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冬、孤独の慟哭

 結局、美樹と杏奈からはあの日のことを聞くことは出来なかった。

 思い出すのが恥ずかしいというのもあるが、それを二人に対してどうだったとか聞くのも余計恥ずかしいし、何よりも二人には暗くて見えてなかったという可能性があるので、それを私は信じたいと思っている。

 香織に私がそう思っていると伝えたところで、そんなことはないと言われそうだけど、私としてはこれを推しておきたい。

 二人も特別に態度とか変えていなかったし、それをネタに会話されることもなかったから、可能性としては大きくあるはずだ。

 しかし、それから二週間も経つと、変化がないと思っていた日常にも大きく私にも分かるように変化したことが二つある。

 一つは香織が今まで以上に馴れ馴れしくなってきたことだ。

 元々馴れ馴れしいのはあるけど、それ以上にうっとおしいぐらいになってきた。

 例えば、私が一人でいる時なんかは場所を構わず、後ろから抱きしめてきたり、手を繋いでこようとするし、手を無理やり繋がせられたと思えば、そのまま腕を絡めてこようとする。

 そんな時は、私の方から手を解いたり、抱きしめられている腕から逃れようとするけど、なぜだかうまく逃げ出せない。特別に香織が捕まえるのがうまいというわけではないのに、逃げ出すことが出来ない。

 あんなにも香織のことは嫌いだったのに、どうして私は香織を受け入れているようになってしまったのか。

 あの夜がきっと原因なんだ。

 あれさえなければ、私はここまで悩む必要はなかった。

 いや、悩んでいるわけではない。

 香織に悩むなんて時間の無駄だ。

 時間の無駄だというのは、分かっているつもりだ。

 分かっているのに、それでも考えてしまう。

 視界の隅に彼女を置いて、香織がどんなことを考えているのか思考を巡らせる。

 相変わらず、普段は死んだ目をしていて、その時は何を考えているのかわからない、もしくは何も考えていないマヌケな顔をしている。だけど、私が視界に入ったり、私が声をかけたりするとスイッチが入ったのかのように、突然表情が出てくるから考えてしまう。

 嬉しそうな表情であるのだけど、それが作っている表情ではないのかと思ってしまうのは、私がただ単に疑り深いだけなのだろうか。

 私以外にはそんな顔はしないし、私にだけそんなことしてもいいことがあるわけではない。

 まず、私が香織が嫌いだから。

 嫌いだから、そうやって好かれようとしてたって無駄なんだから。

 いつも彼女の表情を見るたびにこうして頭の中を同じ話題がループする。

 本人に直接聞くっていう選択肢はあるんだが、それをしちゃうと私が香織を意識してるっていう風に香織に受け取られて、更に彼女を馴れ馴れしい態度にされる方向に突き進みそうだから、聞くのは保留にしてある。

