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もし残りの時間が見えたのなら

作者: ざるそば
掲載日:2026/10/04

ピピピ、ピピピ、とアラームが鳴った。

最初の一秒を、俺は見逃した。

目を開けたとき、数字はすでに減り始めていた。

00年094日07時間16分42秒

四十一秒。

四十秒。

三十九秒。

視界の右上に、白い数字が浮かんでいた。

目だけを左右に動かしても、数字は同じ位置にあり続けた。

枕へ顔を押しつけても消えない。

瞼を閉じると、暗闇の中で三十八秒が三十七秒に変わった。

枕元では、スマートフォンのアラームが鳴り続けている。

ピピピ。

ピピピ。

停止ボタンを押すと、音は止まった。

数字は止まらなかった。

俺はしばらくベッドから動けなかった。

夢にしては、減り方が正確すぎた。

もう一度眠れば消えるかもしれないと思ったが、瞼を閉じている間にも秒は減っていく。

眠ることが、急に怖くなった。

洗面所へ行き、顔を洗った。

目薬を差した。

眼鏡を外し、目元を指でこすった。

何度か強く瞬きをした。

それでも数字は消えなかった。

スマートフォンのカメラを自分へ向ける。

画面の中に数字は映っていない。

鏡にもない。

俺にだけ見えていた。

00年094日07時間13分08秒

何の時間なのかは書かれていない。

それでも俺は、反射的に「残り時間」という言葉を思い浮かべた。

昨夜、祖母の葬儀から帰ってきたばかりだったからかもしれない。

祖母が亡くなる二週間前、電話がかかってきた。

駅前に新しくできた洋食屋へ行きたいと言っていた。

祖母は昔から、新しい店ができると一度は入ってみたがる人だった。

その週、俺は残業が続いていた。

休日くらい家で眠りたかった。

「また落ち着いたらね」

俺はそう答えた。

祖母は「そう」と言った。

残念そうな声ではなかった。

次があることを疑っていない人間の声だった。

俺も疑っていなかった。

今日は月曜日だった。

祖母が亡くなっても、月曜日は来た。

視界に奇妙な数字が現れても、始業時刻は変わらない。

俺は着替えながら、何度も数字を見た。

シャツのボタンを一つ留める間にも減った。

ネクタイを結び直している間にも減った。

昨日コンビニで買ったパンを食べている間にも減った。

時間を無駄にするな、と人は言う。

では、何をすれば無駄ではないのだろう。

本を読む。

運動する。

資格を取る。

旅へ出る。

家族と過ごす。

目標を持ち、昨日より少しだけ成長する。

そのあたりが、一般的には有意義な時間と呼ばれている。

反対に、昼まで眠る。

意味もなくスマートフォンを眺める。

目的もなく街を歩く。

ベッドへ寝転び、何をするでもなく休日を終える。

それらは浪費らしい。

けれど、仕事に疲れた人間が昼まで眠ることと、将来のために資格を勉強することのどちらが、その人間にとって必要なのかを、誰が決めるのだろう。

活動的に生きれば、有意義なのか。

毎日目標を持ち、昨日より成長し、将来のために何かを積み上げれば、正しく時間を使ったことになるのか。

何も身につかず、誰の役にも立たず、本人さえ後から思い出せない時間があったなら、その時間は人生から差し引いてよいのだろうか。

俺には分からなかった。

分からないまま考えている間にも、数字は減っていた。

          ◇

会社には体調不良と連絡し、病院へ行った。

眼科では異常がないと言われた。

別の病院を紹介され、いくつか検査を受けた。

脳にも目にも、数字が見える理由になりそうな異常は見つからなかった。

医師からは、強い疲労や精神的な負担が原因かもしれないと言われた。

祖母が亡くなったことを話すと、医師は少し納得したような顔をした。

「身近な方を亡くした後には、普段とは異なる感覚が出ることもあります。まずは十分に休んでください」

休んでいる間にも減るんです。

そう言いかけて、やめた。

薬を受け取り、病院を出た。

数字は朝と同じ速さで減っていた。

00年093日22時間51分19秒

もし、これが何かの期限なら。

もし、ゼロになったときに何かが起きるなら。

あと九十四日もない。

それでも俺は、翌日から会社へ戻った。

