過去の世界 初めての冬
この夜からチサの株がまた一段と上がり、家光の愛は
日と共に細やかになって行くようだった。
その様子を見るたび聞くたびお玉達の胸は悔し涙に
濡れるのである。その内に秋は過ぎ、チサがこの世界に
来てから初めての冬が来た。高いビルが林立し昼となく
夜となく電気というエネルギーがある今時の都会と
違い その頃の江戸は寒かった。暖を取るのは火鉢
何枚もの襖で締切った室内にいる為 風は入って
来ないが寒気はシンシンと迫ってくる。
そんなある日 朝食の膳を前にしたお蘭は急に
激しい吐き気におそわれた。2・3日前から
何となく食が細くなり、怠そうにしていた所だったので
すぐにお匙を呼び診察させるとそれは局が待ちに待った
ご懐妊との知らせだった。部屋の者はみな飛び上がらん
ばかり狂喜して大騒ぎになるのを押さえた局も
嬉しくて仕方がない。「間違いあるまいな」と 今一度
お匙に念を押した上 中奥の家光の元へと知らせに
行った。知らせを聞いた家光も手放しで大喜び
早速 日頃信仰する神社 仏閣などに男子誕生の
祈願に使者を使わせた。それほどに望まれる男子誕生
それは春日局 いや徳川家に仕える武士達にとっては
切なる願いであった。お蘭懐妊の事はまだ正式には
発表されない。しかしその日から病気と言い立てて
部屋に引きこもるので何となく大奥中に知れ渡って行く。
その噂はお玉達を打ちのめした。中臈の中で素直に
喜ぶ変わり者はチサぐらいである。またお万の方は
優しく思いやりのある方なので、家光の為に若君
ご出生をと御仏に願うのだった。彼女はこんな良い
性格であったから、家光からも好かれ奥女中の中でも
慕う者が多かった。チサもお鈴廊下で顔を合わす
この高貴な そして類い稀なる美しさに輝くお方様に
常々 好意を抱いていた。それはある日の事
お万の方が久しぶりに姉君を訪ねて来た弟君と
お客座敷で話しての帰り 長局に戻る出仕廊下に向けて
歩いていると、奥御膳所の近くで何やら様子のおかしい
チサとおよのに出会った。チサはおよのを踏み台に
して、どうやら御膳所の内部を覗こうとしているらしい。
だが 踏み台にされるおよのはチサが重たいので
すぐに砕けてしまう。「あっ 駄目よ およのさん
もう少しで見えるのに我慢してよ」と チサが小声で
叱っている。チサはおよのと二人切りの時はさん付けで
呼ぶ。およのが止めてくれと頼んでも無駄だった。
「だって 痛いんですもの」と およのも打ち解けた
様子でちょっとベソをかく 「もう仕方ないわね
いいわ 私が踏み台になるからおよのさん覗いて」と
チサは四つん這いになるが「行けません。私がおチサ様の
上に乗るなんて」 「誰も見てないわよ」 「行けません
もしも見つかったらどんなにお叱りを受けるか」
「それじゃ 今日のおかずが分からないじゃないの」と
チサが言った時 「あっ」 およのが声を上げて
お万の方達を見つけた。「早く立って お立ち下さい」
続く