伊豆守と絹物談義
「その場にいない人と話す事もできます。
まぁ 言っても信じられないでしょうし この位で
やめます」 「まこと不可思議な話でござるな」
「まだまだ先の事です。 私は私はこのままここに居て
どうなるのでしょう」ふいに胸がつまって来てチサは
泣きそうになった。「おチサ様」 驚いたような伊豆守
「私は一人 一人っきりなの。この世界では」
「そうではござらん。それがしもおチサ様の身になって
見れば、その苦しみ 辛さを少々ながら分かり申す。
なれどおチサ様は決っしてお一人ではありませぬぞ。
まず上様がこの上もなく、貴女様を大切に思って
いらっしゃいまする。上様だけでなくそれがしも
お万の方様 お楽の方様も竹千代君も大勢の人々が
かけがえのないお方と思っております」
「伊豆守様」 思いがけない言葉にまたもや胸が迫って
来る。「今 こうしてここにおられる。その事が大切
なのでは、、きっとおチサ様はそういう役目を持って
おられたのだと存ずる」 「役目 私が、、、」
「それが神なのか仏なのかそれがしにも分かり申さぬが
おチサ様は選ばれたお方なのだと思われます。
決っして決っしてお一人ではございませぬぞ」と
いつしか伊豆守の言葉も態度も熱を帯びて来る。
チサは涙をぬぐった。そうなのだ 今歎いていても
どうしょうも無い事 20世紀には戻れないのだ。
今 ここに生きている事を大切にしょうとあの時
この世界に来て間もない時 自分に誓ったではないか。
「すみません。とり乱してしまいました。そう私一人
ではありませんでした。上様もお方様もお楽の方も
みな私を大切にして下さいます」 「それがしもで
ござる」 伊豆守がいつになく真剣に言うので
「失礼しました」と チサも苦笑するしか無い。
「役目と仰せられましたが、そうなのです。私には
竹千代君を丈夫に育て上げご自身の御子に
五代将軍を継がせるという大きな役目があった事を
ついぞ忘れておりました」 「それも大切な事でござるし
近頃は上様のお身体にもご留意下さり御膳所の料理人も
舌を巻くほどの腕前とか」 「それは大げさです。
私は後世の私達が食べていた料理を知っているだけ
なのです。だから身体に良い食べ物も、今この時代と
私のいた時代では考え方が違うのですよ。
例えばこの時代では絶対に食べられていないとは
言いませんが、少なくとも牛や豚の肉をここで私は
食べたことがありません。確か人々が牛の肉を食べ
出したのは江戸時代も末の事だったと思います。
魚もここでは鯛や鯒のような白身か鮎のような川魚
ですが、本当に身体に良い魚は鰯や鯖のような下魚と
して扱われている物なのです。伊豆守様 上様に
それを召し上がって頂く事はできませんか」
「お身体に大変良いとお考えでござるな」
「はい ただどれも腐り安い魚なので新鮮な物を手に入れ
すぐに調理しなければなりませんが、、」
「何とかして見ましょう。上様もいつぞやそれがしに
貴女様が言われる鰯を食してみたいと仰せでござった」
「ありがとうございます。背の青い魚の油は本当に体に良く
美味しい物でございます。是非とも貴方様も召し上がって
頂きたい物ですから」
続く。