数字を信じて仕事を辞め、九十四日後も何も起きなかったらどうするのか。

貯金を使い切り、部屋を引き払い、周囲へ別れを告げた後で、普通に百日目の朝を迎えたら。

数字が自分の終わりまでの時間だという証拠はない。

そうではないという証拠もなかった。

だから俺は、終わりを疑いながら、いつもと同じ電車へ乗った。

          ◇

俺の給料は、生活できないほど低くはなかった。

ただ、このまま何十年も働けば安心できると思えるほど高くもなかった。

毎朝、片道五十分ほど電車に乗った。

会社では会議用の資料を作り、数字を集め、誰かが作った文章の語尾をそろえた。

自分がいなければ成り立たない仕事は、一つもなかった。

休めば誰かが代わる。

辞めれば新しい人が入る。

それを虚しいと考えることもできるし、気楽だと考えることもできた。

転職サイトには登録していた。

同年代の平均年収を見て落ち込み、未経験でも活躍できるという求人を開き、求める人物像の欄で閉じた。

主体性。

行動力。

周囲を巻き込む力。

どれも俺にはない気がした。

土曜日は昼前まで眠った。

洗濯をしようと思いながら、ベッドでスマートフォンを開いた。

短い動画を一本見る。

次が自動で始まる。

途中で転職のことを思い出し、求人情報を開く。

二十六歳で年収が倍になった人や、休日に勉強して資格を取った人の体験談を読む。

自分も何か始めなければと思い、今度は「二十代のうちにやるべきこと」を検索する。

動画を十本ほど保存する。

一本も最後までは見ない。

気づけば夕方だった。

日曜日は、月曜日のために空けておきたかった。

遠出すると疲れる。

勉強を始めても、明日から仕事だと思うと集中できない。

夕方になると、休日が終わることへの焦りだけが強くなった。

来週こそ何か始めよう。

毎週そう思った。

俺はこの生活を好きだったわけではない。

ただ、変えるだけの力を、平日のうちに使い切っていた。

それでもネットは言った。

二十代を無駄にするな。

休日の使い方で人生に差がつく。

今日が、これからの人生で一番若い日。

完全な間違いではなかった。

だから無視できなかった。

数字が見えるようになった朝、俺は思った。

本当にあと九十四日なら、次の土曜日を待つ理由はない。

          ◇

最初の十日間、俺は以前より幸福だった。

アラームを一時間早く設定した。

ピピピ、ピピピ。

眠かった。

反射的に止め、布団をかぶろうとした。

視界には数字がある。

00年090日03時間41分22秒

俺は起きた。

まだ人の少ない街を歩いた。

普段の通勤路から一本外れた場所に、小さなパン屋があった。

店内には、焼いた小麦とバターの匂いが残っていた。

クリームパンを一つ買い、公園のベンチで食べた。

温かかった。

それだけだった。

年収は上がらない。

能力も身につかない。

履歴書にも書けない。

それでも、俺はもう一つ買えばよかったと思った。

こんな時間が毎朝、自分の知らないところにあった。

数字がなければ、俺は知らなかった。

          ◇

積んだままだった本を読んだ。

三年前に買い、五十ページほどで止まっていた小説だった。

最初は義務として開いた。

しかし、途中から面白くなった。

登場人物の選択が気になり、数字を見ることを忘れた。

最後のページを閉じたとき、人生が変わった感覚はなかった。

少し寂しかった。

もうこの物語の続きを読めないことが寂しかった。

本棚へ戻すと、それまで背景だった本が、初めて自分のものになったように見えた。

数字が減ったことを確かめた。

それでも、損をしたとは思わなかった。

          ◇

会社で上司から、それほど急ぎではない資料の修正を頼まれた。

以前なら「分かりました」と答えていた。

断って印象を悪くすることに比べれば、一時間程度の残業は小さかった。

ただ今は、その一時間が見えた。

00年086日09時間08分36秒

「明日の午前でもいいですか」

思ったより小さな声が出た。

上司が顔を上げた。

「何かあるの?」

予定はなかった。

ただ、帰りたかった。

「今日は少し早く帰りたくて」

理由として弱いと思った。

上司は数秒考え、

「急ぎじゃないし、明日でいいよ」

と答えた。

それだけだった。

