君恋 〜the flavor of the cookies〜
私は、黒崎ひかり。
どこにでもいる普通の高校1年生だ。
ごく普通に受験勉強に励んで第一志望校の吹丘高校に合格し、ごく普通に新しい友達ができ、ごく普通に製菓部に入部した。
そう、当たり前に恋だってしている。
中学時代は部活一本で、浮いた噂の中心になったことはなかった私だが、今では少女漫画の主人公並みにロマンティックな恋をしているのだ。
ただ、当たり前でない部分がたった一つあるとしたら......たぶん、恋の相手だ。
でも、別にあるべき道を逸れているわけではない。
先生と不倫関係とか、同性に想いを寄せているとか、そういうことではなくて。
......だから、よけいに事情はめんどくさい。
私、黒崎ひかりが恋い焦がれているのは......我らが吹丘高校生徒会長、入野暁彦先輩なのだ。
◇
入野先輩に出会ったのは、4月のこと。
生徒会長として入学式で挨拶をしている姿に、一目で心惹かれた。
線の細い横顔。
わずかに下がり気味の目尻。
凛としなやかで、それでいてあたたかみのある笑み。
すべてが完璧で、信じられないくらいだった。
このあたりでは文句無しに一番の難関校といわれる吹丘高校の、まさに頂点に立つ生徒会長。
まばゆいほどの存在感に、私はあっという間に夢中になった。
だけど。
そうなったのは、私だけではなかった。
『会長ってめっちゃかっこいいよね!?』
『超イケメンじゃん!』
『え、私狙っちゃおうかな〜』
そんな会話が一年生女子のあちこちで交わされた。
そのたびに、私の心はおかしいくらい乱れた。
先輩が誰かと付き合ったりしたらどうしよう、なんて。
自分は告白する勇気なんてないのに、一人で悩んだり、戸惑ったりして。
......恋をするって、ばかみたいだと思った。
◇
「へぇ、黒崎さんのお相手は会長なのか」
軽い調子で言ったのは、私と同じ中学から吹丘高校に進学した唯一の女子、三木戸香歩だった。
「しーっ!三木戸さん、声が大きい!」
「あ、ごめんごめん」
私に教科書を借りに来た香歩は、苦笑いしながら癖っ毛の髪を決まり悪そうにいじる。
世間話のつもりで打ち明けたら、この状況になった。
人通りの多い廊下で、なんてことを言ってくれるんだろう、この子は!
「でも、意外だね」
「何が?」
完全にからかいモードの香歩は、にやりと笑ってみせた。
「いや、黒崎さんは原沢とくっつくかと......」
「ないわっっ!!!」
原沢は、香歩が以前付き合っていた男子だ。
私とは、中2と中3で同じクラスだった。
なぜ、香歩が自分の元カレと私のことを揶揄するのか。
これには、ちゃんと理由がある。
......私には、なんの落ち度もない理由なんだけど。
原沢は、あるとき香歩にこう言ったそうだ。
『俺がずっと好きなのは、黒崎さんだから』と。
気位の高い香歩はそれなりに傷ついたらしく、中学時代、香歩が私に向ける視線は、なんとなくいつも剣呑だった。
しかしながら、私は原沢に告白されたわけではないし、そのことを香歩に教えられたのも高校に入ったくらいのときだった。
私としては、移り気なカノジョに向けてのくだらない冗談だったのではないかと推測しているのだが......香歩は聞く耳を持たない。
「まぁとにかく、私と原沢はなんでもないんだからね?」
「はいはい、黒崎さんには入野さんがいるもんねー」
「もう!」
軽口ばかりの香歩をひっぱたく真似をしてみるが、力は入らない。
完全に冗談だ、とわかるからだ。
生徒会長はこの学校にたった一人。
でも、私みたいな女子はーーーーーー入野先輩に憧れている女子は、学校中にいくらでもいる。
それこそ高嶺の花という慣用句がずばり当てはまるような人なのだ、入野先輩は。
「黒崎さん、かわいいんだからさ、もっと自信持ちなよ」
「また三木戸さんは冗談ばっか言うんだから......」
「冗談じゃないってば」
香歩は、いくらか自嘲的に笑った。
「原沢が黒崎さんのこと好きになったのもわかるわ」
「またその話?原沢の悪い冗談に決まってるじゃない」
たとえ......たとえ、万が一、原沢が本気だったとしても。
私の心を占めているのは、入野暁彦先輩なのだ。
原沢なんか及びもつかないわよ、と思いながら、私はこの恋が始まって何百回目かのため息をついた。
