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その日、本田俊之は、いつものように勤めを終えて、いつものように真っ暗になった夜道を一人で歩いていた。
残業で帰宅が九時近くになるのも大体いつもと同じ。駅から俊之が住むアパートまでは住宅街が続き、たまに小さな個人商店くらいはあるものの、この時刻ではすでにどこも閉店してシャッターを下ろしていて、ぼんやりした街灯の明かりくらいしかない道路に、俊之以外の人の姿がないのもいつもと同じだ。
しんとした静けさの中、コツコツという自分の革靴がアスファルトを踏んで立てる音を聞きながら、俊之はいつものように、帰ってから何を食べようかということを考えていた。
メインの白米は、休みの日にたくさん炊いて冷凍保存しておいたものがあるから、それを解凍すればいい。おかずはどうするかな。確かまだ豚肉の細切れが残ってたはずだから、あれを焼こうかな。いつ買ったんだっけ? まあいいや。でもそれだけじゃ野菜が足りないな、キャベツでも食うか。千切りにするのは面倒だし、あれもそろそろ萎びてきたから、ザク切りにして肉と一緒に焼けばいいか。
既婚者が聞いたらちょっと同情で泣いてしまいそうな独身男の侘しい献立を、俊之は淡々と頭で組み立てていく。十代の頃からずっと一人暮らしなので、今さらそのことについて、寂しいとも面倒だとも思ったりはしない。時々仕事が多忙になるとコンビニ弁当やインスタント食品に頼ることもあるが、基本、男だろうと女だろうと、一人で生活するのに必要最小限度の家事をするのは当然のことだと俊之は思っている。
が、そこまで決めたところで、ぴたりと動かしていた足を止めた。
そういや、ビールまだあったっけ、と思い出したのである。冷蔵庫に入っていたビールは、昨日飲んだのが最後だったかもしれない。いつもは少なくなってきたら日曜日に箱買いをしておくのだが、この間の日曜は大雨が降って買い物に行くのを断念したのだ。従って、買い置きもない。
何が何でも晩酌しないと気が済まない、というほどではないが、やっぱり一缶くらいは飲まないと落ち着かない。飯を食べて、風呂に入ったら、あとは本を読むかテレビを観るかくらいしかすることのない俊之にとって、その時ちびちびと飲むビールがないとなんとなく手持無沙汰だ。
というわけで、自分のアパートはもう近くまで迫っていたが、俊之はそこでくるりと方向転換した。
そうしたら、自分のすぐ後ろに、黒いマントを羽織った人がいた。
誇張ではなく、大袈裟な表現でもなく、マントのような何か、という比喩でもなく、本当に正真正銘の黒マントである。
色は周囲の闇に溶け込んだ漆黒。丈はくるぶし近くまであり、ご丁寧にフードまで被っている。こういうの、どっかで見たなと自分の脳内を探って、そうそう黒ミサで血を飲んだりする人たちの恰好に似ているんだ、という解答に辿り着いた。いやもちろん、俊之の身近に黒ミサを開催する人間がいるわけではないので、その知識はおおむね漫画とかのイメージから来ているものなのだが。
フードを目深に被った黒マントは、まったく顔が判別できなかった。背は高いが、男か女かも判らない。体格ががっちりしているのはマントを羽織っていても見て取れるから、可能性として高いのは男だ。
その黒マントの人物は、前を歩いていた俊之が、いきなり向きを変えて後ろを振り返ったことに、心底仰天したらしい。
文字通り飛び上がり、「ぎゃっ」という、野太いが小さな悲鳴を上げた。
「…………」
普通、驚くのはこちらではないかと思うのだが、俊之はそういったことで感情を揺らさないタチである。それよりも、黒マントの明らかな動揺っぷりが謎で、その場に立ち止まってまじまじと相手を見つめた。
この反応、まるで、俊之の後をそっと尾けてきたみたいではないか。痴漢や変質者が女の子を尾けまわす、というのならともかく、どうして会社帰りのサラリーマンを狙うのか、意味が判らない。
俊之に視線を向けられた黒マントは、いきなりそわそわしはじめ、ウロウロと顔を周囲に巡らせた。
そして近くの道路脇に、自動販売機があるのを見つけ、さもそれに用があったのだと言わんばかりに、ぽんと拳を手の平に打ちつけて、いそいそした足取りでそちらに寄っていった。
自販機と向かい合い、少し考えるような間を置いてから、首を傾げる。
