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 本格的な夏に入った。

 学生たちは夏休みで浮かれているこの時期、サラリーマンの俊之は、今日も真面目に仕事をこなし、暗くなった道を歩いていた。

 すっかり陽が落ちきっても、まだ周囲には昼からのむわっとした熱気が残っていて、風はそよとも吹いてこない。冷房の効いた電車内から降りれば、すぐにでも汗が滲んでくるような、蒸し暑い夜である。「いつも涼しい顔をしている」と職場などでしょっちゅう言われる俊之だが、さすがにこの全身にまとわりつくような澱んだ空気には、ちょっとうんざりさせられた。

 今頃、アパートの部屋で待っている魔王さまもへばってるんじゃないかな、と考える。

 あのアパートは、家賃の安さと通勤の便だけで選んだ年季ものの物件だけに、通気性にも保温性にも優れていない。よって、夏は暑く、冬は寒い。暑さには強いという魔王さまは日中、一応ついているエアコンも入れず、扇風機だけで過ごしているらしいのだが、気温も不快指数もぐんぐん伸びた今日のような日は、下手をすると脱水症状を起こしてしまう。

 自分のスマホを取り出し、真っ黒の画面を見て、昼間に確認してみるべきだったか、と少し後悔した。この世界に大分慣れてきたとはいっても、あちらの世界ではまだ温暖化は始まっていないようだから、猛暑というものを軽く見ているとしても無理はない。それでなくとも、あの魔王さまは時々、大事なところが抜けている。

 今から電話してみようかなとも思ったが、それよりはこのまま帰ったほうが早いなと考え直した。魔王さまが部屋の真ん中で倒れている姿がぱっと頭に浮かび、俊之の足取りもついつい早まる。


「おい、お前」


 冷蔵庫に、スポーツドリンクが入っていたはずだけど。水分補給は必ずすること、と言い含めておいたが、ちゃんとその通りにしているだろうか。


「おい、お前!」


 そういやあの魔王さまは最近、海外ドラマにハマっているんだった。ごっそりと大量のDVDをレンタルしてきて、一日中でも飽きずに観ているが、夢中になりすぎると食べるのも飲むのも疎かになりがちだ。今日もそうだとしたら、余計に危ないな。


「おい、お前だよ、お前! 歩いてる男、お前しかいないだろ!」


 あのハマり癖は、一度説教してやらないといけないと思っていたのだが。この間はヨーグルトにハマって毎日三つも四つも食べ続け、結局お腹を壊したし。先日様子を見に来た折に獣人も言っていたが、魔王さまは子供の頃から胃腸があまり丈夫ではないらしい。


「おいっ、聞こえてるだろうが! 無視すんな、そこのお前だ!」

「…………」


 ここでようやく、俊之は大きなため息をついて、足を止めた。

 鬱陶しいからずっと無視していた大声の主は、どうやら諦めるということを知らないようだ。前を通り過ぎようが、立ち塞がるのを避けて進もうが、完全に目を合わせずにいようが、まったくメゲずに俊之のあとをくっついてきて、延々と話しかけてくる。

 この分ではアパートの部屋にまでついてくることは確実だと思われたので、俊之はやむなくそちらを振り向くことにした。

 以前ならともかく、今のあの場所には、魔王さまがいる。彼女を面倒事に巻き込ませたくはない。

「何か?」

「何か、じゃないんだよ! ずっと呼び止めてただろうが! なに今はじめて気づいたみたいな顔してんだ!」

 急いでいるところをわざわざ立ち止まって用件を聞いた俊之に対して、その男は不快さも露わにして噛みついてきた。礼儀を知らない人間である。俊之は、礼儀を知らない人間に、懇々と円滑な人間関係形成について諭してやるほど親切でもなければヒマでもない。

「用がないなら、僕はこれで」

 再び踵を返して歩き出す。

「ちょっ、待て! 用はある! あるに決まってんだろ、聞けよ!」

「僕は聞きたくない」

「待てって! くそったれ、どいつもこいつも無視しやがって、この世界のやつらはろくでもないのばっかりだな!」

 すげなく言ってすたすたと歩を進める俊之の腕を、男は後ろから乱暴に掴んだ。

「お前で五人目だぞ、五人目! みんな、俺をちらっと一目見ただけで、そのまま急ぎ足で立ち去りやがる! こっちの世界の連中は、揃いも揃って目も耳もただついてるだけのでくの坊か、ああ?!」

