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異世界 イルフェスト

神の声は聞こえますが、祈る気はありません ――神敵認定されたので、どちらが神敵か本人に聞いてみました

作者: tomato.nit
掲載日:2026/06/23


「神に誓って、もう二度としません!」


 夜明け前の路地裏に、情けない声が転がった。


 濡れた石畳。割れた瓶。酒場の裏口から漏れる灯り。


 男は鼻血を垂らして膝をついていた。


 その前に、イレイナ・ハングレイスが立っている。


 黒い上着。傷だらけの革靴。腰には短い鉄棒。


「言ったな」


「は、はい?」


「今、神に誓うって言ったよな」


「言いました! 言いましたとも!」


 イレイナは、路地の上を見上げた。


「おい。聞こえてんだろ。神」


 男には、何も聞こえない。


『聞こえている』


「こいつ、誓ったか」


『届いていない』


「だそうだ」


 イレイナは男を見下ろした。


「てめぇ、誓ってねぇじゃねぇか」


「いや、今! 確かに!」


「神が聞いてねぇって言ってんだよ」


「そ、そんな馬鹿な。神様がそんなことを」


「言うんだよ。あいつ、意外と細かいぞ」


『お前ほどではない』


「うるせぇ」


 イレイナは男の襟をつかんだ。


「盗んだ金は」


「盗んでません!」


「おい」


『左の靴底』


 イレイナは男の足を踏んだ。


 鈍い音。


 悲鳴。


 靴底の縫い目が裂け、銀貨が数枚、石畳に転がった。


「返せ。倍でな」


「倍!?」


「神に誓う言葉を安売りした分だ」


「返します! 返しますから!」


「二度とあの店に近づくな」


「はい!」


「誓え」


「神に誓います!」


「おい」


『これは届いた』


「よし。次破ったら、神じゃなくてあたしが裁く」


「今もそうでは!?」


「まだ軽い」


 男は転がるように逃げかけた。


『待て』


 イレイナは片目を細める。


「あ?」


『その男、まだ何か知っている』


「おい。待て」


 男が、路地の出口で固まった。


「最近、この辺で神の声が聞こえるんだって?」


 男の顔色が変わった。


「広場です。アーネスト様が、神託を降ろすんです」


「アーネスト?」


「アーネスト・ヴァルホート様。神の御口って呼ばれてるお方で。白い聖櫃から、本当に神の声が響くんです」


「へぇ」


「逆らった者は神敵にされます。家も土地も財産も没収です。逃げた奴は、神罰で消えたって……」


 イレイナは空を見た。


「おい。最近、そんなに喋ってんのか」


『喋っていない』


「だよな」


『神の御口などと名乗る者も知らない』


「だよなぁ」


 イレイナは笑った。


 男は、それを見て一歩下がった。


『近づくな』


「なんで」


『兵を持っている。神官も抱き込んでいる』


「見てたのか」


『見ていた』


「聞いてたのか」


『聞いていた』


「で?」


 返事はなかった。


 路地の奥で、朝の鐘が鳴る。


 イレイナは鼻で笑った。


「だったら、黙って道を教えろ」


 広場には、人が集められていた。


 中央に白木の箱がある。


 金の縁取り。神紋の彫刻。香炉から立ち上る白い煙。


 人々は、その箱の前で膝をついていた。


 白と金の法衣をまとった男が、片手を上げる。


 長い銀髪。


 穏やかな笑み。


 指には、大粒の宝石。


 アーネスト・ヴァルホート。


 広場のざわめきが消えた。


「神は見ておられる」


 声はよく通った。


「信心なき者。誓いを破る者。定めに逆らう者。そのすべてを、神は御存じである」


 兵に引きずられて、老人が前に出された。


 頬が腫れている。


 腕は後ろで縛られていた。


 アーネストは、老人を見下ろす。


「この者は、神前税を拒んだ」


「違う……!」


 老人が、かすれた声を絞った。


「金は出した。麦も出した。羊も出した。だが、あれは種だ」


 広場の端で、誰かが息を呑んだ。


「あれまで出せば、来年、畑に撒くものがなくなる」


 アーネストは、ゆっくりと首を振った。


