アルカトラズ
連綿と続く漆黒が、視界一面を埋めていた。
その底の見えない深淵で人を魅了し、堕落させ失墜へと導く奈落の無明。
ふと、そんな暗闇に溶け込み同化したいという欲求が首をもたげた。
脳はその邪なる誘惑に抗うべきだと警鐘を激しく打ち鳴らすが、肉体は命令を聞かない。指先から徐々に、動かす力が失われていく。
――駄目だ。
胸中で囁く声。
――ここで負ければ、二度と戻れなくなる!
瞬時にそれを察知した俺は強い意志を胸に滾らせ、裂帛の気合いを込めて拳をぐっと握り締めた。
そして見えていた闇色が閃光によって急速に掻き消されていき――
〈アルカトラズ〉
緩やかに持ち上がる瞼。窓から差し込む強烈な朝陽が網膜を焼き、俺はたまらず呻いた。
「うぅ……寝てたのか……」
寝起き独特の、まるで東京マラソンを走破した瞬間のような(未参加だが)全身を苛む倦怠感。
それにしても随分寝ていたような気がする。
半覚醒状態の脳みそを奮い立たせるように幾度か頭を振ったが、こびりついた眠気はさっぱり取れない。身を起こそうとしても布団の温もりが俺を離してくれず、結局首すら持ち上がらなかった。
……どうせ起きられないなら、いっそのこと寝直してしまおうか。
二度寝、なんと甘美な言葉の響き。
んじゃおやすみ。口の中でだけ呟いて、俺は再び瞳を閉じた――
「……む?」
しかし、降ろした瞼の向こうでチカチカと点滅する光によって俺の安眠は妨害された。え、なに?
正体はすぐに掴めた。うつ伏せのまま手探りで見つけた感触は、他でもない俺の携帯電話だった。
「ちくしょう……邪魔しやがって」
とはいえ、枕元に携帯を置く習慣など俺にはない。一体なぜこいつと夜を共にしているのか。
数秒の逡巡の後、俺は画面を開いた。起き抜けには少し辛い光量に思わず眉根を寄せる。
「あ」
呆けた声が漏れる。
そこにはメモ帳機能で“プラモを作る!”と表示されていた。一見すると意味不明だが、俺には壮絶に心当たりがあった。なるほど、これは昨夜の自分からのメッセージだ。
そもそも俺が自堕落に惰眠を貪っていたのには、とある理由がある。
つい先日のことだ。会社の上司から有給休暇を取るよう命令を受けた。職場に友人など数少ない俺は厄介払いかと邪推してしまうが、深く考えても落ち込むだけなのでスルー。
とにかく仕事が趣味とも呼べるほど働き詰めだったので、休暇のストックは腐るほど余っており、それならばと俺は一週間をまるごと休日にあてた。許可は存外簡単に出た。やはり煙たがられているのだろうか。泣きたい。
前述のように無趣味である俺はひたすらに休養と安寧を求め、アパートから一歩たりとも外出せずに、屋内でぐうたらと余暇を満喫した。食っちゃ寝、食っちゃ寝の毎日。
まあ、そんな無為に時間を過ごすのも三日もすれば限界なわけで。
俺は程度を越えた退屈に耐え切れず、なんらかの退屈しのぎになる行動を模索した。
そして行き着いた先は、大手通販サイト“Amazon”。
学生時代の貴重な道楽だったガンプラを衝動的に買い漁り、残った休日で計五百超のガンプラを製作してやろうと画策したのだ。独り身でこつこつと通帳の残高を増やしてきた俺に、予算に関しての心配は無用だった。人間関係や私生活に関しては懸念だらけだが。
その結果として俺の部屋は、玄関先にまで配達による段ボール箱が浸食する事態に陥った。
あまりにも壮観だったのですぐに手を出すのも億劫になり放置、ひとまず布団に潜って――
現在に至る、というわけだ。
それにしても。俺は玄関の惨状を想起し、孤独な部屋で溜息を吐いた。
――面倒臭いなぁ……
この連休で俺の心身にはすっかり怠惰癖が染みついてしまったらしい。昨日はあれほど俺の鼓動を高鳴らせたガンプラの山にも、一片の魅力も見出すことができない。ただ煩雑なだけだ。
プラモ作りも段ボールの廃棄も、すべてを投げ出して寝てしまいたい。
無意識に毛布を頭まで被った、その時だった。
ぐうぅぅぅ……
腹の虫が鳴いた。
そういえば昨日は一晩中PCと睨めっこ状態だったので、夕食すら怠っていたのだった。なんて不健康な生活なんだ。
ひとまず朝飯にでもするか。いや、この時刻では昼飯と呼ぶ方が適切か。どうでもいいわ。
しかし問題点がひとつ。
そう、食事の用意すら“かったるい”のだ!
元来より自炊はしない性質だが、冷凍食品やインスタント食品をレンジに放り込む手間までもが、酷く面倒な所作に感じられる。だが暴力的な食欲は一向に衰退せず、腹の音によって空腹を殊更に主張するばかり。
どうしよう……
悩んで眉間に指を当てると、ふと思い出したことがあった。
この間、合コンですこぶる会話の弾む女性がいて、俺が「自炊とかまったくできないなぁ」と苦笑交じりに言ったら「じゃああたしが料理作りに行ってあげようか」と飛びきりの笑顔を貰って、是非お願いしたいというか、もう俺のために味噌汁を作ってくれというか(肉じゃがでも可)、とにかく辛抱たまらんな感じで携帯番号を交換していたのだった!
っていう夢を昨日は見たなぁ! 楽しかったなぁ!
……まあ、現実には合コンどころか遊びに誘ってくれる友人さえ最近はいないのだが。自分で傷口に塩塗ってんじゃねえよ。
というか、友人がいればこんな連休に煩悶してないはず。
さて、本気でブルーな気分になる自虐はこれくらいにして、真面目に解決の糸口を探さなくては。
空腹も充分由々しき問題だが、ガンプラも捨て置けない。
この先、万一俺に恋人ができたとして、それらの処理については非常に困る。「万一にもねえよバーカ」とか言った奴には、将来的に俺と同じ運命を辿る呪いをかけた。
ちくしょう、本格的に泥沼だ。どうして多忙が恋しい時にはすべきことが見つからず、安息を堪能したい時に限って膨大な試練が押し寄せるのか。
ガンプラは山積み、腹は減った、おまけに彼女はいない。彼女は余計なお世話だ。
どうしろってんだ!
まあ、とりあえずは……
俺はまた安い布団に深く身体を埋め、小さく呟いた。
「あと五分……」
読んで頂きありがとうございます!
学生の方などは特に、春休みをお楽しみの時期ですね。皆様は長期休暇は一体どのように過ごされていますか?
趣味に没頭するもよし、思い切って旅行をするもよし、選択肢はより取り見取りかと思います。
ですが、朝起きるのが辛くて布団から出られず、刻々と無為に一日が過ぎていく――そんな休日もありませんか?
日がな一日ぐうたら過ごすってのも悪くないですよね! そしたらもう、永遠に家から出ないでお気楽な隠居生活を満喫したくなりますよね!
目を覚ませ。もう新年度だ。




