城下町④
■城下町の宿屋『赤犬亭』
『赤犬亭』は決して清潔とは言えない内装だった。まず薄暗い。足元の掃除が行き届いていない。
日本ではありえないが、海外では案外ある『いい加減な』宿、というものに見えた。世界によって常識は違うのかもしれないが、客に快適に過ごして欲しいと思える店主ならば、当然足元を掃き清めるくらいはするものだろう。一階はレストランになっているらしく、幾つかのテーブルや椅子があるにも関わらず、玉になった埃を転がったままにしておくはずがない。
結論として、ここは駄目だ。
診察をするにも適さない。どこか別の場所へ行こう。
と提案したかったのだが、その時には既に、奏多は店主と思われるカウンターの壮年男性に話しかけていた所だった。
俺はため息をつきながら、春歌さんは苦笑をしながら、その場へ向かう。
「だから、お部屋をちょっとだけ使わせてほしいだけなんです!」
「嬢ちゃん、うちはギルドにも登録してるれっきとした宿屋だ。連れ込み宿じゃないんでな、そんなサービスはやってないんだよ」
「でも、夜にはここに居ないんです。ちょっとだけ、ほんの一時間くらい…。まだ昼前だし、お客さんが集まる前に出て行くから…」
「そうはいかねぇな。ま、いつ出て行くかは客の自由だ。金さえ貰えりゃ俺は構わねぇよ」
「そんなぁ…」
宿に突っ込んで行った勢いはどこへやら。奏多はしょんぽりと意気消沈して頭を抱え、ため息をついた。
まあ、『赤犬亭』の主人が言うのは最もだ。無理をお願いしているのが奏多。
こんな不衛生そうな場所で休むくらいなら、風通しの良い外で座って休む方がまだマシだ。さっさと諦めて、別の場所へ行こう。
俺としてはむしろ、奏多が一日で帰る予定である事を覚えていたことを知れた事の方が重要だった。てっきり忘れ去られたかと危惧していたから安心した。
「奏多、無理を言って困らせるなよ」
声をかけると、振り返った奏多は涙目だった。
そういえばモーリスさんに土下座されて何か懇願されている時もこんな目をしていたな。心底困った、という顔だった。
「だって、先生…」
泣きべそをかきながら、声も震えている。
「お、兄ちゃん話が分かるじゃねぇか」
そんな奏多とは対照的に、壮年の店主は随分と機嫌が良いようだった。
「いえ、ご迷惑おかけしてすいません。私たちは別の宿へ行きますので」
そう言いながら奏多の肩を引き、カウンターから離す。
「なんだもう行っちまうのか。まあ、構わねえけどな。まいどあり!」
……まいどあり?
妙な違和感と悪い予感が胸をよぎり、奏多を見ると、両手で耳を塞いで背中を向けている。
どうして既に怒られる準備が万全のポーズなんだ?
「奏多、何か言う事があるな?」
その片手を外させて声をかけると、そっと下から窺うようにこちらを見上げる。
言いづらい事がありますと全身で示しながら、
「お金…もう払っちゃって、返してもらえないの…」
「うちは先払いだ。条件確認して金貰ったんだから、返す義理はねぇよ」
「条件なんて言ってないよ! 払えるか見せてみろっていうから、お財布からお金出しただけじゃない!」
「おいおい。言いがかりはやめてくれよ。さっきも言ったが、うちはギルド登録の優良店なんだぜ。そんな真似する訳ねぇだろ」
にやにや笑いながら、カウンターの影の手元をじゃらりと鳴らす店主。
さらに言い返そうと息を吸い込む奏多の口をぱしっと手のひらで塞ぐ。
もう喋るな、さらに混乱するから。
その体勢のまま、俺は店主の顔を正面から見る。短く刈った髪、太い眉、無精ひげ。腹は樽のように膨らんで、腕は丸太のように太い。
俺の視線が分かったのだろう、店主はにやりと笑って、ぐっと腕を曲げて力こぶを作る。ぽこ、とこぶが浮かび上がった筋肉は、まるでプロレスの選手か何かのようだ。宿の店主にそんな筋肉いるか?