 それにこれ以上馴れ馴れしいってどう言うことされるか想像もしたくない。

 キスだって、あれが、私にとって、初めてだったし。

 それにあんなキス、したことないのに。

 あんなこと、あんなこと馴れ馴れしくやられてたら、どうなるの。

 分からないからこそ、怖さがある。

 それに、これ以上香織で頭の中がいっぱいになってしまったら、それこそ、私がどうにかなってしまいそう。

 そうならないように頭を切り替えていかないといけない。

 もう一つは、何がきっかけで起こったことか分からない。

 気がついたら、起こっていたというのが正しい。

 いや、意図的に気が付かされたのかもしれないが、やっている当人に検討がつかないのでそれを問いただすことが出来ない。

 それにしてもどうして私がこんな目に合っているのか理由がさっぱり分からない。

 ことの始まりは部室に行った時、自分のロッカーから、シューズが消えていた。

 この時だけは、自分がしまい忘れたかと考えていた。

 しかし、それが何日も続いて、さすがにおかしいと思う。

 誰かが私のシューズを隠している。

 私がそれに気がついたことに仕掛けてる人が見ていて気がついたんだと思う。それからは私のロッカーから消えたシューズが置いてある場所が徐々に変化していた。

 しまい忘れてなかったはずなのに変だなって思っていた時は、部室の隅の方や、ちょっと人目につきにくいような場所に置かれているだけだった。

 けど、気がついてからは物置にされているロッカーの中に無操作に投げ込まれるようになった。さらに今となってはゴミ箱の中に毎日捨てられている。

 そして、同級生からも徐々に距離を空けられる、部活中で話しかけても良くて一言帰ってくるところだけど、大体が無視されるという結果になっている。

 今、私が部活内でまともに会話できる人と言ったら、香織を除くと部長とキャプテンぐらいしかいない。

 そう、これは誰がどう見ても、部活内でイジメにあっている。

 何故、私がということを最初に考えた。

 先輩や同級生に対して、何かしたということはないはずだ。

 もし、自分には何も思い浮かばないだけで、自分の発言で誰かが不快に思ったことはあるかもしれない。

 それならば、しょうがないと考える。

 しかし、謝るにも謝れない。

 誰がやっているのか分からないからだ。

 誰がやっているのかさえ分かれば、その人に話して私の悪かったところを謝り、和解したいと考えている。

 だけど、姿が見えない相手にはそれすら望めない。

 私は何かしただろうか。

 私自身には全く身に覚えがない事であるのに、周りのこのアクションで私の立ち位置は一気に変わってしまった。

 私からは見えないことだから、誰かに聞きたいところだ。

 部活が終わってからではダメだ。部活の終わりだと、香織以外私を避けて帰ってしまう。

 だから、休み時間にでも美樹か杏奈に聞いてみよう。

 多分ではあるけど、同級生がやっているような感じではない雰囲気がある。

 香織には何もないところを見ると、私一人がいじめの対象になっているみたいだし。

 部活は好きだし、テニスをやるのはもっと好きだ。

 だけど、今この状況は辛い。

 とても楽しんでいられる状況ではない。


 だから、私は早速行動に移してみることにした。

「ねぇ、杏奈、美樹」

 廊下を歩いていた二人に後ろから声をかけた。

 二人は立ち止まり、こちらを振り返ってくれた。

 無視されるんじゃないかと思っていたから、正直安心した。

 友達に声をかける。

 ただそれだけのことなのに、喉がカラカラに渇くぐらい緊張していた。

「どうしたの?」

「あの……部活のことで」

「あ」

 美樹が何か言おうとしたら、美樹の発言を止めるように少しだけ杏奈が腕を動かした。

「その、後でいいですか?先輩に呼ばれていますので」

 私の中で何かが軋む音がした。

 笑顔を意識して浮かべる。

「そっか……うん。それじゃあ、後で時間あったらいいかな?」

「はい、後ほど」

 二人はそう言って、歩いて行ってしまった。

 向き直る際に二人の横顔が見えた。

 美樹はとても不満そうにして、私には聞こえない小声で杏奈に何かを言っている。

 杏奈は辛そうな顔をしている。

 そんな二人はそのまま曲がり角に姿を消していった。

 これで分かったことがある。

 私が友達と思っている人でも、この状況では味方になってくれない。

 ましてや、関わりの少ない他の同級生に味方になってくれそうな人物がいる可能性はゼロに等しいというわけだ。

 美樹たちと入れ替わるように、曲がり角からよく知る女子生徒が現れた。

「あ、比紗子じゃん。どうしたの?そんな怖い顔して」

 今頃になって思い出した。

 味方なのか分からないが、私がいじめられていて、私とつるんでいたら自分もターゲットにされる可能性もあるのに、そんなことを全く気にせず、部活内でも、普段の学校生活内でも気軽に話しかけてくる人物がいた。

