放課後の彼女
この教室は何処か居心地が悪い。
そう思い始めたのは6月上旬、鬱陶しい梅雨の時期だった。
高校二年生。クラスが変わってもう二か月が経過しようというのに僕には友達という友達が一人も存在しなかった。
というものの、一年からどの部活動にも属さず、クラスメートの面倒な誘いを断り続けてきた結果だというのは言うまでもなく分かっていたことだ。
人と関わりを持つということは非常に面倒くさいと思い始めたのはいつからだろう、そういう事から逃げてきた僕にもちろんこの教室での居場所はない、言うならば自分の席の周りにだけ空気があるようなそんな感じ。
いつも息苦しく、自分だけの居場所がほしい、気づいたらいつもそんな事を考えていた。
お昼休み、担任の森口先生が僕の事を呼び出した。
何かしたかなと自分に最近あったことを思い浮かべる。
本を読んで授業を受けてまた本を読む。うん、変わりない平和な日常だ。
他に思い当たる節もない。それ以上考えてもしかたなかったのでとりあえず呼び出された通りに教務室へ足を運んだ。
「失礼します」
ゆっくりと開けたドアから教務室に取り付けられた冷房の冷気が外に漏れ僕は急いでドアを閉める。
6月上旬といってももう外はじわりと汗ばむくらいには暑い、早期的に冷房を使うのは賢明な判断だろう。
教務室には数人の先生達がお昼もとらずにテストの答案の作成や答え合わせを行っている。そんな中副校長はいつものように教務室の角に置かれた小さなテレビを見ていた、流れているニュースもありきたりな事件ばかりだ、殺人、強盗、事故。
そんな中でも思わず目を引いたのは、女子高生の交通事故だった。同じような年ごろの人が亡くなるというのはどうも特別気分が悪い。
目を逸らす都合をつけるかのように僕は本来の目的である森口先生を目視で探した。
あ、居た。
長身の細身、長い白衣を身にまとった森口先生がひょいひょいと右手を動かし僕を呼んでいる。
「あの、僕に用というのは」
駆け寄る僕。
すぐに事を済ましたかった。お昼も今のとこお預け状態だ、怒られるようなことがあるならさっさと怒られてしまおうとどこか開き直っていた。
「おお悪いな宮本、昼になんか呼び出したりして。昼飯まだだろ、すぐに終わるから」
「いえ、先生もお昼まだでしょうしお互い様ですよ」
どうやら怒られる訳じゃなさそうだ。
そして森口先生は「実は頼みがあってな」と続けながら、なにやら机の下から大きなダンボールを持ち上げ、どすんと机の上に置いた。
いやな予感が全身を駆け巡る。
「今日なクラス委員の中川休みだろ、そこでだな宮本。悪いんだがこの資料整理、頼まれてくれないか」
嫌な予感はど真ん中ストレートに的中した。
大きなダンボールにどっさりと資料が敷き詰められているのが一目で分かる。
「これ...全部一人でですか」
気だるそうな覇気のない声が出たのは自分でも分かった。
「すまん! この通りだ、他の委員のやつにも声かけたんだが部活の大会が近いらしくてな、そこで部活に入っていない宮本ならと思ったんだが...頼む! 簡単な作業だ、放課後にちょっとだけ残ってやってくれればそれでいい。な、先生を救うと思って」
両手をぴったりと顔の前で合わせ森口先生は懇願する。
本当に調子が狂う先生だ。
いつもなら何とかして断っていたと思う、しつこい森口先生はお昼休みぎりぎりまで頼み込んでくるだろう。
時計を横目で見てみればもうお昼休みは半分を過ぎていた、このままではお昼にありつけない、果たして僕はお昼無しにしてこの後の体育の授業を乗り越えられるだろうか。
その答えは否だ。
それらを天秤にかけた結果、僕は先生の頼みを引き受けることにした。
「ありがとうな宮本、それじゃあまた放課後に資料を取りに来てくれ」
森口先生はにっこりとした笑顔でそう言うと教務室のドアをぴしゃりと締めた。
ああ憂鬱だ...。
教務室の冷気に包まれていた体はじわりと廊下の気温にほぐされ、額に汗が滲んだのを憂鬱と共に感じた。
放課後、誰も居ない教室。
こんな時間まで残ったのはいつ以来だ。そうだ、一年の時に文化祭の準備を手伝った時以来になるだろうか。
沈みかけた夕日は教室をオレンジ色に染め、グラウンドからは部活動を勤しむ生徒たちの声が微かに聞こえる。
