チサと肘かけ椅子
チサも臨月に近くなり重たくなったお腹は身動き
しにくく今までならサッと立ち上がれた所がバランスを
崩す。(そうか)とチサは思い当たる。この世界では
椅子という物が普及していなかった。あるにはあっても
丸椅子や木箱を重ねたような物で、背もたれ肘掛け付きの
ような物は一般には無い。妊婦には正座より椅子の方が
断絶楽である。チサは早速椅子の全体図を書いて
お広敷きの役人に渡して貰った。
「これは何でございますか」かな江が尋ねる。
「椅子という物ですよ。木で作れるからすぐに作って
貰えるように頼んで来て」と命じる。かな江から
図面を受け取ったお広敷き役人は、以前椅子を見た事が
あった。長崎から将軍に拝謁する為 参府して来た
オランダ人が道中 一緒に持って来た物だった。
とにかく役人の一存で椅子を作る事は出来ないので
老中に相談する事にする。ちょうどその日の当番に
伊豆守がいたのは幸いだった。彼はチサが未来から
来た者である事を知るただ一人の人物
それだけにチサが心細がっているだろうとは察しが
付くので、何か自分に出来る事は無いか。
励ます事は出来ぬものかと心底気にかけていた。
しかしそこは大奥 伊豆守が立ち入れない北の御部屋
チサの図にあった椅子を見たとたん、彼はすぐに閃いた。
今から作らせるよりは先年 徳川将軍に拝謁のおり
異国の使節団が献上した物の中に、この絵のような
椅子が何点かあったのだ。あの一つをおチサ様に
お貸し願おうと思い立った。彼はその足で家光に
会いに行く。家光はご休息の間に近いお小座敷で
小姓相手に将棋を指していた。
伊豆守が伺うと彼は指していた将棋を止め、小姓に
下がるよう命じた。伊豆守が来るからには重要な
用件だろうと思ったからである。「どうした」
家光は幼少時代を共にした伊豆守には親しい。
「お楽しみの所を邪魔立て致しまして申し訳ございません
大事ではございませぬが、実は本日お広敷き役人から
おチサ様のご要望として、このような物を欲しいと
言われました」と図面を見せる。「何 チサがか」と
家光は嬉しそうに手に取り「これはあの 椅子では
ないのか」 「はい 先年オランダ使節団より献上
された椅子が何脚かございます。おチサ様はこの
図のような物を作って欲しいと仰せられたとか」
「椅子を何に使うのであろうな」 「伊豆に思い当たる
事がございます」 「何 さようか。申して見よ」
「はっ 実はみどもの妻が身篭ったおり 腹が大きく
なってきてからは立ち居振る舞いがしにくいと
嘆いておりました。寝ているばかりでなく座って
いても立ち上がる時は、側の者に手を取らせたり
しておりました。椅子に腰掛けているのなら
それも容易になるかと察しまする」
「そうか わしはまだそんな姿になった女達を見た事が
なかったな。良い 伊豆 あの椅子を一つチサに
くれてやれ」と 機嫌良く承諾した。
鶴の一声 小納戸にしまってあった四脚の椅子の一つが
早速 北の御部屋に運び込まれた。それは高い背もたれに
美しい刺繍をほどこした立派な肘かけ椅子だった。