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一カ月ほど経ってから、獣人が様子を見に俊之のアパートを訪れた。
「ああ、いらっしゃい」
ちょうど日曜日で、部屋の中で煙草をふかしつつ本を読み、ゆったりと休日の午後を寛いで過ごしていた俊之は、そう言って獣人を出迎えて、どうぞ適当なところに、と促した。
この部屋には座布団やクッションなどという気の利いたものは存在しないのだが、畳の上にラグを敷いたので、以前より少しは座り心地が良いかもしれない。ラグを敷いたのは、もちろん魔王さまお気に入りのワークチェアでこれ以上畳を傷つけさせないためである。
獣人は、今は誰も座っていないその椅子をちらりと見てから、被っていた黒マントを脱ぎ、若干窮屈そうに身を縮めて、腰を下ろした。一応自分の身体がこちらの世界の住人よりもずっと大きくて、こちらの狭い住居にはそぐわないことを自覚し、遠慮しているらしい。
「かたじけない。ラーラさまは、ご不在のようじゃな」
「買い物に行ってます。もうすぐ戻ると思いますよ」
「なんと」
俊之の返事に、獣人が大きく目を見開いた。本人は普通に驚いただけなのかもしれないが、爛々と光る凶暴そうな瞳がくわっと開かれる様はなかなか迫力があって、小心な人間なら、これだけで失神してしまいそうだった。
「ラーラさまが? 買い物に?」
「近くのスーパーにね」
「なんと。お一人で?」
それは一大事、と言わんばかりに大きく横に広がった口から、鋭い牙がぎらりと覗く。こちらでの常識からいうと、その顔はどう見ても獲物を狙う肉食獣のそれだ。
「だ、大丈夫なのか? ラーラさまはなにしろ魔界では城の外にもお一人では出たことがないのじゃぞ。ましてや買い物など……こちらの世界には、どのような凶悪なものが潜んでいるのかも判らぬのに」
たぶん、こちらの世界の人間の十人中十人が「凶悪」と形容するであろう外見をした獣人は、目に見えてオロオロして、腰を浮かしかけた。
「お可哀想に、ラーラさま、慣れぬことで今頃は大変お困りになって泣いておられるのでは。こちらに帰って来られず迷子になられているやもしれん。こうなったらすぐにでもお迎えにあがらねば」
「…………」
──「はじめてのおつかい」だなあ、と俊之はのんびり煙草の灰を灰皿に落としながら、獣人の狼狽ぶりを眺めた。
成人を迎えた女の子に、そういう対応はいかがなものか。第一、その女の子は魔王なんだし。
「まあ、落ち着いて」
「し、しかし、俊之どの」
「心配いりませんよ。彼女はもう何回もスーパーに行ってますし、商品の選び方、代金の支払い方もマスターしましたから。僕が仕事でいない平日も、一人で買い物に出かけています」
「なんと。あのラーラさまが」
獣人は驚いているが、俊之には、そもそもそこまでお蚕ぐるみで魔王を育てる必要があったのかと、そちらのほうが疑問だ。確かにこちらでの貨幣システムや売買のありかたなどを、魔王さまに一から教えるのは大変なところもあったが、彼女はかなり真面目かつ熱心な生徒であったと思う。話し方はちょっとアレだが、途中で投げ出すことも怒ることもなく、目をキラキラさせながら、俊之の言うことを聞いて買い物を楽しんでいた。
今の魔王さまは、獣人が困っていた自動販売機で、難なく硬貨を入れて飲み物を取り出すことも出来る。自分が生まれ育ったところとはまったく異なる世界に着々と馴染んでいく彼女は、少なくとも柔軟性というものが非常に優れていると俊之は評価している。
「あなたは少々、彼女に過保護すぎるんじゃありませんかね」
俊之がそう言うと、獣人は顔を顰めた。お腹が空いたのかな、としか思えない顔だが、こちらの人間で言うとその表情は、「痛いところを突かれた」というようなものであったらしい。
「うむ、そうかもしれぬ。なにしろ、ひいさまは早くにお母上を亡くされ、お寂しい身の上であられたからの。お父上はお忙しくてあまり構ってもらえず、周りには同世代の子供もおらぬから、いつも城の庭でぽつんと一人で遊ばれて……。儂はもう、そんなひいさまが可哀想で可哀想で、よく自分の背に乗せて走り回ってやったもんじゃ」