そうかこれが放課後か。
いつも授業が終われば僕はすぐに帰っていた、何をするわけでもない、居心地の悪い教室から一秒でも早くおさらばするために。
日中は騒がしい教室だ、女子達が姦しくたむろし、トーンの高い笑い声は耳をキーンとさせる。
しかし、今はどうだ。
教室には誰もおらず無駄な音は一切ない、グランドから聞こえる微かな声も言葉にはしづらいがどこか心地いい。
徐に本へと手が伸びる。
それはもう自然の摂理だ、誰も僕を止められない。
「げっ....」
机の横にかけた鞄から本を取り出そうとした時、僕は目の端にとらえてしまった。
大きなダンボールが床にドンと置かれている姿を。
忘れていた訳じゃない、決してだ。
大きくため息を吐いた後、僕は森口先生に頼まれていた資料整理を渋々始めた。
簡単な作業だ、誤字脱字がないかしっかりと調べ、適したファイルに分類して整理していく、それだけ。
本を読むのはまた今度にしよう、せっかく良質な空間をみつけたんだ。
まさか、あの居心地が悪かった教室が放課後になるだけでここまで良質な空間に早変わりするとは思いもしなかった。
どこか柄にもなくウキウキとしながら作業を進めていると、それは唐突だった。
後ろに気配を感じる。
条件反射とでも言うべきか。僕は勢いよく後ろを振り返った。
するとそこには。
にっこりと笑顔を浮かべる女子生徒がぽつんと立っていた。
いつ教室に入ってきたかは分からない。
この良質な空間の発見に浮かれすぎたか? 目が合った僕は軽く会釈すると彼女が最初に口を開いた。
「ねぇ君、ここのクラスの人だよね?」
「ああ、そうだけど」
見た所同じ学年か、クラスは違うようだけど。
彼女の首元には真っ赤なリボンが主張している、それは二学年の証明だ。
見た事のない顔。まあ同じクラスメートの顔すらあまり覚えてない僕が、違うクラスの生徒の顔を認識してるはずもなかった。
「大変そうだね、手伝おうか」
なんなんだこの人は。
言いながら僕の目の前に座った彼女は椅子をこちらに向けダンボールにまだたくさん敷き詰められた資料を手に取る。
森口先生の仕業か。
ふとそんなことを思った。
僕一人だけだと大変だろうと恐らく別のクラスから助けを呼んでくれたんだろう。
しかし、先生...それはありがた迷惑というんです。
「いや、いいよ僕一人でもすぐに終わるし。えっと...あんたもこんな作業面倒だろ」
「相澤!」
「えっ...?」
「私の名前!相澤 藍子っていうの」
「はぁ...俺は宮本」
下の名前は?と言わんばかりに首を傾げて見つめてくる。
これ以上関わるのも面倒だった僕は、見ないふりをして作業を再開する、もう手伝ってくれるならそれでもいいかという
どうでもいい気持ちになっていた。
「ねぇ宮本君、何か好きなものってある?ねぇってば」
さっきからずっとこの調子だ。
この女、どうやら沈黙ということを知らないらしい。
相澤と出会ってから数十分、いくつの質問をされたかわからない。端から見ればただ普通に質問してるように見えるだろう、しかしそれも僕からしてみれば、尋問となんらかわりない。
「本、本が好きだ」
あまりにもしつこいので答えた。
「へぇ~本かあ、いいよね本。こう世界が広がるっていうか、いろんなお話があるもんね」
意外と話の分かる奴かもしれない。
そう思ってしまったのが運の尽きだった。
「そうなんだよ。本は良い、作者によって全然話の切り口が違ったりしてそこにはいろんな世界がある、本を読むだけで無限に見聞が広がって知識欲が満たされるのが実感できるっていうか...」
「急に饒舌になっちゃって、ほんとに本がすきなんだねぇ」
気づいたら相澤はニタァとした笑顔を浮かべていた。
その顔を見てしまえば後悔が後を尽きない。
自分の愚かさを悔いた後、気恥ずかしさを紛らわせるように今度こそ作業に没頭した。
ていうかこいつ喋ってばっかりで手伝わないし、ほんとに何のために来たんだ。
「じゃあ宮本君はこの話知ってるかな?恋半ばで死んじゃった女の子のお話」
もう同じ轍を踏まないと、ひきつけられる興味を引きはがす。
