チサ 御膳所に立つ
その上料理人達ははなはだしくプライドを傷つけられて
いるので将軍のお手付き中臈 何するものぞと意地悪げな
雰囲気をかもし出している。その中で十人前もの料理を
作らなければならない。もちろん家光一人で食べる
のではなく、毒味役が改めた後 まず奥御膳所まで
運び、盛り付けてから御小座敷まで運びひと箸ふた箸
手を付けたらすぐお代わりをと、取り替えるという
今では考えられない事だった。しかしその手を付けた
残りは捨てるのではなく、お付きの者がお下がりを
頂くのである。家では十人前もの料理を作った事の
無いチサは、冷や汗をかきながらも料理人達に指示を出す。
まず大根、人参、胡瓜は千切りにして下さいとか
かぶら、人参を細いの目切りにとか殻を剥いた海老を
すり鉢で良く擦り山芋を擦り混ぜるとか、鰆に粉を
まぶしてから油で焼いて下さいとか声を枯らして
指示するが男達はいっさい無言
その背中が冷たい。そこへ茶筅が届きまずはマヨネーズ
作り 大きな鉢に卵黄と酢をほんの数滴落とし
フイッシャーならぬ茶筅で良く混ぜてゆき そこへ
油を糸を引くがごとく少しづつ混ぜてゆき固まって
来たら酢を加えて、さらに良く混ぜる。
塩を加えて味を調えたらまぁ曲がりなりにマヨネーズが
出来上がった。料理人達が見た事のないマヨネーズに
興味を示したのでチサは別皿に取って自分が味見を
してから料理人にも味わさせて見た。みな一様に驚き
これはどのように使うのかと尋ねて来た。
生の野菜にかけると美味しいと言うと、また首を傾げる。
あまり野菜を生で食べる習慣が無い時代なので
仕方がない。次にフレンチドレッシングもどきを作り
それをベースに砂糖 醤油を加えて鯛のカルパッチョ風
のドレッシングとした。焼いた鰆には細いの目切りの
かぶら、人参、絹さやを茹でてサッと炒め
出し、酒、醤油に水とき片栗であんかけソースをかけた。
この頃になる料理人達はみな チサの周りに集まり
一心にその手元を見つめていた。
この新しい感覚での調理法に目を奪われている様子
茹で卵を飾り切りにし、色鮮やかな人参と板ずりした
胡瓜をステック状に切り、濃い緑色の菊菜の葉を
引いた大皿に、、、そのカラフルな彩りの品々の
配置の仕方は料理人達の職人魂を揺さぶり
チサを侮る空気は無くなって行く。チサは盛り付けて
いない生の人参や胡瓜を先程のマヨネーズや
ドレッシングをつけて試食させてみた。
「こうすれば生の野菜でも美味しく食べられるでしょう」
「まことに」と みな納得している。
「でも大切なのは野菜を良く洗う事 このマヨネーズと
ドレッシングは作り置きが出来ないと言うことです。
夏だったらー刻ぐらいで腐りますから食べる直前に
作らなければなりません」 そこへ毒味役の役人が
来て二人 それぞれに一品づつ食べて見る。
一同 その口元に思わず 目が行く中おもむろに箸を
置き、ややあって二人は顔を見合わせて
「よろしいでござろう」と 言うのが常であったが
この日はまず 二人の口から出た言葉が「美味い」で
あったのが笑い話である。
続く。