 無意識に、まるで香織から逃げるように背を向ける。

「自然に抱きしめないで」

 後ろから歩いてきて、普通に抱きしめられた。

 この女には、本当に羞恥心があるのか、甚だ疑わしい。

「これが私と比紗子の日常的なコミュニケーションでスキンシップでしょ?」

「こんなのが日常的なものになった覚えはない!」

 後ろを振り返って、そのまま睨みつけたいが今の私にはそんな心の余裕が無い。

「香織は、私から離れてないでいいの……?」

「何で?」

「何でって……香織、全然分かんないの?」

「あーなんか靴隠してる陰険なことしか出来ない人たちのことで、私がそれに巻き込まれてもいいのかってこと?」

 よく分かってるなら、尚更だ。

「そう、だから、私と離れてないと……」

「何でそんな陰険な奴らのこと、気にして私が比紗子から離れないといけないの?」

 この女、分かってて言っているのか。

「せっかくこうして二人きりの時間が増えるんだもん。離れるなんてもったいないこと出来ないね」

 欲望に忠実というか、香織らしい最もな意見だ。

「それに、そんな奴らに怯えて離れていく臆病でもないし、私にとっては怖い存在でもないからね」

 そんな奴らというが私から見たら臆病と言うわけではないし、むしろ賢いと思う。自分の身に火の粉が降りかからないようにするのが普通だからだ。

 誰もが、香織のように強くもない。それにバカみたいに自分の欲望に忠実で、力があるわけでもない。

「別に怯えては……ないと思う……」

「じゃあ、保身でもいいよ。けど、大切な人を見捨ててまで、自分の身を守ろうとは思わないかな」

 これはいけない。

 このまま聞いていてはいけない。

「比紗子に何かあったのなら、私は助けに行くし、守ってあげる」

 香織には似合わない、けど優しい声音。

 さらに何かが軋む。

 だからこそ、聞いてはいけない。

「私はいつだって、どんな時も、誰が敵であろうとも、比紗子の味方だよ」

 優しい言葉は、今は毒でしかない。

 今まで見ないように、感じないようにしていた心の悲鳴が溢れ出てきてしまう。

「絶対に比紗子を裏切るようなことはしないよ」

 その一言が胸を貫く。

 感情をせき止めていた心の堤防が崩れ落ちる音がした気がする。

 今、この場ではダメ。

 もう少しだけ待って。

 そう自分に言い聞かせながら、抱きしめていた香織の腕を振り解く。

 香織を無視して歩き出す。

 とりあえず、どこかに入ろう。

「あ、比紗子、そこは」

 香織の声を背中で聞いて、そのままトイレに入った。

 トイレの洗面台に手をついて、込み上げてくる感情を必死に抑える。

 これ以上、優しい言葉をかけられてしまうと私は弱くなってしまう。

 その声音で、これ以上語られたら私は泣きついてしまう。

 そうなれば、きっと私はイジメに耐えれない。

 イジメに対して、平気な顔をして耐えることが出来なくなってしまう。

 味方なんていない。

 味方だと思っていた人たちも、私を助けようとはしてくれなかった。

 比紗子の味方だよ。

 そう言っていた香織の言葉が心に響く。

 本当に、本当に彼女は味方なのだろうか。

 あの日の夜、私は彼女を求めた。

 ……いや、違う。

 私は香織を求めてなんてない。

 あの時はそうだ。

 受け入れた。ううん、受け入れさせられたんだ。

 香織にさせられていた。

 ──けど、嫌ではなかった。

 この半年、私は香織の一番近い位置にいた。

 香織は嘘はつくけど、傷つけたり、裏切ったりするものはなかった。

 だから、あの時感じた香織の気持ちも、さっきの香織の言葉にも嘘偽りはない、と思う。

 だけど、ここで香織に頼ってしまっていいのだろうか。

 頼ってしまったら、そのままずるずると頼りっぱなしになってしまうのかもしれない。

 それに未来のことでもあるけど、絶対なんてことはないだろうし、ほぼ無いに等しいかもしれないのだけれど、香織が裏切ることだってあるかもしれない。

 そう考えた時、ふと笑ってしまった。

 でもでもとあり得ない可能性を考えたり、弱気になって未来に怯えて過ごすなんて自分らしくないない。

「比紗子、そこ二年生が使ってるトイレだよ」

 香織の声が聞こえて振り返る。

「トイレなら、一年の……」

 香織の言葉が途切れる。

「一年生のトイレか保健室に行こう」

「何でよ」

 睨みつけたと思った。

 私としては、本気で睨みつけているつもりだ。

 けど、どうやら香織には私の顔は違ったように見えていたようだ。

「こんな時ぐらい、その意地っ張り無くてもいいと思う」

「な、な、に言ってんのよ!」

 意地を張ってないといえば、嘘になる。

 いや、意地はずっと張り続けていた。

 これまでも、これからも私が私である限り、誰かと関わっていく限り、意地を張り続けていくだろう。

 けど、何でそんなことが分かったのか。

 だって、顔には

「そんな泣き顔で言われてもね」

「えっ……?」

 私が泣いていた……?

