竹千代君誕生
「でも 今の日本にはどこを探してもおりません。
私の先祖はどこかにおりましょうが」 「だが そんな
奇妙な話 こなたには信じられぬ。そちはその話
上様にもお話したのか」 局はそればかりが気にかかる。
「いいえ どなたにも 言っても信じて貰えないでしょう
それは諦めております。でもお局様 お蘭様の事も
私が後の世の生まれだからこそ知り得たのです。
私達の時代まで本になって残っていたから分かった
事なのです。本に書かれていた事で、私が覚えている
ことしか先の事はわかりません。だからお蘭様が
若君をお産みになる事も矢島の局の事も分かったの
です。何もかも全部が分かると言うのではありません」
そう言われれば局もチサの話はそれ以外に納得できる
事では無いとうすうす感じるようになって来た。
「後 4.5日すれば私の申したことが少しは分かって
頂けましょう」 「どう言う事じゃ」 「若君のお名前は
まだ決まってないのでしょう」 「それはそうじゃ
お七夜までは知らされぬ」 「若君は上様のご幼名と
同じく竹千代君と申されます。長じては家綱様
またお蘭様はお楽の方と命名されますから
後 しばらくすれば分かると申し上げました」
本当だろうか 本当かも知れないという恐れが心の
片隅を過ぎった。「そちの話 まことに信じ難い事では
あるが、他にもまだ分かっている事があるか、、」
「はい 少しなら まず若君は非常にご病弱でいらっしゃい
ますが、これは心してお小さい時から身体を鍛えて
病に負けぬようにすれば良いかと思います。
先だってお叱りを受けましたが、私達の時代の本には
家綱様はご病身ゆえにお世継ぎをもうける事なく
ご他界 五代将軍となられますのが幼名 徳松君
長じては綱吉様という、今まだ生まれていない弟君で
ございます」 「そのお方の生母は」 「それが私には
しかとわかりません。それというのが私達の時代の本
にはお腹様になられてからの名しか載っていません。
歴史を調べ研究している人ならともかく、、、
少なくとも私は覚えていません。ですから私が知って
いるのは四代将軍の生母はお蘭様ではなく、お楽の方
という名だけなのです」 「さようか」 少し残念そうに
局はつぶやく。まさかあのお万の方では有るまいがと
心の中で思う。二人じっと佇む庭先に、初夏の陽は
落ちて暮れなずむ。「お局様 お部屋に入りましょう
お局様は昨夜 お休みになっておられません。
ずっと気を張り詰めておいででしょうからお身体に
障ります」 チサに促されて局は素直に従いながら
「今の話 そちのたわ言と思うてこなたの胸一つに
納めておくゆえ 決っして他言致すな」と かたく
言い付ける。もとよりチサにその考えは無い。
「はい かしこまりました」と 答えてにっこり局の
手をとって「そのご心配はご無用に願います。こんな事
人に言いふらさば狂人と思われましょう」
「まこと さようじゃ」 「私もお局様なればこそ
申し上げました。お部屋に床をのべましょうか。
少しお伏せりになった方が良いようにお見受け
します」 「お蘭の事も気がかりじゃがそうして
貰おうか。少し疲れたような」と 部屋に戻り
引かせたしとねに身を横たえた。夕冷えの風に
晒された手足は氷のように冷えきっている。
チサがおよのに手伝わせて、かいがいしく袂を
まくり、その足をさすって温めてくれる。
実の娘のような態度に局は複雑な気持ちに襲われた。
続く。