それからマントに包まれた腕を動かして、目についたボタンを押してみたが、もちろんお金を入れていない機械からは、何も吐き出されてこない。あれえ? というように首を傾げ、黒マントは何度もボタンを押してチャレンジしたが、やっぱり何も出てこないので、当惑したようにおずおずと俊之のほうを振り返った。
「…………」
俊之はその様子を黙って見学していたが、そこでひとつの結論を出した。
──これは、あんまり関わっちゃいけないアレだ。
現代日本の、こんな時間のこんな場所で、黒マントという異装をしているところまでは、まだしもコスプレかなという理由で納得できないこともない。俊之がたとえば年頃の女の子であれば、自分の背後にこんな格好をしたのがいたら身も凍るような恐怖を味わうだろうと思うが、ただ立っているだけなら罪にはなるまい。いかに怪しさ満点で、挙動不審であろうとも、それだけで犯罪者扱いしてはいけないのと同じである。
しかし、自動販売機の使い方を知らない、というのは、俊之の常識の許容範囲外だ。いきなり変な電波を受信してナイフを振り回したりする人のような、言葉の通じない相手であるニオイがプンプンする。
そんなわけで、俊之は黒マントを無視することに決め、歩くのを再開させた。どこに行くのかって、ビールを買いに行くのである。アパートに帰ったら、解凍した飯と肉とキャベツを食べて、風呂に入って、ビールを飲んで寝よう。
「ま、待て!」
後ろから、野太い声が慌てたように制止したが、気にしない。
「待てと言うに! ちょっと!」
ビールはいくつ買うかな。明日は金曜だから、二つでいいか。土曜にまとめ買いに行けばいいし。
「待って! 頼むから! ごめんなさい待って、話を聞いてくださらんか!」
「…………」
はあー、と大きなため息をついて、足を止める。
渋々ながら後ろを振り返ると、黒マントが縋るように追いかけてきていた。今度こそ逃がさない、というように、だだだっと駆けてきて一気に間を詰め、がしっと俊之の手を掴む。
掴んできたのは、ぶっとくて、毛むくじゃらで、大きな爪もついた、どう見ても人間のものではない手だった。
「……僕に、何か」
俊之はその手を見下ろしてから、顔を上げて黒マントに訊ねた。大きな身体をした相手は、頭が俊之よりも数十センチは上のほうにあり、こうしてすぐ間近で覗き込むようにしてみると、フードに隠れていたその顔も目に入った。
手を見た時点で予想はついていたが、その顔全体も、もじゃもじゃとした毛に覆われている。見た目としては虎に似ていないこともないが、それは俊之の知っている動物に例えろと言われれば虎かな、という程度のもので、一言で言ってしまえば地球上のどの動物とも異なっていた。
ぎょろりとした金色の目はいかにも凶暴そうに爛々とした光を放っている。しかしこんなにも情けなく垂れ下がっていては、台無しだ。
「じ、実はそなたに折り入って相談が」
「お断りします」
「そんな即答せんでもいいじゃろ! せめて内容を聞いてから、うーん、という考える間を置いたってバチは当たらんじゃろ!」
「厄介事に巻き込まれるのは御免なので」
「そんなことないって! たぶん、きっと、そなたにも損はない話じゃって! ピチピチの可愛い女の子と二人っきりで楽しく時間を過ごせちゃうという夢のような話じゃぞい!」
「ぼったくりバーにも美人局にも興味ないし」
「まあそう言わず! ちょっと見るだけ! 見るだけならタダ! 儂の可愛いおひいさんを見たらそなたも気が変わる、かもしれない!」
「──やめんか、じい」
ネオン街の強引な客引きよろしく、俊之の手を掴んでずるずるとどこかに引っ張っていこうとしていた獣人は、その凛とした声で、動きを止めた。
見ると、さっき獣人が立ち尽くしていた自販機の陰から、新たに黒マント姿の人物が立ち上がり、出てきたところだった。今までその場所でじっとうずくまって、出番を待っていたらしい。
そちらは獣人よりもずっと小柄だ。しかし同じくフードを被っているので、顔は見えない。
「なぜそう低姿勢になる必要があるか、バカモノ。もっと威厳と誇りをもって、命令してやればよいではないか。こんなにも栄誉ある役目を授けてやろうというのだからな、本来なら随喜の涙を零して地面に手をつき、ありがとうございますそのような大任に選んでくださり感謝の念に堪えません、とわらわの足の甲に口づけて礼を申すべきなのだぞ」