 嘘だ。

 だって、全然涙が流れる感じだとか、そんなの全然感じなかった。

 私はいつもの私じゃないか。

 今だって、ただトイレに逃げ込んだだけで、行動としてはいつもの私と何も変わってはいない。

 その私が涙を流している、だって?

 冗談じゃない。

 視界だって、こんなにもクリアだ。

 香織の顔がぼやけて見えたりなんてこともしていない。

 自分の頬に触れてみると、微かに水の感触が合った。

 私は香織が言うように泣いていたのか。

 そうじゃないと否定したいけど、この頬を濡らす水の感触が、心に浮かんだ否定を打ち消してしまう。

 そうなると、嘘、何でと戸惑う気持ちが募るばかりになるが、心がそれを認識してしまってからは止まらなかった。いや、さらに激しく涙が流れ始めた。

 嫌だった。

 こんな弱い姿を香織に見られたくなかった。

 香織の前でだけは、どんなことがあっても普通の自分でいたかった。

 だから、こんな姿を、こんな情けなく、情けない顔をして泣いている姿を見られるなんて嫌で仕方ない。

「放っておいて……」

 涙で濡れた情けない声しか出せないのが、悔しい。

「放っておけないよ」

 香織が近づき、私を抱きしめようとした。

 けど、そう無意識に手が動き、抱きしめようとしていた香織の手をそっと掴んでいた。

「放っておいて」

 お願いだから、これ以上優しくしないで。

「これ以上は放っておけない。もう比紗子、限界なんだよ」

 香織がぐっと顔だけ近づけてきた。

「ずっと私は比紗子を見ていた。見ていたから、我慢していたのも知ってる。比紗子が助けてって言ってくれるとは思ってないけど、これ以上は見ない振り出来ない」

 初めて見る香織の真剣な目だ。

 香織でもこんな目をするのか。

 いつもはただ眠たそうにやる気なさそうにしているあの目でも、こんな意志を持った目をするんだと素直に驚いた。

「強がるのも、泣いてるの見せたくないのも比紗子らしくて、その気持ちはわかってあげれる。けど、今は私を見て、つぶやくだけでも、私じゃない誰かに言うつもりでもいいから言って欲しい」

 いつになく、真剣な声音だ。

 初めて香織の真剣な声を聞いた。

 初めて香織が真剣になっているのを見た。

 初めて香織の本気の感情を感じれた。

 けどね、香織。

 けど、今じゃないんだ。

 今、こんなことを知りたくなかった。

「一言、助けてって言って」

 その言葉が心の何かに触れた。

「お願い、比紗子」

 心がざわつく。

 奥歯を音がするぐらい強く噛む。

「……た」

 感情がまるで嵐のように吹き荒れる。

 止められない。

「誰も私を助けてくれなかった!」

 あぁ、もうダメだ。

 言葉になってしまった。

「誰も! 誰も私を、私を、見ない振りして!」

 香織を見れば、私をまっすぐと見つめてきている。

 気に入らない。

 その目は気に入らなかった。

「美樹も杏奈も、一年生みんな、香織、あんただってみんな、私のこと見ないようにして!」

 香織は違う。

 分かってる、分かってるけど。

 手を差し伸べてくれたけど、それでも。

「あんた、さっきの私を見ていたでしょ!? 自分たちが大事なんだ! 自分たちの身さえ守れたらいいんだ! 誰かを犠牲にしたって、自分たちは平和に楽しく過ごせるならいいんだよ!」

