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待っていて

作者: 結木さんと

 夕暮れの空。静かな住宅街の、なんの変哲もないアスファルトの道。

 周囲に漂う初夏の熱気を切り裂くように、遠くで甲高い電子音が響く。

 電車の通過を告げる音。耳障りな踏切の警報音を聴きながら、茜はとぼとぼと線路沿いの道を歩いていた。

 黒のボーダーのTシャツに、量販店で買ってもらったデニムのスカートと水色のスニーカー。湿気が多いとすぐ広がってしまう髪は、首の後ろで二つに分けてくくっている。

 背中には勉強道具を詰め込んだリュックサック。使い古したランドセルは家に置いて、いまは週二回の塾へと向かう途中だ。

 茜は今年で小学六年生になった。その割には服装に洒落っけなんてまるでなく、クラスのみんなみたいにイイ香りのリップグロスも塗っていない。

 そういうのは苦手だ。

 教室で自分が浮いてるのは知っている。根暗、と陰で噂されているのも。

 喋るのはあまり得意じゃないし、そもそも芸能人や恋愛の話なんてまったく興味がない。とてもじゃないけど、あの休み時間のたびにぎゃあぎゃあ騒ぐ集団の中に入っていける気がしなかった。できもしない無理をするくらいなら、一人で本でも読んでいた方がマシだ。

 そんな人見知りをこじらせた茜にも友達がいた。同じようにおとなしめの性格で、好きな本やマンガの趣味が合う、お互いになんでも話せる幼なじみ。保育園のときから仲良しの二人は、これまでずっと一緒に過ごしてきた。

 ――だけど、それも昨日まで。

 茜のたった一人の友達は、はるか遠い土地へと引っ越していった。

 理由はお父さんの転勤。寂しいと泣きじゃくるあの子の顔が、いまも頭から離れない。

 茜は近所のおばちゃんたちから「大人びてる」といわれている。落ち着いていて、手のかからない良い子だ、と。

 ……そんなの嘘だ。

 ただ不器用なだけ。

 仲良しの幼なじみは大人の都合で奪われた。よく二人で過ごした思い出の場所は、たぶん神様の都合で。

 小さな頃から知っている、大切な場所だった。ほんの二ヶ月前にも、茜の誕生日のお祝いにと幼なじみが買ってくれたシュークリームを二人で半分こして食べた、特別な場所。……そんな大切な景色も、いまはもうどこにも見当たらない。

 ――なんでわたしたちなの? どうしてあの場所を奪われないといけないの? 他にもいっぱいあるのに。どうして持ってるものが少ないわたしたちから、わざわざ大切なものを奪っていくの?

 ほんとうに大人なら、たぶんこんな境遇にも耐えられる。こんな八つ当たりみたいに、どうしようもないことで怒ったりしないはずだ。

 けど、茜は我慢できない。

 大人なんてだいっキライだ。もし存在するのなら、神様だってキライ。

 今日だってほんとうは塾になんて行きたくなかった。だけどお母さんが怒るから。……そうやって、いいたいこともいえずに黙って従う自分が、誰よりもキライだった。

 一人で歩く通学路なんて、少しも楽しくない。失った思い出の場所を通り過ぎるたびに胸が張り裂けそうになる。

 これからずっとひとりぼっち。

 寂しくて、苦しくて。

 いっそのこと、自分もどこか遠くへいってしまいたい。


 茜は、どうにもならない現実に押し潰されそうだった。





 去年から通いだした塾は、線路沿いの大通りから中に一本はいった道にある。ただ、その道は人通りが少ないので、途中までは広い道を歩くようにいわれていた。

 駅が近いおかげで周りにはそれなりに通行人がいる。その中には、高校生らしいお兄さんやお姉さんもいた。

 自分もいつかあんな風になるのかな。あんなに楽しそうに笑う大人の自分なんて、いまではちっとも想像できないけど……。

 ――そう、暗い気持ちで考えていたときだった。

 耳元で「キィ」と高い音が鳴る。ガラスを爪で引っ掻いたような、気持ち悪い音。

 少しずつ大きくなるその音に、頭の中が針で突かれたみたいに痛くなる。


「あ…………っ」


 思わず耳を押さえてうずくまる。痛い、痛い――痛いっ!

