チサと伊豆守 中奥で
「先日 上様よりこなたに中奥に出向けとのお呼び
何事かと急ぎお伺いしたところ、珍しい茶器が
手に入ったとの事 お万に見せとうてとの思し召しじゃ
このようにいつ何時 お呼びがかかるか分からぬ。
その度そなたに付いて行って貰うのも面倒な事
それゆえ常の時は雪野に頼もうと思っています」
雪野という人は長年 お万の方付きの侍女として
勤めてきた20代後半といった落ち着いた物腰の人で
あった。「さようでございますか」 「あれは心利き足る
者です。そなたが侍女として中奥に行かねばならぬ
時があることを話してあります。そなたもおよのや
かな江達に良く言いきかしておくように」
「畏まりました」と いう事でチサは伊豆守に用がある時は
お万の方に申し出て中奥まで侍女として連れて行って貰い
大奥に近い控えの間において伊豆守と会うという少々
面倒くさい手段を取る事になった。
それほどまでにお手付き中臈は自由がなかったのである。
その年 家光に次男 長松が誕生した。
生母はあのお夏で、この長松は長じて綱重となり
甲斐の国 甲府の藩主となりその一子 綱豊は将来
綱吉と五代将軍の座をめぐって争う事に史実では
なっていた。だが 今は綱重が産まれたところ
この先はどうなるのか誰にも分からない。
この家光の時代 世の中は徳川で治まったとはいえ
まだ盤石とは言えず大名と旗本の間には格差があり
その大名も幕府の政策上 些細な事で取りつぶしに
あい、大勢の浪人を生み出していたりした。
その為 荒木又衛門で有名な外様大名と旗本が絡んだ
伊賀越えの仇討ちや旗本と町人の闘い、幡随院長兵衛
浪人達が徒党を組み幕府に刃向かった由井正雪事件
島原の乱等々 物騒な事も起きている。
だが悲しいかなチサは、それらの事件の詳しい年月を
覚えていない。日本史をもっと勉強しておけばよかった
と歎く由縁である。ただこの時代には大名 旗本 浪人
というそれぞれ不満を持っている人々が大勢いたと
いう事は分かっていた。チサのおぼろげな記憶によれば
由井正雪の事件は確か、家綱の時代だったような気がする。
という事はまだこれから先に起こる事 家綱は今まだ
四歳なのでまだまだ先のことではあるが、不満の芽は
早くに摘み取って置いた方が良い。チサは伊豆守に
これらのことを話して置いた方が良いのではないかと
考えた。そこでお万の方に申し出て、今度中奥に
参られる時は自分も連れて行ってほしいと願い出た。
お方様は心良く引き受け、4日後 京の実家から
送られて来た珍しい焼き物を上様にご披露したいと
口実をもうけ中奥に向かった。
続く。