 杏奈や美樹が選んだ道はきっと正しい。

 そして、香織の選んだ道は茨であり、賢くない選択だと言える。

「何で私なの! 何で私だけこんな目に合わないといけないのよ! 私じゃなくてあんたがやられてたらよかったんだ!」

 何で言い返さない。

 ただじっと私を見つめて、何も言おうとしない。

 余計にそれが私の神経を逆撫でする。

「あんたが代わりにやられててよ! 私じゃなくて香織がやられててよ!」

「そう……だったらよかったよ」

 眉尻の下がった悲しそうな笑みを香織は浮かべた。

 何で、香織、あなたはこういう時にそうなの。

「何でこういう時だけ、いつもみたいにヘラヘラニヤニヤしたあのやらしい笑みを浮かべないの……ほら、笑いなよ、笑えばいいじゃん」

 だから、何で何も言い返さない。

 こんなのただの八つ当たりじゃない。

「笑えって言ってるでしょ!」

 何もかも気に食わない。

 いつものように笑えばいいのに何でそうしないのか。

「大嫌い、香織のことやっぱり大嫌い! 何で何も言わない、あんたもみんなみたいに口を噤んで!」

「そうじゃないよ、比紗子」

 香織が一歩近づこうとする。

「近づかないで!」

 私の言葉を無視して、香織が一歩近づく。

「何であんたはちゃんと言ってくれないのよ! 何で何も答えてくれないの! 私が聞いても答えてくれないの?」

 香織の胸に顔を埋めるように寄りかかる。

 嵐は過ぎ去ったが、心に吹き荒れる風はまだ止みそうにない。

「香織なら分かるでしょ……? 私がどんな人間か……」

 張っていた心の糸が切れてしまう。

「私は強くない、弱く見えないように強がってるだけ……」

 新しい涙が目にたまり、溢れ落ちていく。

 涙と一緒に私の心の殻が落ちていくように。

「香織、あんたなら分かってくれると思ってた。もう香織しか私にはいない……」

 大事な人はみんな離れていった。

 大事だと思ってた人も離れていった。

「何が悪いの……何でこんなことになったの……私が悪いの? 私が何かした?」

 香織に聞いたわけではないが、 どこかで答えてほしいと私は思っていたのかもしれない。

 甘えている。

 こんなにも甘えてしまっている。

「私が……私が……っ!」

「もういいよ、比紗子」

 香織が抱きしめてきた。

 決して力強く抱きしめてきたわけではない。今の私でも、軽く振りほどけてしまうぐらい、抱きしめる力は弱い。

 だけど、それでも私はそれを振りほどけない、振りほどくことなど出来なかった。

「信じてなんて言わない。私はずっと比紗子の隣りにいるよ。いつも、どんなときでも、私は比紗子の隣りにいるからね」

 自然と笑えてしまった。

 なんで今更こんな事言うのか。

 泣き顔なのに、笑みを浮かべているから今の私の顔はきっと香織から見て、歪んでるような顔になっているだろう。

「前も今も……ずっと近くにいてくれてるじゃない」

 香織が微笑み、うんと短く肯定する。

「信じてるなんて言葉は言わない。そんな言葉を言わなきゃ分からないなら、香織も私にとってはそこまでの人だったということだと思ってる……それにそんなこと言わなくても、香織は言わなくても隣りにいるじゃん」

 香織は何も言わず、笑みを浮かべている。

 笑みが美しいと思ったのは、初めてかも知れない。

 何で香織はあんなにもやる気のない表情に、眠たそうに死んだような目と時折浮かべるニヤニヤしたようなやらしい笑みを浮かべているのだろう。

 ちゃんとこうして、笑みを作れば、私なんて比べ物にならないほどの美女になるのに、ホントに勿体無いことをしていると思う。けど、香織に言っても、多分どうでもいいとか回答が来そうだ。