声は高く澄んでいる。女の子のようだ。いや、獣だったら、オスメスと言ったほうがいいのだろうか。
「そんなこと言って……今まで九十九人の男に、話をするまでもなく逃げられたではありませぬか……」
「じい」と呼ばれた獣人が、ぶつぶつと恨みがましそうに呟いた。どうやら俊之の前にもさんざん客引き行為をして、そのたび逃げられていたようだ。年寄り獣人の苦労が察せられる。
「おい、きさま!」
小さい黒マントは、マントを羽織っていてもふんぞり返っていると判る居丈高な態度で、びしりと俊之に向かってまっすぐ人差し指を突きつけた。
その手は毛に覆われていない、細く滑らかな、普通の人間の手だった。
「きさまをこのラーラさまの夫にしてやる! ありがたく思え!」
「…………」
俊之はちょっと無言で、自分に突き立てられる指と、目の前の黒マント(小)を見つめた。
「お断りします」
再びすっぱりそう言うと、獣人に掴まれたまま踵を返す。
その途端、背後で、うわあん! という盛大な女の子の泣き声がして、俊之はもう一度、はあー、と大きなため息をついた。
***
しょうがないので、俊之は自分のアパートに、二人の黒マントを連れて行った。
話を聞いてやる気になったとか、気の毒になったとかではなく、単純に近所迷惑だと思ったからだ。自分には関係ない、とその場に放置しておきたいのは山々だったのだが、なにしろ獣人のほうは頑として自分の手を離してくれないし、もう一人のほうは夜間であるにも関わらずわんわんと泣き叫んでいる。いずれ近隣住民が警察を呼ぶのも時間の問題で、そうなった時の面倒さは現在の状況の比ではないと推測できた。
畳敷きの一間、あとは押入れと風呂とトイレと小さな台所だけ、という、狭くて殺風景なアパートの部屋では、俊之と大柄な獣人とまだ泣いている小さな黒マントが入っただけで、もう大入り満員の状態である。あまりにも息苦しいので、俊之は窓を開けて空気の入れ替えをした。
電気を点けた部屋の中では、小さな黒マントのフードの中の顔もちゃんと見える。
そっちはやっぱり獣ではなく、人間だった。
そしてやっぱり、女の子だった。
黒い目、黒い髪。だが、目鼻立ちがくっきりとして、日本人とはまったく造形の異なる顔立ちをしている。肌も褐色だ。見たところ二十代くらいのようだが、どうだろう。なにしろ本人はまだぐしゅぐしゅと鼻を啜りながら泣き続けていて、俊之が貸してやった新聞屋の粗品のタオルで顔を拭っているため、はっきりとは判らない。
「煙草、吸ってもいい?」
俊之が聞くと、ようやく女の子がタオルから目を上げ、きょとんとした。
「タバコとはなんだ?」
「これ」
スーツの中に手を入れて、ワイシャツのポケットから煙草の紙箱とライターを取り出す。口に咥えながら、窓の桟に置いてあった灰皿を取り、火を点けた。
昔からの愛煙家である俊之にとって、最近の嫌煙ムード一色の世間はなかなか居心地が悪い。会社の中でも喫煙場所に行ってわざわざ吸わなければならないため、いつもアパートに帰ると、まず真っ先に煙草を吸いたいと思ってしまうのである。
「おお、煙が出るぞ」
いちいちびっくりしたように、大きな目をぱちぱちと瞬く。とりあえず、くさい、煙が服につく、副流煙で癌になったらどうしてくれる、という文句は言われないで済みそうだ。
「炎ではない明かりがあるかと思えば、そのような小さな炎を焚いてわざわざ煙を吸うとは。この世界は、何もかもがわらわの理解に及ばぬ」
そう言いながら、俊之が咥えている煙草の先端がぽっと赤くなるのと、白い煙が流れていくのを、じっと魅入られるように見つめている。その様は幼い子供のようで、そして実際子供のように、けろりと泣くことを忘れてしまったらしい。単純だ。
大きな図体の獣人が、背中を丸めるようにして、そろそろと話を切り出した。
「──それで、さきほどの話じゃがのう」
「なんの話でしたっけ」
「しれっととぼけるのはやめて下さらんか! ほら、その、アレじゃ、つまりのう、そなたに、このラーラさまの夫になってもらいたく……」
「お断りします」
そう答えると、獣人が苦り切った表情をし、ラーラと呼ばれた女の子がまた泣きそうになってわなわなと唇を震わせた。ふー……と煙草の白煙と一緒にため息を吐き出し、指を動かして灰皿に灰を落とす。
「……事情説明も一切なく、いきなり夫になれと言われたら、断るしかないでしょう。しかもその子はともかく、あなたはどう見てもこの世界の人ではなさそうだし。僕は確かに三十近い独身ですが、それでも別の世界の、人間ではない種族の女性とすぐにでも結婚したいと思うほど、焦ってはいません」
