庭での傷害事件
「なれど ああした事があった以上 また他の人々の
目にも耳にも入ったからには黙って見過ごす訳には
参りませぬ。私 あの後 部屋に戻りまして主に
報告致しましたところ、お玉様に怪我をさせてしまった
のはチサの いや 引いては世話親たる春日の不徳の
致すところと申して心痛致し、怪我の具合はどのように
と尋ねられましたが、私めの手落ちで詳しい報告を
する事ができませぬ。思い余ってちょうどおチサ様の
為に呼び寄せたお匙に頼み 」と藤波がここまで言った時
花岡の表情が大きく動いた。花岡もまたチサの怪我に
気づいてはいなかったからである。しかし藤波はそれに
気づかぬ振りをして「いろいろな薬を揃えて参った訳で
ございます。この中より良き物を選び下さいまして
お玉様の1日も早いご本復を祈る次第でございます。
どうぞお受け取り下さいますように」と 平伏した。
「それはまた丁重なお心使い」と言った花岡の言葉尻は
震える。頬を引きつらせ 「幸いお玉の怪我も思うより
軽く、お局様にその旨 申し上げてご心配無きよう
伝えて下され」 「ありがとうございます。お言葉
そのようにしか取り伝えます。それでは」と もう一度
深く頭を下げて立ち上がり部屋を出ようとしたその時
「チサの怪我はどのように」 たまり兼ねたように花岡は
尋ねた。藤波は内心 ニタッとしたがそんな様子は
おくびにも出さず「尖った石の角ででも切られたのか
右足の脛に三寸ほどの傷が、、、」言いおいてサッと
裾をひるがえして去った。後に残った花岡
これはまずい事をしてしまったと、今さらに悔やむ。
「旦那様」 次の間で聞いていたお玉達も出てきて山と
積まれた薬包を前にため息をつく。
「聞いていただろう」と 花岡は苦笑い。「おチサ様の
怪我 まことでございましょうか」と 意地の悪そうな
侍女 「嘘だと申すのか」 「三寸も切るほどの怪我なら
あの時 おチサ様が何か言うはずではありませんか」
「そうよなぁ」 「きっと昼間の仕返しの為に、あのように
言われたのでは」と どこまでも穿った考えしか
浮かばぬ女らしい。その時 「嘘でも何でもいい
いっその事 もっと大きな怪我であの女が死ねば
いいものを」と 形相凄まじくお玉が言ってのけた。
さすがに花岡も侍女達も声が出ない。その事件が
あった2日後の事である。チサの足の傷はすぐに
消毒しなかった為か、池の泥にばい菌が入っていた
為か化膿し出していた。我慢すれば歩きはするのだが
ズキズキと痛んで熱を持ってきていた。お匙はあの日
出仕は無理だと言ったのだが、事を大きくしたくないと
思うチサや局の考えもあり、翌朝 将軍が仏間拝礼に
お成りのお鈴廊下には痛みをこらえて並んでいた。
その為 花岡やお玉達からはやはり嘘だったのかと
嫌な目で見られていた。だがその翌日はお見送りをして
部屋に戻ったチサは、腰が抜けたようにへなへなと
座り込んでしまう。「どうなさいました」 およの
かな江 おこうの三人がびっくりしてとんでくる。
「足が 足が痛くて」 「えっ 傷が お見せ下さいまし」
およのが裾をめくって見ると足は熱を持って
腫れ上がっていた。「これはっ」と 三人は顔色を変えた。
そこへお蘭もやって来て「まあー大変 痛いでしょう」と
眉をひそめる。「私 旦那様に知らせて参ります。」
しっかり者のかな江が急いでお年寄り詰め所にいる
春日局に知らせに走る。とは言え気は焦っても廊下を
走る訳には行かない。
続く。