竹千代君誕生
竹千代は日々生長し、夏をむかえ手足を良く動かす
ようになる。チサはお楽や佐和に夏のこととて
もう少し着せる物を少なくするよう進言した。
また その上に注意したのは食事 その当時の事とて
離乳食というような物は無い。みな思いきり長く乳を
与え、それからお粥 柔らかいご飯と変わって行く。
チサは姉の子育てを知っているから、竹千代が生後
3ヶ月になったくらいから野菜スープや果汁スープをと
思ったが当時の人々から簡単には受け入れられない。
無理とは思ったが、それを説得して説得してスープを
作って自分も飲んで見せ、お楽や佐和にも飲ませて
赤ん坊の身体に害が無いと口をすっぱくして説明した
それでも実際に竹千代がスープを口にしたのは5ヶ月も
近い頃だった。まず 木の匙で一口 ほんの少しを
流し入れると、はじめはびっくりしたような顔をしたが
三口目位から進んで口を開けるようになったのでチサも
一安心 スープから始めて重湯 お粥 くたくた煮の
野菜やすり潰した白身の魚と気を配りながら進めて
行くと、竹千代は風邪一つ引かぬ活発な赤ん坊に育って
ゆく。それには子育て経験のある佐和やお付きの老女達も
感心することしきり 今まで自分達が育てて来た我が子
達に比べ、発育の良さに驚いている。とにかく良く飲み
良く食べ、良く出す(ウンチ)なのだ。
チサは気候が良くなるに連れ、薄着にさせる事に成功
すると、7ヶ月になると寝返りをはじめ10ヶ月には
ハイハイを始めた。このスピードには昔の人々は驚いた。
なにしろ昔は足を隠してしまうような長い着物を着せて
いた為に、私達からすれば足の発達が遅れるという
観念が無いから当時の幼児は歩き出すのが1才半を
過ぎてからとか2才になるのも珍しくなかった。
しかし ハイハイをし出すと目が離せない。
竹千代はすぐ あちこちで頭をぶつけたり足をぶつけ
虫に刺されたり腫れ物が出来たりと忙しい。
一度腫れ物が出来ると治りが遅かったり、打ち付けた所が
なかなか良くならなかったりという本来なら虚弱児と
いう体質はなかなか良くならなかった。
それは医師も良く見ていて 「若君は元来 病弱な質を
お持ちであるから、くれぐれも注意を怠らぬように」と
周囲の人々に常々言っていた。それだけに側にいる
佐和やお楽達はいつも気を使う。こうして竹千代は
めでたく三歳の誕生日を迎え その月の吉日を選んで
生母お楽の方 乳母佐和はじめ多くの女中達、家臣を
引き連れ二の丸御殿に移って行った。本来 世継ぎの
若君は将軍の住む本丸に準ずる西の丸が通例となって
いたが竹千代が幼かった為と病弱の気があるという事
も合って本丸に近い二の丸が当てられた。
だがお楽は寂しがった。今までは長局と離れているとは
いえ新座敷は大奥の中である。それが局やチサと
離れて二の丸へ、、、今までのように簡単に行き来が
出来なくなる。お玉達とは離れて気が楽になったが
チサと離れるのは辛いとはジレンマにおちいる。
続く。