獣人は在りし日のことを思い出したのか、ぐすぐずと鼻を啜り、目に浮かんだ大粒の涙を袖先でそっと押さえた。意外と、涙にも情にももろい年寄りである。
「せめて、もうちょっと容貌に恵まれておられればよかったのじゃが」
「──は?」
小さな声でぽつりと出された獣人の呟きに、つい煙草を咥えているのを忘れて口を開いてしまった。火の点いたままのそれが落下する手前でなんとか指で挟み、唇から外す。
一拍の沈黙を置いた後で、確認してみた。
「……もしかして、あなたは彼女が容貌に恵まれていない、と思ってるんですか」
「そうじゃろう?」
少し卑屈な目つきになって、獣人が下から掬うように俊之を見る。
口には出さなくても本当はお前もそう思ってんだろ、というような顔と言い方だった。
「なにしろラーラさまはあの通り、腹がぺったんこで、そのくせ胸と尻に肉が偏っておって、手足ばかりが長くて、非常にアンバランスな体型じゃ。豊かな毛は頭にしか生えておらず、せっかく大きな目は長い睫毛に覆われて視界が利かなさそうで、鼻は高さはあっても穴が細くて嗅覚に劣り、なによりああも口が小さく、牙もないのじゃから!」
「…………」
こちらの世界の女の子たちに袋叩きにされそうな台詞を、悲痛そのものの口調で言い募る獣人に、なんと返していいものやら迷う。この目この顔、まごうことなく本気だ。獣人は、まったくひとかけらの疑問の余地もなく、心の底からそう信じきっているらしい。
「……獣型の基準で、一方的に美を判定するのはどうかと思いますね」
「しかしヒト型の基準でも、同じことじゃろう」
「どうしてです?」
「さもなくば、これまで九十九人もの男に逃げられてはおるまい」
「…………」
その責任の大半が自分の外観にあるとは、この獣人の頭にはこれっぽっちも浮かんでいないんだな、と逆に感じ入る。
「お気の毒なひいさま。あちらの人間界の男たちのみならず、こちらの男たちからも敬遠されてしまうなど……」
俊之はようやく、魔王さまがやたらと「わらわは醜い」と自虐的だった理由が納得できた。
ヒト型が少ない魔界の城では、彼女の周りはほとんど獣型の魔物ばかりだったのだろう。小さい頃から自分を育てたじいがこんな調子なのだから、他の獣型からはもっと露骨に、「こんなに不器量で気の毒に」と憐れまれていたのではと推測できる。そりゃ、そんな環境では、自分の容姿についてああまで拗らせてしまっても無理はない。
「して、俊之どのにおかれては、少しはラーラさまを気に入っていただけたであろうか」
ちらっと窺うように目を向けられた。
「まだ、ラーラさまが懐妊されたとの知らせはないようじゃが……」
「懐妊に至る行為がそもそもまだですからね」
「なんと」
獣人は、あからさまに肩を落としてがっかりした。
「やはり、ラーラさまお相手では、なかなか男のものが反応せんかのう」
がっかりしながら、下品なことも言った。
「そういうことではなく」
俊之は吸っていた煙草を、ぎゅっと灰皿に押しつけて消した。少し、不必要なくらいの力が入っていたかもしれない。
「彼女にはまず、こちらでの生活に慣れてもらうのが先だと思ったからです。夫になる云々の話はともかく、子作りだのなんだのは、こちらの世界のことと、僕のことを知ってから、結論を出しても遅くはない。なにも今すぐ跡継ぎを作らないと魔界が滅ぶという話でもあるまいし、もう少し本人の意思を尊重してやったらどうなんです」
獣人の話を聞いていると、魔王さまの意思や希望よりも、まずは子を産むことが最優先、という魔界の打算ばかりが伝わってくる。子を産むといったってそれには男との性行為という前提があるのだし、どちらも行うのは魔王さま自身である。よほどそういったことに慣れているとか、それについての価値観と認識が犬や猫の繁殖とそう変わりない、ということならともかく、あの純情な二十歳の魔王さまには、相手は誰でもいいからとにかく子供を、というのはそれなりに苦痛を伴うものだろう。