◇
そんな会話から、はや数ヶ月。
入野先輩とは、もちろん何の進展もない。
彼女と別れたらしいとか、成績が伸び悩んでいるらしいとか、いいことも悪いこともいろんな噂が聞こえてくるけれど。
そんな私に、香歩はTwitterを始めることを勧めた。
「Twitter、入野先輩もやってるから」と。
「ちなみに原沢もいるからフォローしてやって」と余計な一言も付け加えて。
勇気を出して、アプリをダウンロードしたのは夏の初め。
ごまかすようにクラスメイトや部活仲間を何人かフォローして(ちなみに原沢のこともフォローしてあげた)、入野先輩のアカウントは何度も何度も悩んで、やっとフォローした。
フォローが返されたときは、どんな顔をしていいかわからないくらい嬉しくて。
あぁ......私は、と胸に手を当てた。
私はまだ諦めきれてないんだ。
どれだけ手が届かないと言い聞かせても。
叶わないのだからと諦めようとしても。
ひたすら恋うているのは、ただ一人。
入野暁彦その人なのだ。
痛いほどのまっすぐさで、そのことを思い知らされた。
自分のことなのに、うまく受け入れられない想いがどこか悲しかった。
◇
秋。
体育祭の熱気が冷めないまま、約2週間がたったある日のこと。
Twitterのタイムラインを何気なく眺めていた私は、あるツイートに釘付けになった。
『会長、誕生日おめでとうございます!』
一年生の男子が入野先輩に送ったツイートが画面に表示されていた。
それに対して、入野先輩が『ありがとう』と返信しているのも見た。
うわぁ......と、体温が上がった。
今日、誕生日なんだ。
18歳になるんだ。
............『祝ってあげたい』
その想いが膨らんだ。
『誕生日おめでとうございます』、と打ちかけて、手が止まる。
......ウザいって思われたらどうしよう?
顔も知らない下級生に祝われたって嬉しくもなんともないんじゃないだろうか?
怖い、と思った。
自分がこんなに臆病だなんて初めて知った。
でも。
このままじゃ、何も変わらない。
苦しいばっかだ。
......そんなの、やだ。
ぎゅっと携帯電話を握りしめ、私はツイート画面を表示させた。
『誕生日おめでとうございます。
これからもがんばってください』
何度も何度も打ち込んでは消して、打ち込んでは消して、ようやく完了ボタンを押した。
好きだとは言えなくても、一人の吹丘高校の生徒として会長を労いたかった。
彼女にはなれなくても、気の利く後輩になりたかった。
だからたぶん、数時間後に入野先輩から返されたメッセージで、私の気持ちは全部報われた。
『ありがとう。嬉しいです。残りわずかですが、邁進します』
◇
それからまた数週間。
私の所属する製菓部は、毎年恒例だというハロウィンに向けての準備を始めた。
10月末のハロウィンに、おばけや黒猫をモチーフにしたクッキーを作って生徒向けに販売するらしい。
まだ一年生の私たちは、先輩に教わることばかりだったが、きゃあきゃあと女の子らしい声をあげながらお菓子作りに励むのは楽しかった。
中学時代はテニス部のキャプテンとして女を捨てていた私を知る香歩は、「あの黒崎さんがお菓子作りねぇ...」と微妙な笑顔を浮かべていたが。
入野先輩はといえば、生徒会長の任期満了が間近に迫っており、ときおり見かける後ろ姿には気ぜわしさがにじんでいた。
そんなある日の放課後のこと。
私は、製菓部の活動場所である家庭科室でクッキー作りに勤しんでいた。
......はずだった。
「あっちゃー......」
勤しんでいたはずだったのに、私がオーブンから取り出したココアクッキーは見るも無惨に焦げていた。
ココアクッキーだから黒いのは当たり前なのだが、漂ってくる匂いと先輩の引きつった頬から、失敗したことは誰の目にも明らかだった。
「ひかり、やっちゃったねぇ」
「ま、まぁまだ時間はあるし!」
同じ班の同級生や先輩に、頭を下げまくった。
恥ずかしくて、顔も上げられない。
あぁ、もう。
私ってどうしてこうなんだろう。
泣きたい気分で、すみません、やり直しますと言おうとしたそのとき、
家庭科室のドアが開いた。
「うわぁ、いい匂いだな」
聞きなれた、でも近くで聞いたことはごくわずかの声......
