過去の世界 初めての冬
お蘭はビクッと肩を震わせて救いを求めるように
局に顔を向けた。小心者でチサ同様 教養も少ない彼女は
ひそかに局から教えて貰っていた一首を、とりのぼせて
忘れてしまったのである。しんと静まったその場に
いたたまれずお蘭はとりあえず庭に降りてみた。
しかし降りてはみたもののいっこうに思い出せない。
局を見上げて何かもぞもぞ言いかける。それをみた局は
ハッと赤面して顔を伏せた。(あの愚か者 教えた歌を
忘れおったな) そこへ「次はお蘭様 貴女の番で
ございますな。月もちょうど良き所にかかって来ました。
さぞかしいい歌を聞かせて下さるでしょう」と
厭味たっぷりなお玉の声 「いえ そ そのような」と
どぎまぎして顔を伏せるお蘭 そこへ追い打ちをかける
ようなお夏の声 「あれ お蘭様 時が移ると月が雲間に
隠れてしまいます」 「は はい」と いっそうのぼせて
しまいオロオロするお蘭 その様子にハラハラするのは
春日局とチサ チサはおとなしいお蘭がかわいそうで
堪らない。助けてやろうにも何としていいかわからない。
ジリジリしている時 ハッと頭に閃いた。お蘭の代わりに
和歌を作って見せればいいのだ。だが 歌道の心得など
近頃入門したての一年生なので、自作の歌は無理である。
だが人の歌なら、、それもまだこの時代に生まれて
いない人の歌なら誰にもわからない。チサは必死になって
それ等の有名な歌人を思い出そうとしたが国語や歴史が
あまり好きでなかった彼女にしては大問題
しかしやっと一つ思い出した。それは(月よみの、、、)で
始まる良寛和尚の作ったものだった。
江戸時代の有名な歌人である良寛も、まだ家光の時代には
生まれていなかった。お蘭が涙を浮かべて三たび
春日局を見上げた時 「お待ち下さい」 声を上げて立ち
上がったのはチサである。チサは庭に降りてお蘭に
かけより「お蘭様 ご気分が悪いのでしょう。朝から
頭痛がするとおっしゃっていたもの」 「ええっ」 お蘭は
突然のチサの言葉にびっくり 声を上げかけてチサに
目顔で押さえられる。「熱でも出てきたのではないかしら
お顔の色もたいそう悪いようだし、私が代わりを努めます
から部屋に下がられてはどうでしょう」と チサが
代わりますと言った時のお玉達の目の色と言ったらなかった。
まさに獲物を前にしたなんとやら、、、である。
思いがけないチサの救いにお蘭は戸惑いながらも嬉しく
「は はい あの寒けがして」と 話を合わす。
「そうでしょう。皆様 歌の道に関してはまだ未熟な私
ですがお蘭様の代わりを努めさせて頂いてよろしい
でしょうか」と 一同を見回し最後に局を見る。
ここに至っては仕方がない。(チサめ どうしようと
言うのか)と チサの実力を知る局は危ぶみながらも
頷かざるを得ない。「ありがとうございます。では
お蘭様 後はご心配無く お松 お蘭様を」と
お蘭付きの侍女に声をかけその場から去らせる事に
成功した。それからが大変 お玉達が舌舐めずりでも
しそうな顔で待っている。「おチサ様の歌を聞かせて
頂くのは初めてでございますもの さだめし私達とは
違い新しい感覚のものでございましょうね~」と
言ったのはお里沙 言い終わってからお玉達二人と
顔を見合わせてもの凄い笑みを交す。こういう時には
この三人 一致団結するらしい。だがチサも負けては
いない 「ホホホ、、そのように期待されても困ります
お三人様と違い 私はまだ歌道のほんの入口に立った
のも同然ですもの」と言いながら、御前に供えてある
白木の台にさりげなく歩み寄り「でも ここに供えてある
栗を見て 一首思い付きました。このお庭のように
美しく手入れされている所ではこのような事は
ありませんが、山里の鬱蒼とした道を思い浮かべて
下さりませ」と 言いおいてからひと際 声を張り上げ
「月よみの 光を待ちて帰りませ 山路は栗のイガの多きに」
と詠み上げた。その時 声なき声が辺りに満ちた。
みな 驚きと感嘆の声である。家光も思わず膝を叩いて
「よう出来た。飽き深い山の情景と客へのいたわりが身に
しみるように分かる。月よみの光を待ちて帰りませ か
良い出来じゃ どうじゃな春日」と 同意を求めるように
局を見やる。局もこれには素直に同意して 「私めも歌の
道に詳しいとは言いかねますが いかがなものであり
ましょうな お方様」と さらに歌道に長けている
お万の方に問うと「この道の達人と言われる方々と比べ
ても恥じない出来と思われます」と 賛辞を惜しまない。
一同の者 みな改めて感心する中 お玉達三人は憮然
たる面持ち チサはニンマリ してやったりは言う
ところだが、人の詠んだ歌を横取りしただけなので
大きな顔は出来ない。
続く。