 加減のない力でぐいっと腕を引っ張られ、仕方なく俊之はもう一度立ち止まった。チンピラのような言葉遣いで忌々しそうに罵るその男を、冷ややかに振り返る。


 ──身につけているのは、銀の鎧、銀の兜、銀の具足。

 顔面部分を跳ね上げさせた兜から覗いているのは、ぼんやりとした街灯の明かりでもはっきりと判るほどの、輝く金髪と碧眼だ。

 あまつさえ手には、お巡りさんに見つかったらすぐさま銃刀法違反でしょっぴかれそうな、いかにも重たげな銀色の剣を持っている。


 こんな格好をした男が、夜道で荒々しく声をかけてきたら、誰だって青くなって逃げるに決まっているではないか。

 痴漢や変質者よりも数段、マトモな思考をどっかにやっちゃったような相手に目をつけられないよう、「見なかった」ことにして立ち去るのが、一般人としての普通の反応である。

 大体、五人に逃げられたくらいで何をそんなに怒っているのだ、この男は。そんなことを言ったら、九十九人もの男に逃げられ続けていた魔王さまと獣人はどうなる。

「そもそも、この暑さは一体何だ! 夜だというのに明るいし、薄気味わりいところだな、ここは!」

 鎧の男は俊之の腕を掴んだまま、憤懣を吐き出し続けた。この場合、こちらの人間から見て気味が悪いのは、間違いなく、この真夏にそんな鎧を着込んで往来を闊歩している男のほうだ。

「こんなところにいつまでもいられるか! さっさと魔王を倒してあちらの世界に帰る! だというのにこちらの世界の人間ときたら!」

「…………」

 また一通り、こちらの世界と人々に対する文句がずらずらと並べられた。俊之はそれを黙って聞いていたが、とりあえずこの時点で、鎧の男を放置してさっさと帰る、という案を捨てた。


「……君、魔王を倒しに来たの?」


 スーツの内側に手を入れて取り出した煙草に、ライターでカチッと火を点けながら問う。いつもはマナーとして、人と話しながら煙草を吸う時は、相手の許可を取ってからにしているのだが、今はそうする必要を感じなかった。

「おう! そうだ!」

 一瞬、ライターの小さな炎にびくっとした鎧男は、それが自分に向けられたものではないと知って、すぐに強気になって胸を張った。

「こちらの世界に魔王が来ていることはわかっている! 知っていたら居所を教えてもらおう! 素直に言わねばただでは済まんぞ、きさま!」

 「お前」から「きさま」に格下げだ。人にものを訊ねるのに、なぜこうもふんぞり返るのだろう。魔王さまも時々このポーズでえっへんと威張るが、あちらと違って、こちらはまったく可愛くない。

「どうして、魔王を倒す必要が?」

「必要もクソもあるか! 魔界の連中なぞ、みな害悪に過ぎぬからよ! 所詮あいつらは、ただの獣と、人のなりそこないだ! あのクズどもを滅ぼして、世界を平和にするのが我らの使命なのだ!」

「使命ねえ……」

 しかしいちいち語尾に「!」をつけて喋るのはやめて欲しい。近くの家の住人たちが、冷房をつけるために閉めた窓を通しても響いてくる大音量の叫び声を上げているのはどこのバカかと、さっきからあちこちでガラガラと窓を開けて覗いているではないか。そして俊之と一緒にいるそのバカが、変な鎧と兜をつけた変な人だと見てとるや、勢いよくピシャン! と窓を閉めているではないか。あと十分もしたら、パトカーのサイレンが聞こえてくるのは必至だ。

「──君は、人間界と魔界が分かれることになった経緯については知ってるの?」

 煙草を指でつまんで唇から外し、静かに聞いてみる。

 鎧男は、案の定、まったく意味が判らないように、ぽかんとした。

「なんだそれは! 分かれるも何も、魔界はもともと人間界とは別物よ! あんな化け物どもが同じ世界にいては、人々はおちおち安心して暮らしていけん! だからこの俺が──」

「…………」

 なるほど。

 鎧男の長々しい話は聞き流して、俊之は納得した。

 あちらの世界の人間界では、大昔の楽しく共存していた時代の記憶なんてものはすでにすっかり胡散霧消して、もはや伝承としても残っていない。しかし恐怖心と侮蔑の感情だけはしっかり残って、こういう厄介な考えを持つ者まで現われはじめた、ということか。

