eight by ten
一旦キーボードとマウスから手を離して、両手を広げてみて欲しい。特別な理由がない限り、そう、例えば貴方が印刷所に勤めていたり、旋盤工だったりしない限り、そこには十本の指があることだろう。
そこそこ有名な説だが、人間が十進法を使うようになった理由というのが、まさにこの十本の指なのだそうだ。子供のころに、キャンディの数を指を折り曲げて数えたことがあるだろう。もし貴方が裕福な家庭で育ったのならば、十一個目から先のキャンディの数を数えるのに難儀したことがあったのではないだろうか。
ところが僕の知るある男には「九」と「十」という概念がなかった。いや、あるにはあるのだが、幼い頃は「八」が繰り上がりだと思っていたらしい。「一」から指を折り曲げていって、「八」まで来たら、今度は「九」「十」……と指を広げてゆく。そして「十六」でまた詰まって、「十七」で指を折り曲げてゆく。
当然、幼児の印刷工や旋盤工などいるはずもなく、また、彼らとて初めは十進数だったのだから、いくら途中で指が幾つか失われたからといって、突然、進法が変わるわけがない。回りくどい言い方になってしまったが、つまり彼には生まれつき左手の薬指と小指がなかったと、そういう話だ。
今、彼は大学で助手をしながら数学史の研究をしている。生憎僕は専門家ではないので、詳しいことは彼に直接会って聞いて欲しい。まあ研究はさておき、どうやら彼は大学で「八進数」「八進法」「はっちゃん」などと呼ばれているらしい。先の話を新歓でしたところ大いにウケたのだそうで、学内用メールアドレスまで「8chan」にしてしまうほど、今のあだ名を気に入っている。
小学生の時分には「ヤクザ」と呼ばれていたのだそうだ。金曜ロードショーか何かで放送された任侠映画を誰かが見てきて、そこから付けられたのだそうだ。幸いなことに虐めに発展することはなく、「ごっこ遊び」において端役の立場になることが多かった彼が、それ以降、悪の親玉役に上り詰めたのだからむしろ大出世と言ってもいいだろう。
彼の不運は中学以降の話だ。当時住んでいた家の位置が小学校のギリギリ学区内で、同じ中学に上がるクラスメイトは一人もいなかった。それなのに「ヤクザ」というあだ名だけが何故か伝わっていて、初日からほとんど一年間、怖がられて誰も彼に話しかけようとしなかった。
僕が彼に初めて会ったのは、その中学校の図書室の前だった。
僕らの通った中学校では、休憩時間ごとに図書当番が図書室の鍵の開閉をする決まりになっていたのだが、その日の昼は、いつまで経っても図書当番が現れなかった。僕が図書室に来たときにはもう彼がいて、妙なパステルカラーのペンキで塗りたくられたドアにもたれて文庫本を読んでいた。人見知りの激しい僕はそのまますぐに引き返そうと思ったのだが、返却期限の迫った本を返さなければならなかったので、仕方なく、彼から二、三歩離れたところに立って図書当番を待った。
だが待てど暮らせど図書当番はやってこない。後で聞いた話だが、「ヤクザ」が図書室の前にいるのに驚いた当時の図書当番が逃げ出してしまったのだそうだ。
「来ないね」
彼が僕に話しかけてきたのだと気づくまで、大分時間が掛かった。どうにかこうにか、
「うん」
と返して、それから二言三言言葉を交わしたはずだが、具体的にどんな会話をしたのかは、あまり覚えていない。
彼が噂の「ヤクザ」だと僕が気づくのは、それよりも随分後の話だが、それを知った頃にはもう彼とは大分打ち解けていて、彼が「ヤクザ」かどうかよりも、中学で唯一の友人を手放したくないという気持ちの方が勝っていた。
今、彼は僕とベッドに寝っころがっている。馴れ初めは省くが、八進数男は紆余曲折あって僕の彼氏になっていたというわけだ。彼の左手に僕の右手を絡める。すると小指と薬指の辺りだけどうにもスカスカして、代わりに、異常に発達した中指が、僕の手の甲をギュッと掴む。なんだかインコの足みたいだ。
「相変わらず体温高いね」
「なんだ、起きてたの」
「初めて君と手を繋いだときのことを思い出したよ」
彼がまっすぐ僕を見た。その瞳に自分が映っているのを見つけてしまって、どうにも気恥ずかしくなって俯いた。
「あの頃と比べて、随分と骨っぽくなったね」
「十六年も経ったんだ、指に毛も生える」
「ははっ、何ソレ。――でも、十六年かあ」
「十六年だよ」
何となく、彼の手の薬指にあたる部分を口に含んでみた。塩の味がする。擽ったかったのか、引っ込めようとする彼の手を引き戻して、ガリっと噛みついた。途端に口の中いっぱいに血の味が広がった。
「痛って――何すんの、やめてよ」
今度こそ本気で手を引っ込めて、彼は唾液と血にまみれた部分を口に含んだ。
「うわあ、血の味がする」
「結婚しよう」
「は?」
「それ、指輪替わりね。十六年だし」
「ごめん、意味が全く分からない」
「折り返しじゃん」
「僕的には、まあ、そうだけど」
「君の指、結婚指輪つけられないし」
「それも、そうだけど。本当何なの? 君はいつも突拍子がなさすぎる」
「君と違って対人経験が貧困なんだ。こんな時、どうしたらいいのか判らない」
「笑いたいのは僕の方だよ。というか痛いし」
「我慢しなさい、男の子で――痛い!」
ガリッという軟骨の砕けるような音がして、思わず僕は彼の顔を右手で掴んだ。ヒリヒリと傷む左薬指を、彼の舌が這った。唾液で痛みが和らぐなんて嘘だ。とても痛い。
「我慢しなさい」
「やっぱり結婚指輪は別の案を考えよう」
「僕の返事も待たずにかい?」
「えっ」
最悪の結末を予想して青くなる僕を見て、彼はニヤニヤと笑った。
「Yesと言う喜びを味わわせてくれよ」
「驚かすなよ」
「驚かしたくもなるさ」
「ともあれ、よろしくダーリン」
「よろしくハニー」
「そうだ、僕の小指を君の薬指につけたら結婚指輪を付けられるじゃないか。今日から二人で九進数だ」
「だから痛いの嫌なんだろう?」
「そうだった、どうしよう」
「知らん」
<おわり>