俺を無責任な人間だと責めることも、評価を下げると脅すこともなかった。

その日、少し高い弁当を買った。

家でゆっくり食べた。

いつもより一時間早いだけなのに、夜が長かった。

自分を縛っていたものの一部が、他人の命令ではなく、自分の恐れだったと知った。

          ◇

母に電話した。

久しぶりだった。

母は俺を一人で育てた。

父親は、俺が物心つくより前に家を出た。

母は今でもパートで働いていた。

大切なことを話さなければならない気がしていた。

けれど母は、冷蔵庫の奥から賞味期限の切れたヨーグルトが三つ出てきた話を始めた。

「三つとも同じ味なの?」

「一つだけイチゴ。買ったの忘れてたのよ」

「捨てればいいじゃん」

「一日だけよ。未開封なのにもったいないでしょ」

母は続けて、洗濯物へ小さなティッシュが混ざり、黒い服が全部白くなった話をした。

俺は普通に笑った。

「何がそんなに面白いの」

「昔もやってなかった?」

「あれは、あんたがポケットに入れたままだったからでしょ」

「覚えてないよ」

「私は覚えてる」

母も笑った。

聞き慣れた声だった。

数字を見るようになってから、以前より生きている気がした。

母は最後に、

「あんた、今日は機嫌いいね」

と言った。

何かの終わりまでの時間かもしれない数字を見て、以前より機嫌がよくなった。

その矛盾が、少しおかしかった。

          ◇

大学時代からの友人、森田にも連絡した。

二人で、学生時代によく行った定食屋へ行った。

料理は値上がりしていた。

森田は唐揚げが小さくなったと言い、俺は昔の大きさを覚えていなかった。

仕事の愚痴を言った。

森田の上司は、会議になると英単語を使いたがるらしい。

俺の上司は、資料の文章を変えるたび、最後には最初の表現へ戻していた。

意味のある話ではなかった。

それでも何度か笑った。

店を出たとき、会ってよかったと思った。

          ◇

佐伯美月を写真展へ誘った。

同じ会社の別部署に勤めている、一つ年下の女性だった。

共同案件で何度か話したことがある。

美月が昼休みに写真展のチラシを見ていたことがあった。

「写真、好きなんですか」

俺が聞くと、美月は、

「自分では撮らないですけど、見るのは好きです」

と答えた。

そのときは、それだけだった。

数日後、その展示が間もなく終わると知った。

数字が見える前の俺なら、次に自然な機会が来るのを待っていただろう。

俺はメッセージを書いた。

『前に見てた写真展、今度の日曜までみたいですね』

送信してから、それが誘いになっていないことへ気づいた。

美月から、

『そうなんですよ。まだ行けてなくて』

と返ってきた。

数字を見た。

00年080日18時間02分14秒

『もし土曜空いてたら、一緒に行きませんか』

返事が来るまでの七分間、数字を何度も見た。

『いいですよ』

その一文を、何度も読み返した。

          ◇

展示を見た。

古い団地や、無人の遊園地や、閉店前の商店街を撮った写真が並んでいた。

展示の後、近くの喫茶店へ入った。

写真の話は十分ほどで終わった。

その後は、会場の椅子が少なかったことや、美月が朝食を食べ損ねたことや、俺が駅の出口を間違えたことを話した。

「高瀬さん、さっき自信満々に逆へ行きましたよね」

「地図が分かりにくかったんですよ」

「私は合ってると思いましたけど」

「じゃあ言ってくださいよ」

「本当に正しいか分からなかったので」

美月は笑った。

俺も笑った。

その間、数字を見なかった。

帰りの電車で気づいた。

数時間分、確かに減っていた。

でも、失ったとは感じなかった。

使ったと思った。

日曜の夜になっても、いつもの憂鬱は薄かった。

朝に食べたパンの味。

読み終えた本の最後の場面。

母の笑った声。

美月が喫茶店でスプーンを落とした音。

以前の休日にも、時間は同じだけあった。

ただ、どこへ消えたのか分からなかった。

今は違った。

一日を使ったという感覚があった。

視界の数字は減っている。

それなのに、生きられる時間は以前より増えたように思えた。

          ◇

俺は、その幸福を再現しようとした。

翌朝も、一時間早くアラームを設定した。

ピピピ、ピピピ。

身体が重かった。

前夜は寝るのが遅かった。