 ふう、と白い煙を吐き出す。こんな好戦的なのにいちいち喧嘩を吹っ掛けられていては、魔界の人たちも大変だ。

「で、魔王を探しにここまで来たと」

「そうだ! 代替わりした魔王は、まだ若く頼りない女だという話だからな! そんなやつは俺がこの剣をもってして一撃で仕留めてみせるわ! まあ、容姿が悪くなければ、殺すのは勘弁してやって、首に鎖をつけて見世物にするか、村の男たちの慰み者にしてやってもいい!」

「…………」

 俊之は、わっはっは、と大口を開けて笑う男に、指の間に挟んでいた煙草をすっと差し出した。

「あのね、これはこちらの世界の嗜好品なんだけどね」

「うん? 嗜好品?」

 男がいきなり目の前に突き出されたそれに、怪訝な表情をする。

「たまに、武器にもなるんだよ」


 そう言って、鎧の首のところから、持っていた煙草を中にぽとりと落とし入れた。


「ぎゃあああ! あつ、あつっ、熱い!」

 泡を喰ったように叫んで、男は暴れた。剣も道路に放り投げ、金属の具足で足踏みをするので、ガッチャガッチャと盛大な音が響いて喧しい。

「その鎧を脱がないと、中が燃えるよ」

 鎧男が踊り狂う様を他人事のように眺めて、俊之は冷静に指摘した。

 その声が聞こえたのか、それともそんなことは言われなくても判っているのか、大慌てで男が重そうな鎧を外しにかかる。そう言っている間にも、鎧のあちこちの隙間から、細い煙が立ち昇りはじめた。パトカーだけでなく、消防車も呼ばれてしまうかもしれない。

 ──で、数分後には。

 鎧を外し、具足を脱ぎ、ついでに兜も取って、ベージュの肌着姿になった金髪碧眼男が、ぜいぜいと肩で息をして佇むという、これはこれで非常にいかがわしい光景が夜の公道でお披露目されることになった。近所の住人たちはもはや、カーテンまで固く閉じて、一切の関わりを拒否している。

「あ、あ、熱かった……」

 どう見ても日本人ではない顔立ちのその男は、涙目になって、焦げのついた肌着を情けなさそうに見下ろした。鎧の中を滑り落ちていった煙草は、一応下腹部のあたりで止まって、さらに下の大事な部分が火傷して使いものにならなくなるという惨事までは免れたらしい。

「よし、じゃあ、身軽になったところで、はじめよう」

 俊之は、右手の拳を左手の手の平に、ぽんと軽く打ちつけて言った。

 そのまま、手に力を込めて、ボキボキボキ、と音を鳴らす。

「──くだらないことばかり言うその口を閉じていないと、舌を噛み切るよ」

 念のために忠告だけして、思いきり右手を振り上げた。



          ***



「おかえり、俊之!」

 玄関のドアを開けると、台所から顔だけを覗かせた魔王さまがそう言って、にこっと笑った。

「うん、ただいま」

 魔王さまはやっぱりエアコンを入れていなかったのか、部屋の中は外とほとんど変わりないくらい暑いが、外にはない良い香りがふんわりと漂っている。最近、料理の技術が身についてきた魔王さまが、夕飯の準備をしてくれていたらしい。はじめの頃の、ワークチェアに座ったまま、お腹を空かせた犬のようにひたすら俊之を待っていた姿が嘘のようだ。

 しかしとにかく、元気そうで、ほっとした。

「今日は暑かったでしょ。エアコンつけて、ちゃんと水分を補給してた?」

「俊之がうるさく言うので、たくさん飲んだぞ。でも、わらわはこのくらいの暑さはなんともない。エアコンとやらの風は、人工的で好かぬ」

「ずっとでなくてもいいから、時々はつけなさい。熱中症になる」

「そういえば、テレビでも注意喚起しておったわ。『エアコン嫌いのお年寄りは気をつけてください』というやつだろう?」

 自分で言って、あはは、と大笑いする。

「じゃあ、脆弱な俊之のために、エアコンをつけてやるか」

 魔王さまは「やれやれしょうがないな、現代の若者は」と本当に年寄りくさいことを言いながら、部屋の窓を閉めて、エアコンのリモコンでスイッチを入れた。しばらくしてから、ウィーンという音と共に、冷風が出はじめる。