 頭の中が不快な音で埋め尽くされた。息ができない。なにも、考えられない。割れそうな頭の痛みから逃れるため、ひたすらギュッと目を閉じて耐え続けた。

 ……どれくらいそうしていただろう。

 気がつけばあの気持ち悪い音は止んで、頭の痛みも治まっていた。

 自然と胸から息が吐き出される。ぜぇ、ぜぇ、と荒い呼吸を繰り返して、なにが起きたのかもわからないまま、地面に這いつくばり続けた。

 やがて胸の苦しさも完全に消え去って、茜はようやくノロノロと身体を起こした。

 頬っぺたがひりつく。どうやら、たくさん泣いてしまったようだ。

 ぐしぐしと腕で顔を拭う。ぼやけた視界がよく見えるようになって――茜は、黒い瞳を大きく見開いた。


「……なに、これ……?」


 そこは、さっきまで自分がいた駅前の大通りではなかった。

 背の高いフェンスに遮られた線路はどこにもなく、代わりに、木板の垣根がいくつも連なっている。

 その向こうに並ぶ家はどれも木造で古い。まるで田舎のおじいちゃんの家みたいだ。

 足元にもアスファルトの暗色は見えず、あるのはザラつく砂の感触。茜が驚いて足を引くと、ざり、と土を踏む音が聴こえた。

 ここはどこなのか。自分はいったいどうしてしまったのか。いくら考えを巡らせても、まるで理解できなかった。

 ――怖い。

 遅れてやってきた鈍い恐怖が、身体を震わせる。

 いきなり変化した景色よりも、強烈な違和感を抱かせたもの。……それは、目の前を歩く「人」だった。

 こうなる前は、いろんな表情の人がいた。疲れた顔、楽しそうに話す顔、うっとうしそうに流れる汗を拭う顔。

 だけど、いまは違う。

 道行く人の顔は能面みたいな無表情。誰も少しの感情すら浮かべず、ただ同じ方角を向いて規則正しく歩いている。

 みんな同じ格好。白のカッターシャツと硬そうな生地のズボン。

 いろんな年齢の男の人と女の人がいて、それぞれ違う顔立ちなのに、服装や表情はまったく同じ。まるで映画の兵隊さんみたいに、一糸乱れない動きで足を動かす。

 不気味な光景だった。

 とても自分と同じ人間だとは思えない。

 よく見れば、彼らが呼吸をしていないことに気づいて……そのあまりの異常さに、慌てて後ずさった茜の靴が、道端に放置されていた小さな缶を蹴とばした。

 壁に当たったブリキの缶は、周囲に甲高い音を響かせる。


 ――ぐりん、と全員がこちらを向いた。


「ヒッ!?」


 喉が引き攣る。

 自分に向けられたいくつもの眼。温度のない冷たい視線。

 身体は停止したまま少しも動いていない。首だけが、ありえない角度で茜の方を向いていた。


 壊れたマネキン。


 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 けれど、人形らしいのは動作だけで、その姿は間違えようもなくリアルな人間だ。

 ……息ができない。頭もまるで働かない。衝撃が、驚愕が。視界を埋め尽くす恐怖が、足を地面に縫いつける。

 逃げないと。そう思うのに、強張った身体は指先すらピクリとも動かない。

 やがて、マネキン人間たちが、ゆっくりと方向転換をはじめた。

 砂を踏む音が聴こえる。何本もの足が同時に動きだした。息もできず後ずさった茜の足は、すぐ黴臭い木の壁にあたって退路を失う。

 いやだ。

 帰りたい。

 助けて。

 怖い。

 誰か。

 ――――死にたくない!