もう少し眠りたかった。

それでも数字を見ると、布団へ戻れなかった。

パン屋へ行き、前と同じクリームパンを買った。

少し冷めていた。

店を出ると雨が降っていた。

前ほどおいしくなかった。

今日は体調が悪いだけだと思った。

次の日も行った。

その次の日も行った。

朝のパン屋は、やがて見つけた幸福ではなく、やらなければならない習慣になった。

一日行かなければ、その朝を浪費したように感じた。

          ◇

次に読む本を選んだ。

数字がゼロになるまでに、何冊読めるか計算した。

一冊に六時間。

一日二時間読めば、三十冊ほど。

世の中には、読みたい本が何千冊もあった。

三十冊しか読めないなら、選択を間違えるわけにはいかない。

名作ランキングを調べた。

批評を読んだ。

レビューを比べた。

候補を十冊に絞り、また二十冊へ増やした。

気づけば二時間が過ぎていた。

一ページも読んでいなかった。

本を無駄なく読むために、読書へ使えた二時間を失った。

          ◇

母への電話も予定へ入れるようになった。

火曜と金曜の夜、二十分。

家族を大切にしなければ、きっと後悔する。

三回目の電話で、母は野菜室から、いつ買ったか分からないショウガが出てきた話をした。

「悪くなってるか分からないのよ。ショウガって最初から少し変な匂いするでしょ」

「知らないよ」

「使えると思う?」

「捨てればいいじゃん」

「もったいないのよ」

数字を見た。

話し始めてから十二分が経っていた。

「母さん、その話、俺に聞いてどうするの」

思ったより強い声が出た。

母は黙った。

「どうするって、別に。ショウガが出てきたから」

「それを聞いて、俺が何て答えればいいの」

「捨てたらって言ったじゃない」

「じゃあ捨てればいいじゃん。何でまだ話してるの」

数秒、何も聞こえなかった。

「ごめん。忙しかった?」

忙しくはなかった。

時間が減っているだけだった。

「そうじゃないけど」

「じゃあ、今日は切るね」

通話が終わった。

十二分を守ろうとして、母を傷つけた。

その後一時間、謝罪のメッセージを書いては消した。

母と話し続けていればよかった時間より、長い時間を使った。

          ◇

会社でも、我慢ができなくなった。

上司から会議資料の見出しを修正するよう頼まれた。

「これ、直す必要ありますか」

上司が顔を上げた。

「先方に出すものだから、表現は統一した方がいいだろ」

「内容は変わらないですよね」

「そうだけど」

数字が減っていた。

00年073日06時間18分45秒

「これに俺の一時間を使う意味が分かりません」

近くの同僚が、こちらを見た。

上司は数秒黙った。

「仕事だから、としか言えないけど」

「俺が一時間残れば、帰る時間も遅くなります。食事も睡眠もずれます。それでも必要ですか」

自分の言葉が正しいことは分かっていた。

正しいから、止められなかった。

結局、修正作業は別の同僚が引き受けた。

自分の時間を守るとは、誰かの時間へ仕事を移すことなのかもしれなかった。

翌日から、俺に頼む前に、相手が少し身構えるようになった。

美月とも会社で話す機会が減った。

数字が見える前には耐えられたものへ、次々と耐えられなくなった。

行動力を得た。

代わりに、何も決めず周囲へ合わせることで守られていた関係を失い始めた。

          ◇

美月を、もう一度誘った。

『土曜、もし予定がなければ映画どうですか』

返事は一時間後に来た。

『ごめんなさい。今週は友達と予定があって』

普通の断りだった。

美月は、俺が見ている数字を知らない。

『了解です。また機会があれば』

そう返した。

またとはいつなのだろうと思った。

その夜、美月へ長いメッセージを書いた。

好意を持っていること。

少し前から、自分にしか見えない数字があること。

何の数字か分からないこと。

もしかすると、もう時間があまりないこと。

『だから、できれば残りの時間を一緒に過ごしてほしいです』

そこまで書き、読み返した。

俺の時間が短いかもしれないことと、美月が自分の時間を俺へ渡すことには関係がない。

こんなことを言われて、自由に断れる人がどれだけいるのだろう。

全文を消した。