魔界の人々は、そのことをもっと斟酌してやってしかるべきだ、と俊之は考えている。獣人に対する声がつい尖ってしまうくらいには、そう考えている。
「む……いや、しかし……」
獣人は難しい顔で唸り、もごもごと口を動かした。
言いにくそうに何かを続けようとしたらしいのだが、あいにく、それは威勢よく開いたドアの音で再び喉の奥へと引っ込んだ。
「今帰ったぞ、俊之!」
Tシャツとショートパンツとサンダルという、こちらの世界の女の子となんら変わらない身軽な格好をした魔王さまは、スーパーの袋を両手にぶら下げて、元気よく部屋の中に入ってきた。
「おお、じい、来ておったか!」
「ご無事で戻られましたか、ひいさま。まこと、お元気そうでなにより……」
獣人は深々と頭を下げたが、魔王さまは一声だけかけると、すぐにそれどころではないと言わんばかりに、ずかずかとまっすぐ俊之の許へ向かった。
「俊之、俊之! 見ろ、今日は豚肉が特売だった! 百グラムこの値段はお買い得だぞ、だから三パックまとめて買ってきた!」
「そんなに買って、食べられる?」
「使いきれない分は冷凍しておけばよいではないか。しかしここの冷蔵庫は冷凍室が狭いのが欠点だな。もっと大きければ、あれこれ買いだめが出来るのに」
「だって独身男の一人暮らしに、そんな大きいのは必要ないでしょ」
「そこがお前の浅はかなところよ。一人暮らしだからこそ、冷凍室はもっと活用すべきなのだ。今までに数多の食材が俊之のせいで腐っていったのかと思うと、哀れで泣けてくるわ」
「はいはい。じゃ、今日はその肉とキャベツでも炒めて……」
「またそれか! わらわはもうその献立には飽きたぞ。世の中にどれほど豚肉料理が溢れていると思っておる、俊之。せめて生姜焼きと、付け合せにキャベツの千切り、くらいは言えぬのか」
「生姜、ないよ」
「ふふん、わらわに抜かりなどない。野菜コーナーの安売りの棚からちゃんと……」
俊之と魔王さまが、延々と所帯じみたケチくさい会話を交わすのを、獣人はぽかんとした顔で聞いている。
「あの、ひいさま……」
「おう、じい。お前も食べていくか、生姜焼き」
「いえ、そうではなく……」
「しかしお前が食べると、三パックの肉があっという間になくなるな! やっぱり夕飯前に帰れ! 大体、人んちを訪ねるのに、手土産のひとつも持ってこないとはどういう了見だ。今度は城から高価そうな食材をありったけ掠めて持ってこい」
「は、はあ……」
言いたいだけ言うと、魔王さまはスーパーの袋を隣の台所に持っていった。腰を屈めて小さな冷蔵庫の中を覗き、しこたま買い込んだ食材を、どうやって詰め込むか真剣に検討しはじめる。
獣人はその背中を見て、俊之の顔を見た。虎だか何だかよく判らない獣の顔が、困惑に包まれている。
「ず、ずいぶん、こちらの生活に馴染まれたご様子……」
「それだけ努力したということですよ」
「うむ……」
俊之の言葉に、獣人はしみじみとした様子で何度も頷いた。爺やとして、感無量、といったところか。
「では、ラーラさまにおかれましては、こちらでの暮らしにご不都合なく──」
「不都合などない。こっちは気が楽でよいわ。俊之は時々小うるさいがな!」
冷蔵庫にあれこれ入れながら、魔王さまはすっぱりした口調で言ったが、いきなり何かを思いついたのか、ぱっと振り向いて立ち上がった。
「そうだ、じい!」
「な、なんでございましょう」
ものすごい勢いで呼びかけられて、獣人が引き気味になる。
「聞いて驚け、こちらでのわらわはモテる!」
「は……?」
獣人はまたもぽかんとしたが、魔王さまは腰に手を当て、胸を反らせて大威張りだ。一応、外を出歩いても問題のない格好であるが、彼女の好みによってその洋服はかなり身体にぴったりフィットしたものなので、そういうことをすると、ただでさえ大きな胸が、より強調されて余計に目立つ。
「わらわが外に出るとな、男どもの視線が一斉に向くのよ! ナンパされたのも一度や二度じゃないのだぞ。まいったか、じい!」
最初、あまりにも男たちにじろじろと見られるので、「わらわが醜いからみんなが見るのか」と泣きそうになっていた人物とは思えないほど、堂々たる自慢っぷりだなあ、と俊之は感心した。