「俊之、今夜の夕飯は、鳥の肉を油でこんがりと揚げたものだぞ」

「ああ、唐揚げね」

「あと、生の魚もあるぞ」

「刺身ね。ちゃんと野菜も食べないとダメだよ」

「お前は時々、口調がじいとそっくりになるな! そうだ、ビールもキンキンに冷やしておいたぞ!」

 あれこれと言いながら、魔王さまがチョコマカと動きまわるのを、俊之はエアコンの下で冷風に当たりながらなんとなく目で追った。彼女はいつも通り、ノースリーブのシャツに下はショートパンツという軽装だ。この格好でエアコンをつけっ放しにしておくのは、確かにあまりよくないかもしれないなあ、と考える。お腹を冷やしてしまいそうだ。

 夏はこういう洋服でいいとしても、冬はどうするんだろう。暑さに強い魔王さまは、寒さにも強いんだろうか。いかにこちらの人間と変わらない衣装といっても、真冬にショートパンツじゃ、下にタイツやスパッツでも履かない限り、相当周りから浮くに違いない。かといって、長いズボンやスカートは、本人がイヤがりそうだなあ。

 というところまでぼんやりと思ってから、気がついた。


 ……魔王さまが、冬までここにいるとは限らないか。


 彼女がこちらの世界にいるのは、あくまで伴侶探し、跡継ぎになる子供の父親を探すためなのだ。

 俊之とは未だそういう関係にはなっていないわけだし、他にこれという男を見つけたら、そちらに鞍替えをする可能性は大いにある。もしくは、魔王さまが相手は俊之でいいと言ったとしても、それで妊娠しなければ、また新しい父親候補を求めねばならなくなるだろう。

 ──そうやって。

 子供が出来るまで、魔王さまは男に自分の身を任せ続けていくんだろうか。出来たとしても、もう一人、あと一人、とどんどん新しい子を望まれるだろうことは想像に難くない。彼女は若くて、まだ先代魔王からその座を引き継いでからいくらも経っていないのに、それで魔界の人々を率いていけるのか。

「…………」

 無意識にスーツの内側に伸びた手が、「あれっ」という素っ頓狂な声によって動きを止めた。意識を自分の前に戻してみれば、魔王さまが目を丸くしてまじまじとこちらを見つめている。

「……どうしたの?」

「どうしたのはこっちの台詞だぞ、俊之。この手、どうした?」

 そう言って、彼女が握って持ち上げたのは、俊之の右手だった。

 ああ、と思って苦笑する。そういえば、赤く腫れて、ところどころ血もついているのだった。先に手洗いをしておかなきゃいけなかったな。

「ちょっとぶつけてね」

 魔王さまは、その言葉に両眉を下げて心配そうな顔をした。

「怪我したのか? 冷やしたほうがいいか? わらわは炎は操れるが、氷は操れぬのだ」

「大丈夫、なんともないよ」

 少なくとも、「俊之は」なんともない。今頃、非常に困っているのは、路上に倒れている肌着姿の外人が、身分を証明するものを何も持っていなくて、どこにも連絡しようがない救急隊員と警察官のほうだろう。