送らなかった自分が誠実なのか、また逃げただけなのかは分からなかった。

分からないまま、一時間が減った。

          ◇

睡眠時間を削った。

八時間眠れば、数字も八時間減る。

もちろん、起きていても同じだけ減る。

それでも、意識のないまま失うことに耐えられなかった。

九十分後。

三時間後。

四時間半後。

六時間後。

複数のアラームを設定した。

ピピピ、ピピピ。

起きる。

数字を見る。

また眠る。

ピピピ、ピピピ。

起きる。

数字が減っている。

やがて、アラームが鳴る前に目を覚ますようになった。

身体はずっと重かった。

本の内容が頭に入らない。

仕事では簡単な数字を間違えた。

それでも眠れなかった。

ある朝、ほとんど眠れないままアラームが鳴った。

ピピピ、ピピピ。

身体が動かなかった。

音だけが部屋へ響いた。

俺はスマートフォンをつかみ、壁へ投げた。

鈍い音がして、アラームが止まった。

「分かってるよ」

誰もいない部屋で声が出た。

「減ってるのは分かってるから」

数字は何も答えなかった。

          ◇

森田の部屋へ行った。

以前の食事が楽しかったから、もう一度会うべきだと思った。

正確には、森田との関係へ使う時間を確保しておくべきだと思った。

コンビニで酒と食べ物を買った。

最初の三十分は、仕事や学生時代の話をした。

森田が短い動画を見せた。

猫が自分より小さな箱へ入ろうとして、腹のところでつかえる動画だった。

俺たちは笑った。

関連動画が始まった。

次も見た。

そのうち森田は自分のスマートフォンへ戻り、俺も別のSNSを開いた。

同じ部屋で、別々の画面を見た。

ときどき、どちらかが面白いものを見つけ、相手へ見せた。

そのたびに少し笑い、また自分の画面へ戻った。

森田の部屋では、何か話し続ける必要がなかった。

沈黙を気まずいと思わなくてよいことを、以前の俺は居心地がよいと感じていた。

今は、沈黙の間にも数字が減っていた。

00年061日11時間29分08秒

二時間近く過ぎている。

俺は今日、何のためにここへ来たのだろう。

「俺たち、何してるんだろうな」

森田はスマートフォンを見たまま答えた。

「何って?」

「二時間くらいスマホ見てる」

「そうだな」

それだけだった。

森田は、また指を動かした。

「せっかく会ったのに」

「うん」

「何とも思わないの?」

森田が顔を上げた。

「何を?」

「わざわざ会ったのに、二人でスマホ見てるだけじゃん」

「最初は話してただろ」

「三十分くらいだろ。その後、ずっとこれじゃん」

「別によくない?」

森田が画面へ視線を戻した。

その動作に、急に腹が立った。

俺は手を伸ばし、森田のスマートフォンを伏せた。

森田の指が、俺の手の下で止まった。

「何だよ」

「聞いてる?」

「聞いてるよ」

「だったら一回置けよ」

「お前も持ってるじゃん」

自分の右手を見る。

確かにスマートフォンを握っていた。

「そういう話じゃない」

「そういう話だろ」

森田は俺の手からスマートフォンを抜き取った。

「二人で勝手に見てたんじゃん。誰かに強制されたの?」

「お前が最初に見せたんだろ」

「あの一本だけだよ。その後は自分で見てたじゃん」

「友達が隣でスマホ見てるのに、一人だけ別のことできるかよ」

「できるだろ。本でも読めばいいじゃん」

「できるわけないだろ!」

思った以上の声が出た。

森田も声を強めた。

「なんで俺がお前の過ごし方まで決めなきゃいけないんだよ!」

「時間がないんだよ!」

口から出た。

森田の表情が変わった。

「何?」

「こんなことしてる時間、俺にはないんだよ」

「じゃあ帰ればいいだろ」

森田が立ち上がった。

「お前が来たいって言ったんじゃん。俺が無理やり呼んだのか?」

「久しぶりに会ったのに、やってることがこれだから言ってるんだよ!」

「何すれば正解だったんだよ!」

森田はスマートフォンをテーブルへ叩くように置いた。

「人生について語ればよかった? 昔の思い出を話して、最後に友情って素晴らしいなって確認すればよかったのか?」

「そういう言い方するなよ」

「じゃあ、どういう言い方ならいいんだよ!」

数字が減っていた。

森田と争っている間にも減っていた。

無駄にした二時間を責めるために、さらに時間を使っている。

