竹千代君誕生
そのお方というのがお里沙とは口に出して言わぬが
みな胸の内で頷く。「あまり気になさいますな。
人の言うことなどいちいち気にしていたら切りが
ありません。と 言ってこの私はあまり気に
しさな過ぎてお局様よりお叱りを受けますが」と
二人は笑った。「私もおチサ様のように明るくハキハキ
した女に生まれとうございました。常々お羨ましいと
思っていたのですよ」 「まぁ それは大変 私の
ような物言いをする人がもう一人いたら、お局様は
さぞかし肝をひやされるでしょうね」と 二人
また笑う。お楽の方は日頃 胸の底に溜まっていた
物をすべて洗い流したような明るい気持ちになった。
こうして心から打ち解けて笑い合うという事が
あまりに少ない大奥での生活である。
「竹千代君はお元気でいらっしゃいますか」
「はい 今は離れたひと間でお休みですが今度
お目覚めの時 一度 お合わせしとうございます」
我が子でも将軍の御子となれば母親は臣下である。
敬語を使わなければならなかった。「それは願っても
ない事 一度ぜひお目にかかりとうございます。
お可愛いでしょうね」 「まだ母としての実感は
わきません。でも お乳を時々吐かれるのですよ」
「赤子の内は良くお乳を吐くと聞きますが、どんな時に
一番良く吐かれるのですか」「乳母がお乳を差し上げて
満足そうにお休み、しばらくすると吐いてしまわれる
事が良くあるとか」 「それはもしや 排気が足らない
のではないでしょうか」 「排気、、それは聞きはじめ
ですが」 「あれっ ではお乳の後ゲップを出させない
のですか」 「そのままお寝かせしますが」
「ではそれが原因なのではないでしょうか。お乳を
飲ませた後 立て抱きにして軽く背中を叩くか
撫でるかして、、、するとしばらくしてゲップが
出ます。そうしてみてはいかがでしょうか」
「でも」と お楽は口ごもる。子供を産んだ事の無い
チサの言葉を信じかねている様子だった。
「一度 乳母に聞いて見ます」 「そうなさるとよろしゅう
ございます。私も姉からの受け売りで詳しいと
言うほどでもありませんから」 「姉っ おチサ様には
姉君がいらっしゃるのですか」と 驚いて聞き返す。
チサには父母も兄弟もいないとの、もっぱらの噂で
あったからだ。「ええ でもすでに他界しております」
姉の存在の事実を話すとややこしくなるので、
すでに死亡しているとしてしまう。
「まぁ お気の毒に、、で そのお子達は」
「姉と一緒に、、 流行り病でございのました」
「まぁ 何という お可哀相に」と お楽の方は眼を
伏せて涙ぐむ。チサも つい口に出した姉という言葉に
仲のよかった姉 小さな甥 姪っ子を思い出し目頭が
あつくなった。しばらく静かなひと時が流れややあって
「佐和をここに呼んでたもれ」と侍女に乳母を呼ぶように
言うお楽
続く。