第5話 「水汲み」
「ぐすん……どうしよう。このままではどこにも行かれないわ……シャルル……」
フレアは噴水に座り食事をしていた。
厨房からローズウォーターの代わりにもらえた食料は堅い黒パン1個と山羊のチーズ1個と牛乳1杯だった。
フレアはこんな貧しい食事をとるのは生まれて初めてだ。
黒パンをかじってみた。
「おいしい……」
普段は酸っぱくて堅くてとても食べる気になれない黒パンが、今は最高のごちそうに感じられた。
山羊のチーズもかじってみる。
「なんて、おいしいの……」
こちらも美味だった。
普段は臭くてへんな味がしてチーズは大嫌いだったのに。
いつもは飲めない絞りたての牛乳も、今のフレアにとっては何よりのデザートだった。
「おなかがとても空いていたからかしら? それとも……自分で働いて得た食べ物だからかしら?」
フレアはあらためて、青い空を見上げた。
雲ひとつ無い空に鳥が舞っている。
「そうだわ! 昨夜のお礼に、野ばらにお水を掛けてあげよう! 今のわたしにはこんなことしか出来ないけれど……」
フレアは牛乳が入っていた小さな木で出来たコップに噴水の水を汲み、ローズガーデンへ向かった。
ローズガーデンの中は相変わらず薔薇の良い香りが充満していた。
フレアは奥まで行き、しゃがみ込んで野ばらにお水を与えた。
野ばらは何も言わなかったが、とても気持ちが良さそうに見えた。
「これからどうしよう……」
フレアは考え込んでしまった。
「おや……お嬢さん、もしかしてシャルルさまの側室さまかい?」
うしろから声を掛けられた。
振り返るとそこには、水を入れたバケツを1輪車で運んできた老人の姿があった。
「はい……フレアです。おじいさんは?」
「わしはこのローズガーデンの管理人だ。バージニア城の庭を全部、管理しておる」
「そうでしたか……では、わたしにも手伝わせてください! 昨晩のお礼に薔薇たちの世話をしてあげたいのです」
「お礼? だったら……この水を撒いてくれないか? このヒシャクで掬ってな」
「わかりました!」
フレアはバケツから大きなヒシャクで水を掬い、ローズガーデンのすべての薔薇に掛けてあげた。
「ハアハア……これで全部ね。太陽の位置が高い……もうお昼すぎなのね……とても疲れたわ。あっ! 小鳥の水浴び場の水盤がまだだわ!」
フレアは水を取りに行ったが、バケツはすでに空だった。
庭番のおじいさんを探した。彼はローズガーデンの奥で薔薇の手入れをしていた。
「おじいさん! 水を汲みに行きたいのですが……どこに行けばよろしいのですか?」
「フレアさま……あなたに水汲みは無理です。液体というのはとても重い物です。井戸の桶をあなたの細腕で汲み上げることは出来ないでしょう。木のバケツを持ち上げることも1輪車を操作することも難しいはずです。そうだ! 下男のハンスに持って来させましょう! 今なら東の門の下で船頭をしているはずです!」
「わかりました! すぐに行ってきます!」
フレアはいそいでローズガーデンから走り出た。
――チチチチチチ、チチチチ。
外は良いお天気で小鳥たちが鳴いていた。
「ごめんね、今、あなたたちの水浴びのお水を汲んでくるから!」
フレアは小鳥たちに声をかけながら先をいそいだ。
すると、もうすぐ東門に着くというところで、シャルルと一緒に散歩をしているコーネリアスの一行に遭遇してしまった!