 ぼたぼたと涙の流れる眼を閉じて、伸ばされた青白い手から身を守るように腕をかざす。――その手首を、隣から誰かの小さな掌が掴んだ。

 身構える暇もなく、茜の華奢な身体がぐいっと真横に引かれる。


「……え…………?」


 驚いて、きつく閉じていた目蓋を開く。そして見えた光景に、涙でぼやける瞳はさらに大きく見開かれた。

 手を引いているのは、自分よりいくつか年下らしい小さな女の子。

 その少女は古い映画で観たような、大昔のお姫様みたいに色鮮やかな着物をまとっていた。

 風に波打つ黄緑や朱色の長い裾を眺めながら、茜はようやく異常な現状に気づく。


 茜は、この世のものとは思えないほど美しい少女と共に――――空を飛んでいた。



      ◇◆◇◆◇◆◇◆



 みるみるうちに景色が後ろへ流れていく。気がつけば、周囲は夜の迫る紫色に包み込まれていた。

 茜がいるのはそこまで高い場所じゃない。せいぜい二階建ての家の窓くらいの高さだ。

 それでも、当たり前ではあるが空を飛ぶなどはじめての経験だったので、思わず繋いだ掌をギュッと強く握り締めた。

 不思議だ。

 まだ危機を逃れたとはいえない。ここがどこなのかもわからないまま。助けてくれたらしい女の子のことも、茜は知らなかった。

 でも、彼女の傍にいると安心する。

 どこか懐かしいような……そんな、不思議な感覚に包まれていた。

 後ろで大勢の足音が響く。振り向くと、追い駆けてくるマネキン人間たちの姿が見えた。

 足並みに乱れはない。誰もが同じ格好で、すごいスピードで走ってくる。

 もう何度目かわからない恐怖に、お腹がキュウッと痛くなる。追いつかれたらどうなってしまうのだろう。そう考えるだけで、茜は不安で押しつぶされそうだった。

 でも――

「ねぇ、あなたは誰なの? ……なんでわたしを助けてくれるの?」

 勇気を振り絞って尋ねる。しかし、鮮やかな着物をまとう少女は、優しい笑みを返すだけでなにも答えない。

 その表情には、微かに疲れたような気配が滲んでいた。

 やがて、茜が不安に思う間もなく、ゆっくりと地面が近づいてきた。

 力尽きたらしい幼い少女は、そのまま砂利道へと小さな足をついてしまった。

 背後から迫る異形の足音。気持ち悪いほど揃った音に弾かれるように、飛ぶことを止めた少女は走り出した。茜の身体が、ぐん、と前に引っ張られる。

 すごい力だ。自分より頭一つ小さな幼子に手を引かれながら、茜は思う。

 ぼやぼやしてばかりはいられない。

 ここまで助けてもらって、足手まといにしかなれないのはイヤだ。

 恐怖に震える奥歯をグッと噛みしめて、茜は一生懸命に足を動かした。

 もう後ろは振り返れない。すぐそこまで、あの不気味なマネキン人間たちが近づいているような気がする。

 不安に押し潰されかけながら走る茜は、ふいに、前方にぼんやりと浮かぶ薄光があることに気づいた。

 一歩を踏むごとに光の群れに色がついていく。

 ――それは鮮やかな春の色。

 優しい白にほのかなピンクを滲ませた光が、薄暗い闇を切り取って輝いている。

「さく、ら……?」

 唖然とした茜が呟くと、目の前の少女はどこか嬉しそうな表情を覗かせた。

 そこにあったのは一面の花。もはや桜の海のようにも見える幻想的な景色が、急に開けた視界の中に広がっている。

 こんなに見事な桜を、茜は見たことがなかった。けれど、それと同時に奇妙な既視感を覚える。

 この場所をどこかで見たような気がする。でも、どこで……?