マントを羽織って顔を隠す、と言い張る魔王さまを宥めるのは、結構な手間だった。それだとより一層注目を浴びてしまうこと間違いない。
「そ、それは……」
本当なのか、と大いに疑問を含んだ目を向けられたので、俊之は頷いた。
獣人が、信じられないという顔をして、首を捻る。
「なんと。その奇妙な衣装には、男の心を引きつける魔力でも備わってるのでしょうかなあ」
「うむ、おそらくそうだ! 他の娘たちを観察するに、どうも手足を露出させた衣装のほうが、より魅了の術が効くらしいな!」
違う。いや違いはしないが、重要なのは中身のほうであって、衣服に魔力がかかっている、という話では全然ない。
「うーむ、手や足を露出させるという点では、ラーラさまの本来の恰好のほうが上回っているはずですが……しかしあれで男を魅了することは今まで出来ませんでしたのに」
あれはあれで、一部特殊な嗜好の人を除き、魅了される前にドン引いてしまうからではないかな。
「わらわが思うに、やっぱりこちらの人間たちには、こちらの世界の衣服でないと術にはかからないのだ。奥深いことよ」
どちらかというと、魔王さまと獣人の頭の中のほうが奥深い、と俊之は思った。どうして普通に、魔王さまが可愛いから、という方向に話が進まないんだろう。
「一度など、あまりにもしつこくつきまとう男がいたのでな、『跪き、わらわの足の甲に口づけをすれば付き合ってやらぬでもないぞ』と言ってやったのよ」
「おお、ラーラさまが、男に対して、そのような上から目線発言を……!」
獣人が袖口で涙を拭っているが、そこは感激するようなところじゃない。大体、魔王さまは俊之と最初に会った時も、その台詞を口にしたではないか。断ったら大泣きしたけど。
「そうしたら、そいつめ、本当に跪いてわらわの足元に顔を寄せてきよって」
「おお! そ、それで?!」
「ちょーーーキモかった!!」
魔王さまは、こちらの世界の俗語にも着実に順応しつつあるのだった。
「頭を蹴飛ばして逃げたわ! わらわはあんな男は好かぬ! じいは男であれば誰でもいいと言ったが、あんな誇りのない男の血を半分持った子供が、魔界の跡継ぎたるべく器になるはずがない! よって、子作りをする相手は、もう少し時間をかけて見極めることにする! かような次第だ、魔界へ帰ってみなにもそう伝えよ!」
魔王さまが威厳のある声で命令すると、獣人は手をついて、「ははっ!」と平伏した。
***
窓辺に座り、外に向かって煙を吐き出す。
日が長くなったとはいえ、さすがにこの時刻になると窓の外はもう真っ暗だ。夜の闇の中に、白い煙が長く流れていくのを、俊之の傍らに座る魔王さまが、じいっと興味深そうに見つめている。
「面白い?」
「うむ」
言葉少なに、ただ煙の行き先を目で追っているのは、本当に面白いかららしい。食後に俊之が一服する時は、大概ぴったりと隣に寄り添って、ぽつりと赤く点る炎や、白くゆったりと空気を漂う煙を観察している。時々、煙を輪っかにする芸を披露したりすると、子供のように大喜びだ。
二人で過ごす時間は、俊之が想像していたよりもずっと、静かで、穏やかだった。誰かと同居、というのはいろいろと煩わしくなる時もあるのかな、ということも考えていたのだが、ほとんどそういうものを感じない。案外、魔王さまとの相性が悪くなかったということなのかもしれないし、今までの彼女を見ていて俊之の心情にも変化が起きてきた、ということなのかもしれない。
──こんな風に、一緒に眺める夜空が、綺麗だなと思うくらいには。
「君が、煙草やその臭いに嫌悪感を持たない子で幸いだ」
と、俊之は呟いた。
今まで、付き合った女性と別れる原因は、煙草であることが多かった。煙や臭いがどうしても受け付けない、という場合もあったし、煙草自体をほとんど憎むように目の敵にしている、という場合もあった。いちばん苦手なのは、「あなたの健康のためにやめて」と言われる場合だ。僕の健康と君とは関係ないでしょ? とつい本音を漏らして引っぱたかれた経験もある。
……いや、でも、それは表面的なことに過ぎないか。