「ねぇ……比紗子」

 香織が私の顎を持ち上げる。

「香織……」

 こういう雰囲気だと、したくなるのも分かる。

 私も、多分、今までなら雰囲気に流されていたかもしれない。

「ねぇ、ここトイレなんだけど」

 そう場所だけは選びたい。

 さすがにこんなところではしたくない。

「えーダメなの?今この瞬間ってする場面じゃない?」

 そうかもしれないけど、やっぱりシチュエーションは選びたい。

「後で、後でなら、ね」

 するかどうかは分からない。

 その時にこういう雰囲気になっていればしてあげてもいい。

「そうだ……ねっと、比紗子、ちょっとこっちに来て」

 香織が私の手を引いて、入口から一番遠い端の個室に入る。

「比紗子、これから静かにしててね。絶対に喋っちゃダメ。身動きもできるだけしないで。それに、何も聞こえないように耳も塞がせてもらうからね」

 私が抗議の言葉を言う前に香織が私の耳を指で塞いだ。

 睨みつけると、香織はただただ首を横に振るだけで、離してくれそうにない。

 話し声のようなものが聞こえた。

 トイレに誰か、多分上級生が入ってきたようだ。

「……………………い」

 聞いたことのある声が聞こえた気がする。

「な………さ………………」

 何を話しているのか聞き取れない。

 最初の人と声が違うという感じだけ分かるぐらいで、どんなことを話しているのか分からない。

「け………………や………………ら」

 声の調子から、あまり楽しい話をしているわけではないのだろうか。

 後で、香織に聞こうにもこれは聞いて、教えてくれることなのなのかと考える。

 悪くないことだったら、終わった後に何かしら言ってくれるだろうし、悪いことだったら教えてくれないかも知れない。

「………………」

「…………」

「……………………」

 笑い声がトイレに響いて、私の耳も何とかその音を拾う。

 下から覗き見る香織の顔がちょっとずつ怖い顔になっていく。

 多分、これは怒っている。

 香織でも怒ることがあるんだ。

 今日初めて香織の色々な表情を見てきたが、これがホントの香織なのかもしれない。

 今まで見てきた香織は、上っ面だけというか、香織が学校や人前で過ごすように作っていたキャラクターの部分でしかなかったということなのだろう。

 それを知ることが出来て、ちょっとだけ嬉しがっている。

「…………」

 声が遠ざかり、聞こえなくなった。

 しばらくして香織の指が離れて、耳にやっと音が戻る。

「ねえ、誰だったの?」

 さっきの怒りの表情はどこかに消えて、香織もいつもの顔に戻ってしまった。

 ちょっとだけ残念だ。

「知らない人」

 嘘を付いている。

 知らない人だったら、こんなことをするわけ無いというのが私には分かっていることを香織にも分かっているはずなのに、嘘を付くんだ。

 香織は私に対して、優しすぎる。

 それに甘えてしまっていては良くない気がする。

 私は別に香織の子供でもないんだから、そんな優しく甘やかすような真似はしないでいいと思うんだけど、香織にとっては普通なことなのかもしれない。

 普通なことだったら、いつかそうじゃないと言ってやろう。

 遠くで、キーンコーンカーンコーンと昼休みの終わりを告げる予鈴の鐘が聞こえた。

「比紗子、今日このままサボらない?」

「えー……」

 それはちょっと悩む。

 一応、私はこれでも品行方正という感じで見られているらしいことをチラッと聞いたことがあるので、それを曲げてしまうのはどうなのかと考えてしまう。

「それにその顔でクラス戻れる?」

 鏡で自分の顔を見ると、涙で見事に目が腫れ上がってしまっている。

 確かにこの状態で教室に戻るのはためらいがあるけど、サボるのはどうなのだろうか。

「比紗子は、ホントにいい子なんだね」

 言い方にちょっと棘がある気がするのは何でだろう。

「サボるって言っても、今日はまだ後二限残ってるし、これ一個サボって教室戻って最後の一限受けるとかそんな恥ずかしい真似、私嫌だからね……」

 さすがにそれは中途半端でマヌケな姿過ぎる。

 それに、私も香織も荷物は教室にあるわけだから、それをどう回収してくるかという問題もあるわけなのだけど、そこまで考えていなさそう。

「私にいい考えあるから、そこは任せて」

 香織の考えという時点で、良くないことが予想できる。

「えー……絶対にそれ正反対の考えだと思う」

「まぁまぁ、私に任せて」

 ニッと歯を見せるような笑みを香織がして、私の手を引く。

 そして、私はそのまま香織に連れられて、トイレを後にした。


 着いた先は保健室。

 いい考えがあると言っていた香織にちょっと感心していた自分を反省した。