 考えだした茜の肩を、冷たいものが掴んだ。

 心臓が跳ねあがる。反射的に振り返ると――間近に、青白い人間の顔があった。

「いやっ!?」

 身体をねじって振り払う。けれど、氷みたいな指は外れてくれなかった。

 もうちょっと。あと少しで、桜の群集に入る。そうすれば安全だと、茜の本能が告げていた。

 その、ほんの二、三歩があまりに遠い。

 引き摺られそうになりながら、必死で足に力を込めた。掴まれた肩が痛むけど、気にしてなんかいられない。

 ……やがて、幼い先導者が先に森の境界へと足を踏み入れた。

 振り向いた少女は年齢にそぐわない妖艶な笑みを浮かべ、空いた手を横凪ぎに振るう。

 その動きに呼応するように、密集した木々の幹がぼんやりと輝きはじめた。乳白色の光はぐにゃぐにゃと歪んで、瞬く間に人の形となる。

 ――現れたのは、鎧を身につけた武士。

 その姿を、茜は社会の教科書で見たことがあった。たしか戦国時代のお侍さんがあんな格好をしていた気がする。

 次々に現れる彼らは、押し寄せるマネキン人間たちを腰の刀で切り伏せていく。

 血が出ることも、悲鳴をあげることもなく。切られた人たちは、まるで砂塵のような黒い粒を撒き散らして地面へと溶けていった。

 自由になった茜が呆然とその光景を眺めていると、くいくいと手を引かれた。見下ろせば、繋いだままの手を美しい少女が引っ張っている。

 どうやら、急ごうといっているみたいだ。

 呼吸を整える間もなく走り出した茜の中で、先ほどの予感が少しずつ大きくなっていた。

 ――この場所、知ってる……。

 もやもやとした霧みたいな感覚は、華やかな森の最奥に辿り着いたとき、確信に変わった。

「あ、あ……」

 そこにあったのは、ひときわ大きな一本の桜。

 天を突くように堂々と聳え立つその大樹を、茜は知っていた。姿形が変わっても、この場所だけは絶対に忘れない。

 思わず歩み寄って……ふと、あることに気づく。

 ここがどこなのかはわかった。なら、この場所に連れてきてくれたあの子は――。

 慌てて振り返る。しかし、茜が口を開くチャンスはやってこなかった。

 小さな手が、優しく茜の肩を押す。ほとんど力を込めたようには見えなかったのに、身体が大きく傾いだ。

 ひどくゆっくりと流れていく景色の中で、見えたのは微笑む女の子の顔。

 それはこの世のものとは思えないほど美しくて――切なくなるほど、優しい表情だった。


『待っていて』


 最後に、空を舞う花びらと同じ色の唇が、そんな短い言葉を紡ぐ。

 透き通る風のような声を聴きながら、落下する茜の視界は、真っ白に塗り潰された。





「……の? 大丈夫?」

 ふいに、そんな声が茜の意識を浮上させる。

 ぼんやりとした眼を向けると、心配そうにこちらを覗き込むお姉さんの顔が見えた。

 知らない人だ。着ているのは有名な女子高の制服。お嬢様学校に通う知り合いなんて、茜には一人もいなかった。

 ――でも、そこにはたしかに表情がある。

 無表情のマネキン人間じゃ、ない。

「ねぇ、頭いたいの? 救急車呼ぼうか?」

「あ、いえ…………大丈夫、です……」

 なぜそんなことを訊かれるのかと思えば、知らない間に両手で頭を押さえていたようだ。

 まだ状況が飲み込めない。戸惑いながらも、茜はゆっくりと腕をおろした。

 なおもいろいろと心配してくれるお姉さんの申し出を断わって、丁寧にお礼をいう。年上なのに可愛らしく感じられるお姉さんは、渋々といった様子で茜から離れると、少し先にいる友達の元へ歩きだした。待っているのは綺麗な外人さんだ。こんな田舎町では珍しい。

 しばらく二人を眺めていた茜は、その後ろ姿が見えなくなって、ようやく我にかえった。

 大きく息を吸いこんで、ゆっくり吐く。

 顔を上げれば、そこには奇妙な世界へ行く前と同じ、真っ赤な空があった。

「……帰ってこれたんだ」

 ポツリと呟いて、噛みしめるように目を閉じる。

 立ち尽くす茜の頬を、じっとりとした初夏の風が撫でていった。



      ◇◆◇◆◇◆◇◆



 七月の終わり。小学校はすでに終業式を終えて、生徒たちは始まったばかりの長い夏休みを満喫していた。

 日を追うごとに陽射しはどんどん強くなっていく。それに伴って気温も高くなるので、あまり外で遊ぶ子供の姿は見かけない。みんなプールや図書館に出かけるか、自宅で宿題を進めているのだろう。外出するときはこまめに水分をとるようにと、先生からもさんざん注意されていた。

 真面目に言いつけを守ってたくさん水を飲んできた茜は、流れる汗を拭いつつ、太陽に照らされた道を歩いている。

 スカイブルーのTシャツに、丈の長い白のロングスカート。足元は革紐のサンダルを履いて、精一杯のお洒落をしてきた。

 自分なりに完全武装した茜は、手に小さな紙袋を抱えて足早に目的地を目指す。

 やがて、見えてきたのは小さな公園だった。

 とはいっても遊具はほとんどなくて、あるのは伸びっ放しの草と放置された花壇くらい。

 その片隅に、いまは囲いをされて立入禁止の札をつけられた場所があった。

 張り巡らされたロープの向こうには、表面の裂けた切り株がある。


 ――ここが、幼なじみとの大切な思い出の場所。


 小さな頃から何度もここを訪れていた。

 春には空を覆うような美しい花々を眺め、散り際には別れの時を惜しんだ。青葉が茂れば大きな木陰でアイスを分けあって、痩せた枝が寂しくなる季節には「また来年もキレイな花が咲きますように」と、幼なじみと二人で再会を願った。