「フレア! どうしたんだい?」
やさいいシャルルが声をかけてきた。
だが、シャルルはフレアのことをすっかり忘れている様子だ。
以前のような気安さはまったくない。
未来の側室を気遣うだけの、見知らぬ青年だ。
「はい。あの……水を汲みに……」
「まあ! なんて汚らしい髪! 櫛を入れてないの? ドレスも泥だらけじゃないの?」
「ネリー……」
「ネリーですって! なんのこと? あなたは側室なのよ! 下がりなさい!」
「はい……」
フレアは、くやしさに唇を噛みしめた。
砂の撒かれた小道をはずれ、ドレスの裾を土で汚しながら脇にある草の上に立ちネリーのために道を開けた。
屈辱だった。
そういえばこのクルクルと絡みあった赤毛はネリーのモノだった。
灰色の瞳もそうだ。
「フレア、来週の婚約祝の舞踏会には来られそうかい?」
「え? わたくしが……ですか?」
「フレア! あなたが来られるわけがないじゃないの! そんなナリをして! 着てくるドレスも靴も調っていないのでしょう?」
「だったらコーネリアス! ぼくたちで手配して……」
「シャルル! この子は財産を遊びに使い果たした悪い子なの! そんな子に大事な婚約祝に来て欲しくはないわ! まして側室になる子よ! 正室の婚約祝に側室候補を招くだなんて聞いたことがないわ!」
「そんな……」
遊びに散財していたのはネリーのほうだ。
派手なネリーは衣食におこづかいを使い果たし、伯父夫婦に行儀見習いに東の国の修道院に入れられたのだ。
どうやって舞い戻って来たのだろうか?
「さあ! シャルル、お茶の時間よ! 早くお城に戻りましょう!」
「ああ、そうだな……それではフレア、ごきげんよう」
「あっ! シャルル……」
「フレア! 気安くシャルルと呼ばないで! これからはわたしたちを王女さま、王子さまと呼びなさい! そうだ! もしも正装をすることが出来たら舞踏会に来てもいいわよ? これが招待状よ! オーホッホッホッホッホッ!」
ネリーは高笑いをしながら、フレアの足元に白い封筒を投げて寄こした。
シャルル一行が遠ざかっていく。
フレアはネリーたちが完全に見えなくなるまで道端に佇み、下を向いたまま涙を堪えた。
「うえっ……ぐすっ……」
そのとき、鐘楼の鐘が3つ打たれた。
「ぐすっ……そうだ! お水! おじいさんが待ってる!」
フレアは足元の封筒を拾い上げ、東の門へいそいだ!
門へ着くと、白いシャツに茶色のズボンを履いた、見たこともない屈強そうな大男が立っていた。
彼がハンスだろうか。
「あの……ハンスさんというのはあなたですか? ローズガーデンの老人が水を汲んできて欲しいと……」
「たしかにおれがハンスです。おや? 赤い髪にグレーの瞳……小さなお嬢さん、あなたはもしや側室になられるフレアさまですか?」
「はい、そうです」
「ローズガーデンの老人というのはゼペットのことでしょうか。では、すぐに水を汲んでお持ちしましょう」
「ありがとうございます!」
ハンスは門の横の小さな扉から外へ出ると、下に流れる河からバケツに水を汲んで持って来てくれた。
「ふう……おや? あなたは素敵なコップを携えていますね? ちょっと貸してもらえませんか? 水が飲みたいので」
「この木のコップですか? これは厨房でもらったものです。よろしかったら差し上げます。どうぞ」
「これはかたじけない! どうもありがとうございます!」
ハンスはそれで水飲み場の桶から水を掬って飲んだ。
労働をしていたから喉が渇いていた様子だ。
フレアは彼と一緒に歩いてローズガーデンへ戻った。
「ゼペットおじいさん! ハンスが水を持って来てくださいました!」
「おおっ! フレアさま! これは、どうもありがとうございました。ハンスや、ありがとう! 小鳥に水浴びをさせてやってくれ!」
「がってんだ!」
ハンスが小鳥の水盤にバケツの水を入れた。
すぐに色とりどりの小鳥たちが飛んできて水を浴びはじめた。
「小鳥さん、そんなに水浴びがしたかったんだ……ごめんなさいね。いっぱい、浴びてちょうだい」
とても気持ちの良さそうな小鳥たちを見て、フレアは幸せな気分になった。
さきほどの嫌な気持ちが消えていく。
そうだ。
いつまでもウジウジと泣いてばかりじゃいられない!
この状況をなんとか打開しなければ。