 病気でもないのにここに来ても追い返されるのが、目に見えている。

 保健室の先生は大らかな性格な人ってイメージを持っていたのだが、この学校の保健の先生は結構厳しいらしい。

 私は利用したことが無いから、利用した人から伝え聞いたぐらいでしか無いから、ホントかどうかは分からない。

「せんせー、二人風邪ひいたんで休ませてくださーい」

 ギャグ漫画なら転んでしまいそうだった。正々堂々と仮病だとはっきり分かりそうなぐらい元気な声で保健室の扉を開けた。

「元気なら授業受けてきなさい」

 ちょっと低い女性の声で香織の言葉に対して的確な返答があった。

「風邪です。さっきから鼻水とか咳とか色々と止まらなくて、もう辛くて辛くて」

 全然辛そうな顔をしないで、こんなにはっきりと先生相手に嘘をつける香織をすごいとは思ったが、それと同時にこうはなりたくないとも思った。

「そう。けど、今はもう止まってるようね。授業受けてきなさい」

 取り付く島もないというか、香織が隠す気もなく、ただ嘘を付いているだけだから、これ以上ここにいても無駄なのではないか。

 香織の背中から顔だけ覗かせて、中を見るとそこにいたのは明るい茶色のボブヘアーの先生が日誌のようなものに書いていた体勢で、顔だけこちらに向けていた。

 カッターシャツに黒のスカートスーツ、その上に白衣。それにスカートから覗く足の長さからして、身長も高そうでカッコいい。

 顔には、先生としてはどうかと思うが不機嫌という文字が書いてありそうなぐらい、一重の目が細められて睨んでいるように見える。

「ねぇ、香織──」

 私が口を開こうとしたら、香織に手で遮られた。

「先生、今日だけはお願い。サボる度にお母さんの名前使うのも多分、やらないから」

 香織の顔はいつもの顔だけど、声音だけは真面目だ。

 先生と香織の母親の間にどんな因縁があるのか知らない。

 だけど、それを持ち出して休んでいたのかと背中越しに香織を睨んでおく。

 それに、それなら私のために……とは思わないでおく。

 はぁと先生はため息を吐いて、香織から視線を外す。

「……今日だけだから、入りなさい」

「ありがと、先生」

 香織がいつものニヤけた笑みを浮かべて振り返ってきたと思ったら、私の背に回った。

 私の肩に香織の手が置かれ、軽く力が入る。

「ちょっと、押さないでよ」

「え、入らないの?」

 香織の方を振り返る。

「ホントにいいの……?」

「先生はいいって言ってるし、ほら」

 そのまま香織に背を押されて、私も保健室の中に入った。

 先生は、私達に目もくれず、自分の職務を全うしているみたいだけど、立場としてはどうかと思う。けれど、仮病でサボっている以上、そんな偉そうなこと言えるわけがない。

「それで?」

「休ませてください」

 先生はこちらに興味がないように全く見てこないで、意識は完全に自分の仕事の方に向いている。

 仮病だから、わざわざ見る必要もないというのもあるだろう。

 それに香織のことが嫌いという可能性もあるが。

 サボる口実があれだから、しょうがないと思う。

「好きなベッド使ってなさい」

「好きなベッドって言っても……」

 カーテン付きのベッドが二個並んでいるから、好きなの一つずつ使えってことかな。

「先生は?」

「私は、用事でいないから変なことしないように」

 それだけ言って、先生は先程まで何か記していた日誌みたいなものを閉じて、保健室を出て行った。

「だってさ、じゃあ、ベッド使わせてもらおっか」

「……変なことしないでよ」

「分かってる、分かってるって。ほら、比紗子」

 香織に進められるがまま、ベッドに入ろうとしたが体が固まった。

「香織、あんたは隣のベッドでしょ?」

「え、なんで?」

 私の方が何でそんなことを聞かれるのか分からない。

「ベッドは二つあるんだから、一人一つ使うのが普通でしょ!」

 私がベッドに入ろうとしたら、香織も一緒に入ってこようとしたのだ。

「だって、どこか悪いわけじゃないから、ベッド二つも占領しちゃう方が申し訳無くない?」

 そう言われてしまうと、ちょっと考えてしまう。

 仮病で休んでいる私達の他で、もし具合が悪い人が来たりした時、空きがないっていう状況はあまりにも良くない。

「そういうことだから、ほら、比紗子」

 香織に押し倒される形で、ベッドに二人寝転ぶ事になった。

「こんなこと、先生に見られたら……」

「じゃあ、カーテン閉めてよ。それなら大丈夫だよ」

 香織がカーテンを閉めたが、これって結局一つしかカーテンが閉まっていないから、二人でベッド使っていることを、よりアピールしているようなものじゃないかと気が付いた。けど、直接見られるわけではないからまだマシなほうかもしれない。