要するに、俊之が、煙草をやめて恋人と付き合うことを選ぶ、という思考を持てなかったのがいちばん根本的な理由だ。彼女たちは、俊之の中に、そういう人間的に冷淡な部分があるのを嗅ぎ取って、離れていったのだろう。
結局、あなたは愛情ってものが理解できないのよ、となじられたこともある。
その言葉に、そうかもしれないな、と納得してしまった俊之のほうこそが、たぶん問題なのだ。
「……君たちが言う魔界とか魔物とかっていうのは、どうも、僕が思っていたようなのとは違うね」
少なくとも、あの獣人を見る限り、俊之よりもよほど愛情というものを理解しているように思える。いろいろとズレてはいるが、二人からは、「魔」という言葉から連想させるようなものは何も感じられない。
「そうか? 俊之はどういうものだと思っていたのだ?」
今まで自分が抱いていたイメージをありのまま話して聞かせてやると、魔王さまはけらけらと陽気に笑ってウケた。
「すいぶん怖ろしげだな。そうか、もしかすると、あちらの人間界のやつらもそう思っているのかもしれんな」
「じゃあ、人間界とは、友好的な関係ではないんだね?」
俊之が訊ねると、魔王さまはこっくりと頷いた。
「今は、そうだな」
「というと、昔は仲が良かったの?」
「仲が良いも何もない。我らと人間界のやつらは、根っこが同じなのだからな。ずっと昔には、人間界も魔界もなく、すべての者が同じ場所で暮らしておった。そのうち、異能を持ったもの、異形のものが、そこから弾かれるようになり、離れた場所で自分たちだけの国を作ろう、ということになった。それを人間界と区別して、魔界と呼ぶようになった、というだけの話よ」
魔王さまの説明に、俊之は目を瞬いた。
「──だったら、魔界の人たちももともとは人間だ、ということ?」
その問いには、わずかな苦笑が返ってきた。
「同じ生き物だった、というべきかな。人間というのが、ヒト型のみを指すというのなら、獣型は人間ではない。そして、人間というのが、体内に火や水を操る力を持たないものを指すというのなら、わらわもまた人間ではない」
ずーっと昔は、それでもみんなで楽しく暮らしていたらしいのだがなあ、と魔王さまはどこか遠いところを見て、静かな声で言った。
「しかしなあ、やっぱり、自分とは異なる外見、自分にはない力を持つ連中は、怖いと思うのだろうな。そのうち、疎外されるようになり、それがもとで諍いが起きるようになった。戦いになった場合、強いのはどちらか、というと──」
間違いなく、獣の形をした生き物と、特殊な能力を持つ生き物のほうだろう。疎外されて争った結果、彼らはまた恐れの対象となる。悪循環だ。
「それで我らの先祖は、異形と異能を引き連れ、離れることを選んだのよ。一緒にいると、自分たちが彼らを傷つけて、取り返しのつかないことになってしまう未来がはっきりと見えたのでな。……それでも最初のうち、両者には何かと交流があったから、こちらの代表者はせめて外見があちらと同じほうがいいだろう、ということになった。それで、魔界の王は、代々ヒト型が務めておるのだ」
「へえ……」
出来るだけ、人間界に住む人々を傷つけないよう、怯えさせないように。
……はじまりは、その優しい思いやりからだったのだ。
「長命の魔族は、大昔のその成り行きを知っておるからな。だから人間界を不用意に脅かすような真似はしない。だが、年数が経つうちに、その記憶は薄れ、知らないやつも出始める。ましてや、短命ばかりの人間界の連中に至っては、魔族は敵だとしか認識しないやつばかりだ。それであれこれ問題が起きる」
魔王さまはそう言って、軽く自分のこめかみを押さえた。
「……そうか」
「わらわもじいも、悩みが尽きぬわ」
あの獣人は、魔王さまの養育係であると同時に、魔界の重鎮でもあるらしい。大丈夫なのか、と少し心配になる。
「父上も、日々、大変そうであった。ヒト型魔族は年々減っていくしな。獣型魔族はちと気性が荒いのが多く、人間界から攻撃されると、手加減するのが難しい。そうすると、関係はこじれるばかりだ。父上は立派な魔王であられたからの、なんとか収めていたようだが」