そう分かっているのに、止められなかった。

「お前はいいよな」

「何が」

「まだいくらでも時間があると思ってるから、こんな使い方ができるんだろ」

森田が眉を寄せた。

「何だよ、それ」

「毎週会社に行って、土日はスマホ見て終わって、また月曜になって。それを何十年も続けるつもりなのかよ」

「今はお前の話だろ。なんで俺の人生まで否定されるんだよ」

「否定してない」

「してるだろ!」

森田がテーブルを蹴った。

空き缶が床へ落ちた。

「お前は今日、俺といて二時間損したんだろ。じゃあ帰れよ。これ以上損しなくて済むだろ!」

俺も立ち上がった。

森田の肩へ手を伸ばしかけた。

途中で止まった。

殴るつもりはなかった。

ただ、黙らせたかった。

自分の言っていることを認めてほしかった。

俺の時間は貴重だったと、森田の口から言わせたかった。

森田は、宙で止まった俺の手を見た。

怒りより先に、失望したような顔をした。

「怖いよ、今のお前」

俺は手を下ろした。

「何があったか知らないけど、俺のせいにするなよ」

「森田が最初に動画を見せたから」

まだ同じことを言った。

自分でも、子どものように聞こえた。

森田は乾いた声で笑った。

「じゃあ、お前の時間の責任まで、俺が取るの?」

何も言えなかった。

俺がここへ来た。

俺がスマートフォンを開いた。

俺が見続けた。

それでも、全部自分で選んだと認めることに耐えられなかった。

「一人で無駄にするならまだいいんだよ」

ようやく出た言葉が、それだった。

「人を巻き込むなよ」

森田はしばらく俺を見ていた。

やがて、低い声で答えた。

「俺は、お前となら無駄にしてもいいと思ってた」

「そんなの、何も残らないだろ」

「残るかどうかなんて知らないよ」

森田は玄関へ向かった。

ここは森田の部屋だった。

帰るべきなのは俺だった。

「お前が無駄だったと思うなら、お前にとっては無駄だったんだろ」

靴を履きながら、森田はこちらを見なかった。

「でも、俺の二時間まで無駄だったことにするなよ」

森田は扉を開けた。

「鍵、閉めて帰って」

扉が閉まった。

住人のいなくなった部屋で、俺だけが立っていた。

数字は減り続けていた。

守りたかった二時間は、もう戻らない。

それを責めるために使った三十分も、戻らなかった。

          ◇

人生は一つしか歩めない。

当たり前のことだった。

一つしかないから大切にしろ、と人は言う。

けれど、一つしかないということは、何かを選ぶたび、それ以外の人生を捨てなければならないということでもある。

仕事を続ければ、辞めた俺にはなれない。

旅へ出れば、その日に母と過ごした俺はいない。

本を読めば、その時間に美月と会った俺はいない。

美月へ気持ちを伝えれば、伝えずに同僚でいられた未来には戻れない。

どちらが正しかったかは、選んだ後にも分からない。

選ばなかった人生を生きて、比べることはできないからだ。

俺は、一日の予定を作った。

睡眠、六時間。

食事と入浴、二時間。

読書、二時間。

運動、一時間。

転職について考える時間、二時間。

母との時間、一時間。

美月との関係を考える時間、一時間。

森田への謝罪を書く時間、一時間。

行きたい場所を調べる時間、二時間。

何もしない時間も必要だった。

合計すると、一日では足りなかった。

何を削っても後悔する気がした。

線を引き、書き直した。

どうしても収まらない。

紙を丸めて捨てた。

新しい紙へ書いた。

また足りなかった。

「どうやっても足りないじゃないか」

声に出した。

机の上の紙を払い落とした。

本も、ペンも、画面の割れたスマートフォンも床へ落ちた。

数字が短いから足りないのではなかった。

人生が一つしかないから、最初から足りなかった。

          ◇

数日間、ほとんど何もしなかった。

カーテンを閉めたまま、ベッドへ横になった。

以前ならスマートフォンを見ていた。

短い動画を見て、他人の生活を眺め、何もしていない自分を責めながら、ときどき笑っていた。

今は動画も見なかった。

数字だけを見た。

一秒減る。

また一秒減る。

何かしなければならない。

母へ謝る。

森田へ連絡する。

美月へ気持ちを伝える。

本を読む。