「わらわは治癒の力も使えぬからな……こちらでは、こういう場合、どうするのだったかな? 消毒か? 水で洗い流すのか?」

「消毒はいいから、じゃあ、濡れたタオルを持ってきてくれる?」

「わかった、待っておれ!」

 魔王さまは元気よく返事をして、飛ぶように洗面所に向かった。その慌てっぷりにちょっとだけ笑い、今度こそ煙草を出して口に咥える。

 心の中で、呟いた。

 ──「あんな化け物ども」、か。



 選択したものの是非はどうあれ、こちらの人間を驚かせないように、という理由で、黒マントを被ってやって来た、獣人と魔王。

 話を聞いて欲しい、と頼み、説明をして、頭まで下げた。

 魔王さまは、一生懸命こちらの世界に慣れようと努力し、ぶつぶつ文句を言いながらも素直に言うことを聞いている。

 そして、毎日のように笑って帰りを出迎えて、少し手が腫れたくらいであんな心配そうな顔までして。

 ……果たして、あの傍若無人な鎧男と、一体どっちが「人間らしい」のか。



 濡れタオルを手に、すぐに戻ってきた魔王さまを、俊之はじっと見つめた。

 その視線に気づいて、真っ黒い瞳がきょとんとしてこちらを見返してくる。

「なんだ?」

「なんでもない」

 そう言って、よしよしと頭を撫でてやる。ついでに額にチュッとキスもする。魔王さまは照れるよりも、ますます困惑したような顔をした。

「……な、なんだ?」

「あのさ」

「うん?」

「跪いて足に口づけしようとしたキモい男の頭を蹴飛ばして逃げたのは、僕が魔力を使うのを禁じたからでしょ?」

「そうだが……それがなんだ?」

「君は可愛いね」

「…………。ぶつけた拍子に頭も打ったか、俊之」

 本気で不安そうになった魔王さまを、ぎゅっと抱きしめた。



          ***



 二日後、魔界からこちらの世界にやって来た獣人に、鎧男についての事の次第をざっと話してやった。魔王さまは、例によって買い物中だ。

「なんと」

 いつもの黒マントを羽織ったままの獣人は、俊之の話を聞いて、目を大きく見開いた。

「人間界の者が、こちらの世界に? そんなことは、あるはずがないのじゃが……」

 目に見えておろおろと狼狽している。

「魔界とこちらとは、どのようにして繋がっているんですか」

 あまり興味がなかったので、そんなことは今まで一度も聞いたことがなかった。別に知らなくてもいいやと思っていたのだが、こと事態がこのようになったら、そんなことも言っていられない。今回はこちらに来たのが一人だけだったからよかったものの、万が一あちらから一兵団が押し寄せてきたりしたら、俊之だけではどうにもならないではないか。

「こちらとあちらは、次元の穴によって通じておる」

「次元の穴」

 よく判らないが、トンネルみたいなものかと思うようにしよう。

「魔力によって開けた穴のことよ。次元の穴自体は、誰でも通行可能じゃ。魔族でなくとも、人間界の者でも、こちらの人間でも、動物でも」

 節操がない、という言葉をなんとか押し留める。

「じゃが、穴に近寄ることは、誰にでも出来るわけではない。というより、そもそも普通は、穴の存在にも気づかない。魔力によって開けた穴には、魔封じの石を置いて、その力を相殺するからじゃ」

「意味がよく判らないんですけど」

 相殺してしまったら、次元の穴としての機能も果たさないのではないだろうか。

「うーむ、なんと言ったらいいかのう」

 獣人は困惑しているようだった。言葉では説明しがたい、ということらしい。


「魔封じの石は、その名の通り、魔の力を封じるものじゃ。人に対してはそのまま体内の魔力を抑えつける方向で作用するが、魔力をかけられた物体に対しては、そのものの魔の力を隠す働きをする。つまり次元の穴に魔封じの石を置けば、それは『在って在らず』、『在って見えず』という状態になる、というわけじゃ」


「…………」

 説明を聞いてもよく判らない。

 俊之の顔を見て、獣人もそれを理解したようだが、「そなたが判らないことは判るが、儂にもこれ以上説明のしようがない」と、お手上げの仕草をした。

 自分にはないものを言葉だけで納得しようというのが、土台無理な話なのかもしれない。俊之だって、どうやって眉を動かすのか、と獣人に問われたら、どう説明していいのか迷う。

「ま、いいや」

 頭をかりかり掻いて、理解するのを諦めた。

「とにかく、次元の穴というのは、本来、人間界の人には見つけられないものであるはずだと」

「そうそう、そうじゃ」

 獣人がうんうんと頷く。

「けど、実際、あの男はあちらからやって来て、『魔王を倒しに来た』なんて堂々と言い張っていた、わけだ」

「うーむ」

 獣人は困ったように顔を顰めたが、今にも人を襲いたそうな凶悪さが増しただけだった。

「それはまた別の世界の魔王のことではないかのう」

「そんな偶然があるとは思えませんね」

 おずおず出された可能性を、すっぱりと切り捨てる。もしかしたら、こことは異なる世界は他にいくつもあるのかもしれないが、たまたま今この時に、もうひとつの世界から別の魔王がやって来ている、なんてことはないだろう。この場所が魔王専用の観光地になったというのならともかく。

「この際、正直に答えてください」

 俊之が正面から獣人を見据えて言った。


「あちらの世界で何が起きているのか。うちにいる魔王さまは、どういう状況に置かれているのか。そもそも、どうしてここまで早いところ後継者をつくろうと焦っているのか」


「……ううーむ……」

 獣人は、巨体を縮めて、面目なさそうに頭に手をやった。





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