というより、むしろ俊之は、結婚なんて一生しなくてもいいかなあと考えているほうだ。せっついてくるような親族もいないし、自分の性格上、あまりそういったものに向いているとも思えないからである。
ああいうのは、高揚とか、気の迷いとか、勢いとかに押されてするものだと聞いている。そのどれにも縁がない俊之は、たとえ恋人が出来ても、おそらく結婚に踏み出すきっかけが永遠に見つけられないだろう。
現在の生活に、まったくなんの問題もない。一人が二人になる、必要性も感じない。こんなことを普通に考えるような無味乾燥な男は、生涯独身を貫いていればいいのだ。
「じゃあ、とにかく話を! 事情説明をさせてくれんか! 今までの男どもは、そこまで行かず、すぐに大声で叫んで遁走してしまいおったのよ。せっかくこの世界の住人を驚かせないよう、こうして変装までしとるのに」
「その変装は、かえって逆効果だと思いますがね」
そりゃ獣の姿でいきなり出てこられたら驚くだろうが、普通、夜道の背後に黒いマントが唐突に出現したら、ほとんど物事に動じない俊之のような人間以外は、とりあえず逃げる。もう少し、上手な方法は考えられなかったのか。
「そ、そうであろうか」
獣人が困惑したように自分の恰好を見下ろした。
フードはもう取ったとはいえ、まだ身体の大部分は黒マントで覆われたままである。部屋に入る時に靴を脱いでもらったが、獣人のほうは大きく頑丈な軍靴のような形状の編み上げ靴で、女の子のほうは黒くて長い革製のロングブーツだった。ということは、その下にちゃんと衣服くらいは着用しているのだろう。
「そのマント、いい加減脱いだらどうです?」
そろそろ初夏になろうというこの時期、見ているだけで暑苦しいのでそう勧めると、二人は素直にもぞもぞとマントを脱いだ。
「…………」
俊之の手の煙草から、灰がポロリと畳に落ちた。
獣人のほうは、特筆すべきことはないので置いておこう。靴から想像できるような、軍服に似た格好だ。まあいい、それはどうでも。
問題は、女の子のほうだ。
有り体に言うと、それは、「女王様の衣装」だったのである。それも、王冠があってぴらぴらしたフリルがついてドレスの裾が床までつきそうな女王様ではなく、これで鞭を持ったらさぞかし似合いそう、というほうの女王様だ。
艶々した黒いボンテージ衣装は、すらりと長い手足を露出させるだけでなく、出るべきところが出て、引っ込んでいるところは引っ込んでいる美しい曲線を強調させる役目を十二分に果たしていた。ていうか、半分くらい裸だろコレ、と思わずにいられないくらいだった。臍が隠れている分、ビキニよりはまだ少しマシ、というくらいだ。
谷間の深い胸元は、コルセットのように編んである紐を引っ張れば、すぐにでも豊かな中身が出てきそうな……いや、詳細な描写は省くが、とにかくその格好でちんまり畳に正座してる姿は、もはや違和感しか存在しない。
「……君はやっぱり、マントを着てたほうがいい」
「なぜだ」
「いいから」
なぜだ、いいから、の不毛な問答を繰り返し、ぐいぐいとマントを押しつける俊之に、女の子は不承不承という感じでマントを羽織った。
俊之たちのやり取りを余所に、獣人は一人、というか一匹、沈痛な表情になっている。
「……実はのう、ここにおられるラーラさまは、とある世界の」
「女王ですか」
「なんで女王? いや、魔王さまよ」
そっちか、とそれはそれで俊之は納得した。そういやこんな感じだ、女魔王。いやもちろんそれも漫画とかから得たイメージ映像、ということだが、こうして見ると実物にかなり近い。
「二年前、先代の魔王さまがお亡くなりになり、このラーラさまが新しく魔王の座にお就きになられたのじゃが……」
長々と続いた獣人の話を要約すると、大体こんなようなことだ。
彼らの世界では、人間界と魔界というものが存在し、時々諍いを起こしながらも、なんとか長いこと、共存してやって来ていた。
魔族というのは、寿命が個人によってかなり異なり、長いのだと五百年、短いのだと五十年くらいで死んでしまうこともあるのだという。
それは魔族の頂点に立つ王も、例外ではない。が、それまではずっと長命の王が続いていたので、油断があったのかもしれない。実際に問題が起きてから、魔族の面々はそのことに気がつくことになった。