食事をする。

眠る。

全部必要だった。

全部はできなかった。

一つを選べば、ほかを選ばなかった責任が生まれる。

だから何も選べなかった。

数字を見ながら、六時間が過ぎた。

何もしなかった六時間に耐えられず、涙が出た。

泣いている間にも減っていると気づき、呼吸が速くなった。

時間を無駄にしていた頃の方が、時間の中にいた。

数字が見えなかった頃も、同じ速度で減っていた。

ただ、知らなかった。

知らないから眠れた。

知らないから笑えた。

知らないから、結末の分からない本を開けた。

結ばれる保証のない相手を好きでいられた。

明日も同じ日が来るつもりで、今日を終えられた。

人間が自分に残された時間を知らないのは、不幸なのだろうか。

それとも、知らないから未来を信じられることが、幸福なのだろうか。

数字が見えたから、俺は行動できた。

行動したから、得たものがあった。

行動したから、失ったものもあった。

数字が見えなければ、何も変えられなかったかもしれない。

数字が見えなければ、変えなくてよかったものまで壊さずに済んだかもしれない。

どちらの人生が幸福だったのかは比べられない。

人生は一つしか歩めないからだ。

          ◇

母から電話が来た。

一度目は出なかった。

二度目も出なかった。

三度目で出た。

「どうしたの」

母は、俺の声を聞いて少し黙った。

「別に。最近、連絡なかったから」

「この前はごめん」

母も少し黙った。

「ショウガの話?」

「うん」

「あれ、結局使ったよ」

「使ったんだ」

「炒めたら、普通に食べられた」

何が普通だったのかは、もう分からなかった。

それでも、母の声を聞いて少し息がしやすくなった。

「今度来たら、カレーコロッケ買っておく」

数字を見る。

まだ数週間残っていた。

「うん」

と答えた。

すべてを今へ詰め込まなくてもよい気がした。

そう思っただけで、翌日から元気になったわけではない。

ただ、次の週末に実家へ帰った。

母とスーパーへ行った。

コロッケの前で母が立ち止まり、カレー味と牛肉味を持ち上げた。

「どっちがいい?」

「どっちでもいい」

いつもの答えが出かけた。

人生の重要な選択ではない。

どちらを選んでも、翌日には味を忘れているかもしれない。

「カレーがいい」

母はカレー味をかごへ入れた。

それだけだった。

          ◇

数字がゼロになるまで、一週間ほどになった。

森田へメッセージを送った。

『この前はごめん。もし会ってもいいと思ったら、連絡ください』

返事は翌日に来た。

『明日なら仕事終わり空いてる』

二人で駅前のファミリーレストランへ入った。

森田は先に来ていた。

俺は向かいへ座った。

「この前は、ごめん」

森田は水を一口飲んだ。

「うん」

許すとも、気にしていないとも言わなかった。

「森田が悪いわけじゃなかった」

「それは知ってる」

「俺が勝手にスマホを見て、それで勝手に時間を無駄にしたと思って」

言いかけて止まった。

また同じ言葉を使っていた。

「違うな」

俺は言い直した。

「俺にとって、あのときは無駄にしたように感じた。それで、森田にも同じように思わせようとした」

森田は黙って聞いていた。

俺は、数字のことを話した。

何かの残り時間だとは決めつけなかった。

視界から消えないこと。

一秒ずつ減っていること。

何を示しているのか分からないこと。

あと一週間ほどでゼロになること。

森田は途中で口を挟まなかった。

「病院は?」

「行った。原因は分からないって」

「ゼロになったら、どうなるかも?」

「分からない」

森田は背もたれへ身体を預けた。

「それで、この前あんなだったのか」

「怖かった」

俺は答えた。

「時間を無駄にするのが怖くて、森田へ怒った。自分でスマホを見てたのに」

店員が注文を取りに来た。

俺はコーヒーを頼み、森田はメロンソーダを頼んだ。

こんな話をしているときにも、森田はメロンソーダを飲むらしい。

少し笑った。

「何」

「いや。メロンソーダなんだと思って」

「駄目なの?」

「駄目じゃない」

注文が届くまで、二人とも話さなかった。

「俺、お前が怒ったことより」

森田が言った。

「俺といた時間を、なかった方がよかったみたいに言われたのが嫌だった」