「女の子にはね、憧れの男の人が居たの。そしてすぐにその憧れの人に恋をした。ドキドキしながら一緒に歩いたり、友達に恋の相談をしたり、女の子はね毎日が楽しかったの誰か一人の事を想えるのがとても幸せに感じたの。でも、想いはすぐに伝えるべきだった。
人と人との別れなんていつくるかわからないからね。まあ、あとはお察しかな」
僕の作業を進める手はいつの間にか止まっていた。
「悲しい話だな」
「まあねぇ、でも女の子もずるいと思わない?想っているだけで幸せって事はさ、その想いを伝えるのが怖いから逃げてたんだよきっと。」
「それはどうだろうな」
目を見開いて僕をじっと見つめている、作業をしながらでもそれは分かった。
相澤は僕の言い放った言葉の続きを待っている顔をしているに違いない。
そして望みどおりに言葉を続ける。
「僕だって逃げ続ける毎日さ、クラスメートから、先生から。世界を閉ざし好きな本に没頭する、でもそれが僕の生き方であり、幸せな生き方だ。
まあ一緒にするなって言われたらそれまでだけど、その女の子も想っているだけで幸せだったんだろ?気持ちなんてな言葉にしなくても伝わる。
大体な、そういう想いを伝えるっていうのは男の方から言わせるんだよ、そう本に書いてあった」
また柄にもないことを言ったと後悔したのは、言うまでもなかった。
「ぷっ...はは...あはは!」
突然、相澤の笑い声が教室に響き渡る。
「おい! 笑うなよ人が真剣に答えたっていうのに」
「ごめんごめん、ついね、言ってることはめちゃくちゃだけど、なんか納得させられちゃったのがおかしくて」
すごく腑に落ちない。
その細い指で笑い泣きした涙を拭いながらまだ少し笑っている相澤に不服を覚えたが、どこかすっきりとした部分もあった。
「はあ...やっと終わった」
話しながら続けていた資料整理も最後のファイルを整理し終えればダンボールの中にしまい、蓋をした。
「お疲れ様!」
「結局おまえ何も手伝ってくれなかったな、ほんとに何しに来たんだ」
笑顔の相澤に憎まれ口を叩くも、一人でやるよりは楽しかった、僕としては不思議にもそう思えた。
「丁度全体下校時間だ、僕はこれ先生の所に届けてくるから相澤もさっさと帰れよ」
んっしょとダンボールを両手いっぱいに抱え帰り支度を済ませてもまだ相澤は椅子に座っていた。
「やっと呼んでくれた、相澤って」
にっこりと見せたその笑顔は今までで一番眩しく、とても目に悪かった。
「うるさいな、べつに呼び方なんて何だっていいだろ」
「あんたとかおまえよりはいいよっ」
「そうか...それより早くしないと先生が鍵しめにくるぞ」
そんなことを言っていると廊下から一人、歩く音が聞こえる。
森口先生だ。
聞きなれた森口先生のスリッパの音、全体下校時間のため、言った通り教室の鍵を締めに来たんだ。
「ほら森口先生だ、相澤の事言ってやらないとな、先生がよこした助っ人は手伝わずに喋ってばっかりでしたってな」
意地悪そうに言った僕の言葉に相澤は何も返してこない。
怒ったのか? いや、でも僕は何も間違ったことは言っていない、実際話してなきゃもっと早く終わったし...。
「宮本君わたし、そろそろ行かないと」
椅子に座ってじっとこちらを見上げる。
「だから帰るぞって言ってんじゃん」
「ううん、違うの。私が帰るのは、宮本君とは違う道」
どういう意図でそう言っているか理解できない。
僕が意図しないまま、相澤は更に言葉を続ける。
「君の言葉は不器用で、どこかむちゃくちゃだったけど嬉しかった、先輩の真意は聞けなかったけどそれでもいいかなって思えた。
だからね、ありがとう。そして、さようなら。」
僕から言葉は出なかった。
ただ困惑して、相澤が何を言っているのか理解が追い付かない。
そして、僕は相澤にさよならすら言えなかった。
ガラガラっと勢いよく教室のドアが開く。
振り向くと教室の入り口に森口先生が立っていた。
「宮本悪いなーこんな時間まで、もう今日はいいから帰っていいぞお」
「あ、ああ...はいわかりました、ほら相澤も...」
森口先生の登場に、困惑していた頭も吹き飛び我に帰れば、もう一度相澤の座っている席に振り返ると。
そこに相澤の姿はなかった。
相澤が僕たちの目をかいくぐって教室から出て行った事は考えられない、目を離したのはほんの一瞬。