先代の魔王というのがその短い寿命のほうで、五十を過ぎたところでぽっくりと亡くなってしまったのだ。妻はすでに亡くなっているため、残されたのは当時十八歳だった娘、ラーラのみ。
ラーラは新しい魔王となったものの、彼女の寿命が短いか長いかは誰にも判らない。もしかして数百年生きて治世を続けるかもしれないが、下手をすれば数年後には死んでしまう恐れもある。
その場合、跡継ぎのいない魔界は、大きな混乱に陥るだろう。誰が新魔王となるかで、戦争が起きても不思議ではない。
だとしたら急務として、ラーラには早いうちに子供を産んでもらわねばならない。魔王が男なら何人も妻を持ってもらえばいいことだが、女であれば、魔王本人が子を孕まねば、正統な血を残せないということである。
そんな次第で、魔族たちはラーラに宛がわれる種馬となるべき夫選びに取り掛かったのだが、しかしそれは、非常に困難を極めた──
「なぜです?」
俊之が訊ねると、獣人は腕組みをして、ぐるるると唸った。人間で言うと、「もどかしげに歯噛みをした」というところか。獣なので、歯ではなく牙なのだが。
「相手がおらぬのよ」
「魔王の夫でしょ? みんな、そんな大役は嫌だって尻込みするんですか」
「そこまでの腑抜けはおらぬよ。そりゃもう、夫を志願する者は、それこそ城の前に列を成すほどいたのだが」
しょぼんと肩を落とす。
「……ヒト型の魔族がおらん」
「ヒト型」
呟いて、俊之は獣人と女の子を見比べた。なるほど、要するに魔族なるものには、ヒト型と獣型とがあるらしい。
「昔はヒト型の魔族も多くいたのだが、近年になって大幅に数が減ってしまい、女と年寄りばかりで、ヒト型の若い男がおらん。ラーラさまとつがうべき相手が、魔界にはおらんのじゃ」
「あなたのようなタイプの男は夫にはなれないんですか」
「型が違うとまぐわえん」
プラグの形と差込口の形が違ったら入らない、というような言い方だ。まぐわう、って表現もちょっとどうかと思うが。
「魔王は代々ヒト型だった。しかし魔界からヒト型魔族は減少の一途を辿っておる。だから魔族の中には、獣型が王になるべきだという動きも出てきておってな。これでラーラさまがお子を作れないとなると……」
クーデターが起こりかねない、ということか。よくは判らないが、どこの世界もいろいろと大変らしい。
「この際だから贅沢は言っておれぬ。人間界から活きのよさそうなのを連れてきて、ラーラさまの夫にしようと思ったのじゃが」
「魔王の配偶者なのに、魔族でなくてもいいんですか」
「あまりよくはないが、さほど問題ではない」
結構、いい加減だな。
「しかし、人間界の男は、どいつもこいつも、魔界の城に連れてきただけで失神してしまう有様。ラーラさまの寝室に押し込んだところで、とても男としての役には立てそうもない。文字通り、肝心なところが」
俊之は、ごほん、と咳払いをして遮った。一応、若い女の子の前である。
「勇猛で知られる騎士を連れてきてもダメでのう。そうこうしているうちに、二年経ってしもうた。ラーラさまは二十歳、もう成人だというのに」
そこは、こちらと同じなんだ。
「……わらわに女としての魅力がないからだ。だからみんな、わらわを見ると、青い顔をして逃げ出してしまうのだ。あちらでも、こちらでも、わらわの夫になろうという男がおらぬ。そんなにも、わらわは醜いのか」
女の子が、またぐすんぐすんとしゃくり上げはじめる。こちらはこちらで、少々拗らせているらしい。
俊之が思うに、あちらの世界で人間界の男が逃げたのは魔族という存在そのものが怖かったからで、こちらの世界で男が逃げたのは、おおむねこの獣人のせいだ。
「君はとても可愛いし、十分に魅力的な容姿をしてるよ。そんな風に考えるのはやめなさい」
その格好を別の意味で魅力的だと考える男もこちらにはたくさんいるだろうし、と思いながら言うと、女の子の頬がぱっと朱を散らしたように赤くなった。魔王にしては純情だ。
「というわけで」
獣人が、ひたと俊之に視線を据えて、畳に手をつく。
「こうして、異なる世界まで来てラーラさまの夫探しをすることに相成った! そなたが百人目、もう最後の希望じゃ! どうか魔界の平和のため、ラーラさまとの間に子供を作っていただきたい!」
凶悪な外観をした魔族に、深々と頭を下げられた。
──ところでいつになったら、夕飯にありつけるのだろう。