魔界の住人たちは精一杯穏やかにやっていこうとしているのに、人間界の住人のほうが台無しにしているわけだ。そりゃ、頭が痛かったことだろう。
母親を亡くし、父親は魔王業に忙殺され、ヒト型も年々減っていく。周りは、可哀想にという目で自分を見る獣型ばかり。
──幼い娘は、事情を知っているがゆえに不平や不満を漏らすことも出来ず、対等に話す相手もいない城の庭で、一人寂しく遊んでいるしかなかった、ということか。
「……けど、君は、魔界と魔族のみんなが好きなんだ?」
「当たり前だろう。わらわの宝だぞ」
俊之の問いに、答えは躊躇なく返ってきた。思わず、微笑が洩れる。
「わらわに父上のような力があれば、みなを守ってやることも容易いのだろうが……いや、それは、言っても詮無いことだな」
「…………」
少し自嘲気味な笑みを浮かべる魔王さまの肩を抱き、ゆっくり顔を寄せた。
彼女のほうも何回か繰り返してキスにはもう慣れたのか、積極的というほどではないが、大人しく受け入れている。唇を割って舌を差し込むと、ちょっと戸惑いながらも素直に応じた。やっぱり顔が赤い。
可愛い魔王さまだな、と俊之は目を細めた。
「……でも、君がこちらで元気にやっていると知って、じいは安心していたようだったよ」
唇を離してからそう言うと、彼女は一瞬表情を止め、ことんと身を預けてきた。
「安心……安心か」
呟いてから口を開きかける。真面目な顔つきで何かを言おうとしたようだったのに、すぐにその唇を不自然な微笑に変えた。
「そうかもしれんな。わらわが子を孕めば、じいはもっと安心するのだろうが」
「…………」
俊之は黙って魔王さまの顔を覗き込んだ。今、彼女は何か別のことを言おうとしていたように思ったのだが。
「──どうする?」
と、聞いてみる。
魔王さまは無言でこちらを見返した。
「こちらの生活にも慣れてきたようだし、僕のこともある程度は判っただろう? その上で、いい、と君が言うのなら、協力するけど」
結婚して魔界に住め、という話ならまた別だが、子供が欲しい、というのが魔王さまの望みで、なおかつその行為の相手が俊之でいい、ということなら、俊之にも異存はない。恋や愛がなければそんなことは出来ない、という考えを持っているわけでもなければ、そういう感情をこの相手に対して抱いていないわけでもない。
「……うん」
魔王さまは俊之にもたれかかったまま、虚空を見つめて曖昧な返事をした。いつでもハッキリキッパリした喋り方をする彼女にしては珍しい。
「そう……そうだな」
表情にも、声にも、迷いがあるのを、俊之は感じ取った。仕方ない、それに対する躊躇はあって当然だ。
「無理しなくてもいいよ。君のことだし、ゆっくり考えればいい。僕も、イヤがる相手に、さらに痛い思いをさせて喜ぶ趣味はないしね」
「え」
魔王さまがびっくりしたような声を上げて、俊之から離れた。目を真ん丸にしてこちらを見返してくる。
「──痛いのか?」
「だって君、はじめてでしょ?」
「はじめてだと、痛いのか? すごく?」
「すごくかどうかは、人によるんじゃない?」
「人によっては、死ぬほど痛いのか?!」
引き攣った表情は、かなり動揺している。どうも彼女は子作り子作りと連呼するわりに、そのテの情報と知識に疎い。
「お、おかしいな……じいが言うには、最初の時からめくるめく快感と恍惚の世界に引きずり込まれて、しばらくはそれの虜になってしまう者もいるので気をつけなされ、という話だったのだが……」
ぶつぶつと呟いているのは、なにやらろくでもない内容だ。
「ひょっとしたら、獣型はそうかもね。それに、男と女は違うから。君は女の子で、しかもどう考えても構造その他は獣よりはこちらの人間に近いみたいだし、最初から快感に我を忘れる、ってことはないと思うけど」
「そこはお前の努力でなんとかしろ、俊之!」
無茶なことを言わないで欲しい。
「いや待て、わらわは痛いのは苦手だ。とても苦手だ。ていうかイヤだ。実行に移すかどうか、ちょっと考えさせてくれ」
さっきと違い、今度はきっぱりと返事をされた。
余計なこと言ったかな、と俊之はほんの少し後悔した。