万が一、腕相撲でもしたら俺の腕が粉砕されそうなそれは、どんな理論的な説得も、常識的な説明も無意味にしてしまうのだろうと知らしめるに十分だった。
「……部屋を使わせてもらおう」
「あ? 今出てくっつったろーが」
大分妥協して絞り出した言葉だったのだが、店主は気に入らないらしい。
よそ者と思って吹っ掛けて、脅して追い出すのか。
いくらなんでも泊めないのは詐欺だろう。と、思う。モーリスさんから聞いていた盗賊の話などから察するに、警察のような機能を持った組織と、法律のような絶対的なルールがあるはずだ。けれど、訴え出るとして、証拠も無しに、見るからに現地人ではない俺たちの話を聞いてくれるような組織なのだろうか。
いや…。というより、俺たちにそんな無駄な事をしている時間はない。となれば、これも勉強と思って諦めるしかないのか…。
はあ、とため息をついて、もう良いと言おうと口を開いた。
「すいません、わたしが歩き疲れてしまって、この子が一生懸命になってくれただけなんですよ」
だがその前に、ふんわりと話しかけたのは、春歌さんだった。
「ギルドのお店なんですもの。わたしにはちょっと贅沢ですけど、たまには良いですよね? 一度お断りしてしまったのに申し訳ないのですけれど、やっぱり泊めて下さらないかしら」
柔らかく、ていねいで、品の良い春歌さんには、さすがの野性味溢れる店主も邪険な対応は出来ないようだ。
どうかしら? と首を傾げる春歌さんに、「あー…」とセリフを探して言い淀む。
そして数秒後、「ま、いいか」と店主の中で結論が出たらしい。
「姉さんにそこまで言われちゃしょうがねぇな。いいぜ、泊って行けよ。部屋は2人部屋で、本来なら3人泊らせることは無いんだが、特別だ。3人で使っていいぜ」
にやりと笑う店主。
「なんたってうちはギルドの優良店だからな」
先ほどの笑顔よりは、悪気が無いもののようだが…正直、差が分からない。
春歌さんのおかげで何とかまとまった雰囲気を壊さないように、店主が投げてきた部屋の鍵を受け取って、下を向いて激しくへこんでいる奏多を引っ掴んでカウンターから離れる。部屋番号は鍵のホルダーに書いてある。
「2階の奥だぜ」
という上機嫌の案内を背に聞きながら、奥の階段をゆっくりと上がった。
木製の古い扉を開けて部屋の中に入ると、むわりと溜まった埃が鼻先をかすめてうんざりしたが、俺の片手にしがみ付いてめそめそしている奏多の前では、ため息すらつけない。
取りあえず2人を部屋の中に入れて、扉は開けたまま、締め切っていた木枠の窓を全開にして換気する。
外を流れる川のせせらぎと、花の瑞々しい香りが部屋へと入ってくる。やや強めの風が吹いていて、部屋の埃を廊下の外へと押し出してくれた。
それを確認してから、窓はあけたままで扉を閉める。
「とりあえず、座ろう」
「ええ、歩き疲れたわねぇ」
俺が廊下側のベッドに座ると、春歌さんがもうひとつのベッドに座る。
奏多だけが立ったままだ。
ぱっつりと切りそろえた前髪が目を隠すくらい下を向いて、すっかり沈んだまま帰ってこない。
「ごめんなさい…」
その状態のままぽつりと呟くように謝ってきた。
簡単には泣かなくなって成長したかと思ったのに、一時間も経たずに撤回することになるとは思わなかった。まあ、涙がこぼれないだけマシなのかもな。
「もう良いから、落ち着いて休め。ほら、座れ」
「そうよ、奏多。息子先生の隣があいているわよ」
いや春歌さんの隣だって空いているでしょう。
謎の発言にぎょっとして春歌さんを見るのだが、いつのものようにふわふわ笑いながら、両手を伸ばして体の左右について、「こっちはいっぱいよ?」と俺に言う。
何がしたいんですか。いえ、なんかそれも似合いますが…。
いつもならば、春歌さんがこういう不思議な行動をすると奏多が説明をしてくれる。それか、一緒に意味が分からなくてもやもやを共感するのだが、今の奏多にそんな余裕はなさそうだ。
動かない奏多を見上げると、戸惑って揺れる大きな瞳が、俺の隣をおろおろと見ている。
「ほら、ここに座れよ」
埃をたてないようにぽんぽんとベッドを叩くと、
「うん」
まるで僥倖を得たとでも言うように、ふわりと、安堵を浮かべた。
ゆっくりと俺の隣に座って、春歌さんと向かい合い、その向こうの窓から空を眺めて。
「本当に、ごめんなさい」
ぺこりと下げた丸い頭にぽんぽんと手を置いて、俺は笑った。
「異世界だからな、こんなこともあるさ」
手の下の頭は少しだけ震えた。