その一瞬に相澤はこの教室から消えたんだ。
「それにしてもこれ全部宮本一人でやってくれたのか、これはまた頼んじゃおうかなあ、なんて」
森口先生は僕の持っていたダンボールを広げ整理されたファイルの山を見ては感心したように言い、続けて冗談っぽくそう加えた。
「違う...これは僕一人でやったんじゃない、相澤も一緒に」
視線は相澤が座っていた席からどうしても離れない。力が抜けたようにその場に座り込めば、森口先生が驚いたように僕の肩をがっしりと掴んだ。
「宮本、お前今、相澤と言ったか」
「はい...僕はさっきまで一緒にいたんです、この教室に、相澤 藍子という生徒と」
森口先生は僕の言葉を聞いた後、ぽかーんと口を開けたままゆっくりと立ち上がる。
そして床に座り込む僕を見下ろしこう言った。
「宮本、それはあり得ない。その相澤 藍子という生徒は先月、不慮の交通事故で亡くなっているんだよ」
交通事故というフレーズが一つのシーンを思い出させる、フラッシュバックのように。
冷房で少し肌寒い教務室の角に置かれた小さなテレビ、そこに映し出されるよくあるようなニュース番組。
そして、思わず目にとまった女子高生交通事故を伝えるニュースキャスターの姿が今、頭に飛び込んだ。
僕は走り出していた、ただひたすらに。
誰に見られようと止められようとかまわない、そういう思いで走り出した僕はたどりついた、教務室に。
ドアを勢いよく開けるとやっぱりついていたテレビは相変わらずニュース番組を映している。
『先月、自転車で通学中の17歳の女性が、走ってきた車に跳ねられ死亡した事件で、そのまま逃亡した犯人が今日正午、警察の捜査の末逮捕に至りました――』
画面にはさっき見たはずの相澤の顔写真が映し出されていた。
相澤はやっぱり悔いがあったんだろうか、想いを伝える事ができなかった自分に。
他愛のない話の途中で言っていたあの女の子の話もそういうことかと自然と理解した。
それならもうすこしまじめに答えればよかった、そう後悔は尽きない。
気が付けば僕は、相澤のあった事故現場へと足を運んでいた。
行きかう車の中、電信柱の片隅に小さな花束が一つ、供えられていた。
まだ新しい。
色鮮やかな花束が風に揺れ、花弁が一つ、一つ散る。
その姿はどこか儚く、僕はゆっくりと手を合わせて、今日初め出会った彼女、相澤 藍子の安らかな眠りを願った。
「見ない顔だね君」
祈りを捧げる最中、後ろからそんな声が聞こえた。
振り返ると背が高く、一目見ただけで分かるような好青年が立っていた。
よく見ると同じ高校の制服だ、きっちりと締めたネクタイが青色でそれは三年生のものだとすぐに分かった。
「初めまして、二年の宮本と言います、その...クラスは違いますけど相澤と同学年で友人のようなものです」
「そうか藍子の友達か、ありがとう藍子に会いに来てくれて」
「いえ、すみません献花も添えずに」
直感、そういうものはあんまり信じはしないけれど今回だけはなぜか確信があった。
この人が女の子が憧れた男の人だと。
つまり相澤はこの人を。
「気にすることはないよ、藍子もこうして君が来てくれるだけで喜んでいると思う」
「あの、ぶしつけな質問かもしれませんが、いいでしょうか」
聞くしかなかった、真実を。
彼の口から。
「ん?構わないよ」
「その...先輩は相澤とお付き合いされていたんでしょうか」
答えは知っていたけれど、この切り出し方が正解なはずだ。
「いいや、付き合ってはいないよ。言うならば君と同じ友人、かな」
本題はここからだ。
その答えがどうであろうと僕は確かめる必要があると思った、相澤の最後の声を聴いた者として。
「では、最後に。先輩は相澤の事が好きでしたか」
「ああ、もちろん好きだよ、今でもね」
即答だった。
間髪入れずにその言葉が先輩の口から出た。
にっこりと笑いながら言い放ったその言葉に裏などまったく感じられない、真実の言葉。
よかったな相澤、どうだ見たか、俺の言ったとおりだろ。
『気持ちっていうのは、言葉にしなくても伝わるんだよ』
お前の気持ちちゃんと伝わってたよ。
その日を期に、放課後の彼女はもう教室に現れることはなかった。