「ごめん」

「俺もスマホ見てたし、大した二時間じゃなかったよ」

森田はストローの袋を細く折った。

「でも、大した時間じゃないから、なくても同じってわけじゃないだろ」

俺は頷いた。

「数字のことは、まだ信じられない」

「うん」

「でも、お前が怖いのは分かった」

それで十分だった。

完全には分かってもらえない。

完全に元どおりになるわけでもない。

それでも二人は店へ残った。

メロンソーダの氷が溶けるまで、数字とは関係のない話も少しした。

別れ際、森田が言った。

「また動画送ってもいい?」

俺は少し考えた。

「面白いやつなら」

「そこは、何でもって言えよ」

「時間ないから厳選して」

言ってから、不安になった。

また同じことを言ったかもしれない。

森田は一度だけ笑った。

「分かった。選んどく」

          ◇

森田へ謝った翌日、美月へメッセージを書いた。

以前、美月が小さな映画館を好きだと話していた。

翌週の土曜日に、彼女が気になっていた作品の再上映がある。

問題は、表示された数字が、その二日前にゼロになることだった。

自分には行けないかもしれない。

美月が予定を空けても、映画館へ現れないかもしれない。

それでも、数字が何を意味しているのかは分からない。

ゼロを過ぎても、普通に映画館へ行ける可能性はあった。

『前に話してた映画、来週の土曜に再上映するみたいです。もし空いていたら、一緒に行きませんか』

送信した。

数字は減っていた。

00年006日08時間41分17秒

美月からの返事は、二十分後に来た。

『行きたいです。土曜なら空いてます』

二人は午後一時、映画館の前で会うことにした。

カレンダーへ予定を入力した。

『13:00 佐伯さん 映画』

予定日は、数字が示す終わりより二日後だった。

俺は予定を消さなかった。

未来を知らない人間は、こうして約束を作る。

来週も自分がいるつもりで、会う場所と時間を決める。

以前の俺なら、それを能天気だと思ったかもしれない。

今は、その能天気さに少しだけ加わってみたかった。

美月から、

『楽しみにしてます』

と届いた。

『俺もです』

と返した。

          ◇

残り一分になった。

俺はベッドの縁に座り、視界の数字を見ていた。

数字から計算した時刻に、スマートフォンのアラームを設定してある。

正確に合わせたつもりだった。

流しには、朝に使ったコップが残っていた。

洗濯機の中には、干していない服が入ったままだった。

机には、途中まで読んだ本が伏せてある。

今日のうちに片づけるつもりだった。

スマートフォンのカレンダーには、来週の予定が表示されていた。

土曜日、午後一時。

佐伯さんと映画。

予定日の前日には、通知が鳴るよう設定してある。

その通知を、自分が見るのかは分からなかった。

それでも予定は消さなかった。

スマートフォンが震えた。

森田からだった。

『厳選した』

短い文章の下に、動画のリンクが貼られている。

00年000日00時間00分47秒

母の名前があった。

美月との画面もあった。

森田へ、あの日のファミリーレストランで言えなかったことを、もう一度送ることもできた。

けれど、四十七秒で何をすればいいのかは分からなかった。

思えば、九十四日あったときにも分かっていなかった。

俺は森田のリンクを開いた。

猫が、自分より小さな箱へ入ろうとしていた。

前足を入れ、頭を押し込み、腹のところで止まる。

00年000日00時間00分31秒

猫は一度、箱から出た。

向きを変え、もう一度頭を入れる。

意味のない動画だった。

俺は続きを見た。

00年000日00時間00分14秒

森田への返信欄を開く。

『まだ見てる』

送信すると、すぐに既読がついた。

返信は来なかった。

00年000日00時間00分07秒

ピピピ、ピピピ、とアラームが鳴った。

数字はまだ五秒残っていた。

最後まで、少しずれていた。

四秒。

猫は、もう一度箱へ頭を入れた。

三秒。

今度は肩まで入った。

二秒。

画面の中で、尻尾だけが揺れていた。

一秒。

00年000日00時間00分00秒

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