 この場所に人が集まることはない。お花見なら、川辺や広場にたくさんの桜が咲いている。わざわざこんな寂れた公園に、たった一本だけ残った桜を見にくる人なんてほとんどいなかった。

 それでも、茜たちはこの場所が大好きだった。

 たとえみんなに忘れられても、たった一人でも誇らしげに咲く、力強い桜の木が。

 ……今日、茜はここに『約束』をしにきた。

 前だけを見て歩くための約束。奇妙な世界から救い出してくれた、優しい少女の恩に報いるため。もう弱音は吐かないと、誓いをたてるためにここにきたのだ。

 囲いのすぐ近くに腰を下ろす。仰々しいロープの向こうには、切り株の隣に息づく新たな桜の芽が見えた。

 あれは六月のはじめ。なんの前触れもなく、この桜は空梅雨の雷に命を奪われた。

 真ん中からぽっきりと折れた老木は、もうどうすることも出来ないとえらい人たちに見捨てられてしまった。

 けれど、お母さんから聞いた話では、無事だった新芽を育てて、萌芽再生という方法で古い桜を甦らせることが最近決まったそうだ。

 ――思い出の桜は、この場所で生命を繋いでいた。

 あの日、助けてくれた女の子はこの新しい桜の芽だったのだろう。だから、あんなにも小さかったんだ。きっと誰に話しても信じてもらえないだろうけど、茜は繋いだ手の温もりをまだ覚えている。

 きっと、いつまでも忘れない。……ううん、絶対に。

 キュッと唇を引き結んだ茜は、紙の袋を開けた。中から取り出したのは、誕生日に幼なじみが買ってくれたシュークリーム。ちゃんと自分で手に入れたという証が欲しくて、たくさん家の用事を手伝って、ちょっとずつ貯めたおこづかいで買ってきた。

 ここから、はじめるんだ。

 わたし一人でも歩き出せたよって、大切な人たちに胸を張れるように。

 かぷっ、と大きなシュークリームにかじりつく。噛み締めると、カスタードの甘さが口の中に広がった。

 だけど、なんだか味気ない。

 二人で食べたときは、他のどんなお菓子よりも美味しく感じられたのに……。

 鼻の奥がツンとする。

 いけない。泣いちゃだめだ。

 しっかりするって約束するために、わたしはここにきたんだから。

 早く残りも食べてしまおうと、茜が口を開いた、そのとき。


 ひらり、と――桜の花びらが一枚、シュークリームの上に落ちてきた。


 思わず、息をのむ。

 それは、ここに存在するはずのないもの。この近くに桜の木は一本もないし、そもそもいまは七月だ。こんなにも色鮮やかな、薄桃色の花が咲くなんてありえない。

 声も出せずに顔をあげても、そこには雲一つない青空が広がっているだけ。

 あの優しく揺れる可憐な色は、どこにも見つからなかった。

 ふいに、風が吹いた。小さな花片がふるりと揺れて、どこかへ飛んでいきそうになる。

 慌てた茜は、急いでシュークリームごと口に含む。

 広がったのは、あの日かいだ花のにおい。大切な幼なじみが誕生日を祝ってくれた日。奇妙な世界で誰よりも美しい女の子とお別れした、あの日に。

「ふ……ぅ……っ」

 ぽた、と透明な雫がおちた。

 ――大丈夫、大丈夫。きっと、大丈夫だから。

 わたしは、ちゃんと大人になって、あなたたちと会える日を待っているから。

 綺麗な花の咲く季節を。大切な人たちとまた会える、そのときを。

 きちんと自分の足で立って、胸を張って迎えにいくから。

 だから、いまは――。


 ぐっと涙声を噛みしめて、幸せだった時間をやきつける。

 うつむいてしまった茜を包みこむように。

 少し塩っぱくなった、ほのかに甘いクリームと。


 桜ひとひら、優しく薫る。







   待っていて  ―了―


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[一言] 良かった。 二人組はこももさんとロッテさんかな?
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