入野暁彦会長が、そこに立っていた。
わぁっと製菓部のみんながどよめく。
女ばかりの製菓部で、その人の存在は異質かつ輝かしかった。
「なんだかんだでこの時期は忙しくて、クッキー買ったことなかったんだ」
私の想い人は、そう言って頭を掻いた。
「会長の職権乱用で、味見の許可はもらえないかな?」
みんなの視線が部長に集まる。
オッケーですよね部長?と問いかける何十個もの目に応えるように、部長はたおやかな笑顔を作った。
「もちろんです、入野会長」
「よかった」
会長は、体育館のステージで生真面目に挨拶をしていたのと同じ人とは思えないほど柔らかい笑みを浮かべていて。
「じゃあ、このココアクッキーもらおっかな」
そして、1番近くのテーブルの上に手を伸ばすーーーーーー
「や、やめてくださいっ!!」
叫んで、はっとした。
......あぁ、今度こそやらかした。
みんなの視線が私に集中する。
ひかりちゃん、と部長がたしなめるように私の名を呼ぶ。
フォローするように口を開いたのは、同じ班の先輩だった。
「すみません、それ失敗しちゃったやつなので......ひかりちゃんも悪気があったわけじゃなくて」
ね?そうだよね?と先輩が私の顔を覗き込む。
はい、と小さくつぶやくことしかできなかった。
「......そっか」
入野先輩は、残念そうに口もとを尖らせる。
「おいしそうだけどなぁ」
納得できないようすで私が焦がしたクッキーをつまむと、この高校を統べる一人の男子生徒は、ぽいっとそれを口に放り込んだ。
あっ、と私は口もとを手で押さえた。
絶対おいしくないのに、と悲しくなる。
私はエプロンの裾をやるせない思いで握った。
「......うまいじゃん」
えっ、と思わず顔を上げた。
嘘でしょ。
「全然失敗なんかじゃないよ、うまいよ」
入野先輩は、優しい笑顔を浮かべていた。
なんでだか、その笑顔は嘘じゃないと思えた。
「邪魔してごめんな、販売の日もがんばって」
「「「はいっっっ!!!」」」
製菓部一同が声を揃える中で、私だけは言葉を失って立ち尽くしていた。
そんな私を見て、入野先輩は励ますような表情になった。
「えっと、ひかり、さん?」
「は、はいっ!」
彼の目が私を見て、彼の声が私の名前を呼んでいる。
信じられないような状況に、からだが固まった。
入野先輩は、優しく笑いかける。
「クッキーおいしかったよ。自信持ってがんばって」
「......は、はい!ありがとうございます!」
頭を勢いよく下げる。
うわぁ......おいしいだって。
自信持ってだって。
がんばってだって。
......もう、製菓部に入ってからの大変な作業も、全部報われた。
入野先輩は、満足そうに家庭科室を出ていきかけて......ふと手を止めた。
あのさ、と切り出した続きに、私は目を回しそうになった。
「ひかりさん、って、黒崎ひかりさん?」
息が止まるかと思った。
「......なんで、それを」
「Twitterで誕生日にメッセージくれたよね?」
あっ、と理由に思い当たった。
私は、Twitterのアカウント名を本名にしている。
そして、プロフィール欄には、『吹丘高校1-7』『製菓部』と記載していた。
なんの面白味もないけど、校内で巡り会うには十分な情報だ。
「あれ、嬉しかった。ありがとう」
照れたような笑顔が、胸に刺さった。
そして私は、......またいともあっさりと恋に落ちるのだ。
「こ、こちらこそっ!」
あぁ、私、この人が好きだ。
好きで好きで仕方ないんだ。
だから、ちょっとの勇気を出すことくらいは許されるだろうか?
「あのっ!」
今度こそドアに手をかけた入野先輩に、私は呼びかける。
「よかったら、クッキー買いに来てください!」
次こそ本当においしいのをお渡しできるはずですから、と一息に言い切った。
声が震えて噛みそうになるのをなんとかこらえた。
入野先輩は、少し驚いた顔をして、でも、すぐに笑顔に戻る。
「ありがとう。必ず」
確かな意志を感じさせるその声が、私の胸を押しつぶす。
全部が埋められて、染まっていく。
......これが、恋の感触ってやつか。
その慣れない重みが、甘いクッキーの香りの中で静かに私を支配していた。
fin.