも、築地神社の神様にお願いがあってこんな夜更けに神社へ参りました。私には、大切な友達がいます。名前を間宮遼といいます。間宮は病に犯されています。手術が必要な病です。どうか、間宮の病が少しでも良くなるよう、手術が恙無く終わるよう、築地神社の神様のお力を貸して頂けないでしょうか。不躾なお願いとは存じますが、どうか私の願いをお聞きいれ下さい。ただでとは言いません。私の残りの寿命の半分を、築地神社の神様に差し上げます。他に、あなた様にお渡しできるものが何もない私ですが、どうか、私の願いを叶えてください。」
額を上げて、本殿のなかを見つめた。風がごうごうと吹いて、しめ縄が揺れている。真っ黒な本殿のなかは吸い込まれそうな程静かだった。私はもう一度目礼をする。立ち上がろうと力を入れて小さく呻いた。跪いた膝や膝下に砂利が刺さる。それでもなお力を入れて立ち上がった。スカートは地面の水を吸ってずぶ濡れだ。
重い。私は太股に張り付いたスカートと頬に張り付いた前髪を剥がしてもう一度二礼する。同じ様に二拍して、もう一度地面へ叩頭した。
「・・・・どうか、間宮の病が少しでも良くなりますように。手術が恙無く終わりますように。私の寿命の残り半分を賭けます。」
深く深く頭を下げる。額に冷たくて硬い砂利が食い込む。頬に打ち掛かった髪の毛を伝って雨水が口の中へ入り込んだ。雨はますます強く激しくなっていく。もう一度立ち上がって同じく二礼をする。傘はもう意味がない。雨は横殴りに降り込んで、制服がずっしりと重い。張り付いて動きづらい。二拍してまた叩頭する。まだまだまだ終わらない。あと九十七回。
「どうか間宮の病が少しでも良くなりますように。手術が恙無く終わりますように。私の寿命の残り半分を賭けます。」
立ち上がる。また二礼。神様に届きますように。どうか。叩頭して目を閉じる。何回でも、神様に届くまで、絶対に諦めない。私は何度も何度も立ち上がっては何度も何度も叩頭した。
どのくらい経ったか、三十回を過ぎた辺りから数えられなくなった。
「どうか、間宮の病が、少しでも、良くなりますように。手術が、恙無く終わりますように。・・・・私の・・・寿命の・・・・残り、半分を・・・・。」
頭はもう割れそうだ。ガンガンと頭の中で音が鳴っている気がする程、鈍い痛みが大きくなって脳を圧迫していく。吐き気がする。倒れ込みたい。頭をちぎって捨ててしまいたくなるほどの痛みにも何とか耐えて辛うじて叩頭していられるのは、濡れた砂利に何度も擦り付けた膝が出血して、酷く痛む事で痛覚が分散しているからかもしれない。
「どうか・・・・間宮、の・・・・・病、が・・・・・。」
目蓋が閉じた。頭を引き上げられない。ここで、目を瞑るわけにはいかないのに。まだ終われないのに。神様に、届くまで。私が、間宮を、助けられるまで。うっすらと途切れていく思考の中、突然、頭に声が響いた。
「風邪、引きますよ。そんなことしてたら。」
頭上から降った声。冷たくてもう感覚が無くなったおでこをのろのろと地面から引き剥がして、視線をあげる。視界いっぱいに、知らない顔があった。微笑むように眉を下げ、優麗な目元が覗き込んでいる。なのにどうしてか、その口元は悲しげだった。鳶色の瞳。まるでカットした宝石のように綺羅綺羅している。私は黙って、吸い込まれるように見つめるしか出来なかった。どのくらいそうしていたのか、本当はほんの一瞬だったのか、私は知らない男の人と見つめあっていた。雨の音だけがどんどん大きくなる。と、はあはあと苦しい息の下から、千切れそうな膝元から、全部の痛みがどっと身体に巡り始めた。膝が痛い、頭が痛い。
「あなたの願いを聞き入れましょう。契約、完了です。」
声が遠い。どこから聞こえるのか解らない。徐々に思考が真っ白になっていく。ふわふわと浮かんでは消える言葉をなぞるように、私は、契約、と呟いた。前にも、どこかで、こんな言
葉を聞いたことがある気がする。でも思い出せない。もう、思考は、散り散りだ。次から次に消えていく。契約、完了。優しくて、悲しい声だ。
私は意識を失った。
漸く神様出てこれました。