 そういう問題ではないかもしれない。だけど、今はそういうことにしておこう。

「学校では、普通にしていてよ……さすがに、こんなところ誰かに見られるわけにはいかないし……」

 こんな事を言えば、香織が「見たい人には見せればいいじゃない」とか言いそうだけど、今日は珍しく言ってこない。

「比紗子、嫌がるようなこと言ってるのに、本格的には拒まないんだね」

「それは……そうでしょ……こんなところで大きい声出せないし、出したら誰か来ちゃうし……それで本格的に拒めるわけないじゃない……」

「言葉で嫌がるのもいいけど、そんなに嫌そうにしているようには見えないけど」

「うるさい……香織なんて嫌いよ、嫌いってこと分かってるでしょ……」

 香織の顔をまともに見えない。

 二人でベッドで寝ているが、香織から何も言わずに優しく抱きしめてきた。

 これが答えだよと言わんばかりの優しさだ。

「この後、最後6限目の授業あるけど、帰らない?」

「それは……」

「だって、どうせ部活行っても嫌な思いするだけでしょ?それにこうしてサボってる手前、そんな人らにこっちの弱みになる情報与えて、ジメジメした虐めされても癪だしさ」

 香織の言ってることはもっともだ。

「けど、サボってどうするのよ」

「私の家、来ない?」

 それは結局前と同じように香織の家に遊びに行くだけではないのかという言葉を飲み込む。

 いや、今回の場合は逃げる、ということになるのか。

「……別に行くのはいいけど、行って何するのよ」

「じゃあ、私の秘密、教えてあげるってのはどう?」

 香織の秘密?

 まぁ、人には多かれ少なかれ秘密はあるだろうから、秘密があること事態には驚きはない。

「香織の秘密って、それがどうしたの……」

「知ってもらいたいから、かな。知ってもらえればきっと私はホントの意味で比紗子にとって一番近くにいる存在になれるような気がしてね」

 恥ずかしいセリフをよく香織は素面でよく言えるなと少しだけ尊敬はするけど、変なことまで素面で言うから素直に褒められない。

 それにしても、香織の秘密が私にとって何になるのかは全くの不明。

 一番近くになれるとか、私がそれを聞いても引いたりしないとホントに勝手にどれだけ私のことを信頼しているんだろうか。

 しかし、香織の秘密……ちょっと想像出来ない。

 この無駄に自信に満ち溢れてて、運動も勉強も私よりも少しだけ出来る、ほぼ完璧な人の秘密なんて私が考えても分からないか。

 それでも少しだけ考えてみるが、やっぱりどれも香織が秘密にするほどのことが思いつかない。

 だけど、それを聞けば、トイレで寂しそうな笑みを浮かべた理由が分かるのかもしれない。

 そして、私は香織の表面しか知らないことに気がついた。

 彼女の過去も内面も私は知らない。

 知った気でいただけなのかもしれない。

 だったら、私達のホントの関係をここから始めていこう。

 まずは香織が私の隣にいられるように、ね。

 しかし、一つだけ釘を差しておく。

「一つだけ約束して」

「守れる保証はないけどね」

 香織を鋭く睨みつける。

「約束するよ」

 言葉だけで守ってくれる保証はなさそう。

 あまり香織のことは信用してない。

「変なことはしないでよ。絶対に」

「それは、してってこと?」

「違う!」

 香織がニヤニヤしたいやらしい笑みを浮かべる。

 私がそんな好みの表情を浮かべていたのか。

「それじゃ、先生が帰ってきたら、帰ろっか」

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