「来年の実りを望むなら、なおさら神に捧げなさい」


 老人の喉が、小さく鳴った。


「信じぬ者に、実りなど訪れません」


 誰も口を開かない。


 槍を持った兵が並んでいる。


 神官たちは目を伏せている。


 アーネストが、白木の箱へ手をかざした。


「この者は、神敵でありましょうか」


 白木の箱が、低く震えた。


『神敵である』


 広場に呻きが広がる。


 老人の顔から血の気が引いた。


 イレイナは、人垣の中で動かなかった。


 さっきまで指先で弄んでいた銀貨が、いつの間にか音を立てなくなっていた。


「おい。あの爺さん、何を惜しんだ」


『来年の飯だ』


「神より腹を重んじたか」


『違う』


「だよな」


 銀貨が、イレイナの掌の中で少し曲がった。


 アーネストは、ゆっくり頷いた。


「示された。この者の土地、家畜、穀物は、すべて神殿へ献じられる」


「待ってくれ」


 老人が地面に額をつけた。


「せめて、井戸は。水まで封じられたら、村の者が」


「神敵の村に、清き水は流せません」


 アーネストは穏やかに言った。


「井戸には封を施しなさい」


 兵が動いた。


 老人が顔を上げる。


「子らが死ぬ」


「ならば、なおさら祈りなさい」


 イレイナの掌の中で、銀貨が折れた。


 乾いた音はしなかった。


 ただ、隣にいた男が、半歩退いた。


「おい」


『違う』


「まだ何も聞いてねぇよ」


『違う』


「……そうかよ」


 イレイナは、折れた銀貨を懐にしまった。


 鉄棒は抜かない。


 右手だけが、ぶらりと下がる。


 若い男が人混みから飛び出しかけた。


 女がその腕にすがる。


 兵が槍を向ける。


 アーネストの口元が、わずかに歪んだ。


「今の騒ぎも、聞かれたでしょう」


 白木の箱が、また震える。


『その者も神敵である』


 若い男が取り押さえられた。


 広場の端で、誰かが泣いた。


 イレイナは歩き出した。


『イレイナ』


 返事はなかった。


『イレイナ』


 彼女は人垣を割った。


 肩が触れた男が、声も出さずに道を空ける。


 イレイナは老人の前に立った。


 兵が振り返る。


「なんだ、お前は」


「通りすがりだよ」


 声は低かった。


 イレイナは白木の箱を見た。


「少し聞きたいんだけどよ」


 アーネストが、柔らかく微笑んだ。


「娘よ。儀式の場を乱してはなりません」


「儀式?」


「ええ。今、この者たちは神敵と示されました」


「そうかい」


 イレイナは首を鳴らした。


「神の声、聞こえるんだって?」


 アーネストの眉が、ほんの少し動く。


「私は神の御口。御心を人々へ伝える者です」


「へぇ」


 イレイナは笑った。


「じゃあ今、なんて言ってるか分かるか?」


「罪人に悔い改めを求めておられる」


「違うな」


 広場の空気が冷えた。


 アーネストの目から笑みが消える。


「何を」


「今、神はこう言ってる」


 イレイナは空を見上げた。


「その箱から出てる声は、私の声ではない、ってな」


 ざわめきが走った。


 神官の一人が顔を上げる。


 アーネストは、ゆっくりと白木の箱へ向き直った。


「神よ」


 声が少し低い。


「この女を、いかに裁くべきでしょう」


 白木の箱が震える。


『その女は神敵である』


 兵たちが槍を向けた。


 人々が後ずさる。


 イレイナは肩をすくめた。


「今度はあたしか」


 アーネストが片手を掲げる。


「捕らえよ。神敵には神罰が下る」


「神罰ねぇ」


 イレイナは、白木の箱へ向かって一歩踏み出した。


「じゃあ、その箱の中身でも見せてもらうか」


 アーネストの顔色が変わる。


「触れるな!」


 兵が動いた。


 その瞬間、箱の下で火花が散った。


『伏せろ』


 イレイナは近くの祭壇にかかっていた白布をつかんだ。


 頭から被る。


 老人の体を蹴るように押し倒す。


 轟音。


 白い煙と黒い煙が混ざり、破片が飛んだ。


 祭壇が砕ける。


 神紋の入った柱が倒れる。


 悲鳴が広場を裂いた。


 老人は煙の端に転がっていた。


 若い男が、縄に縛られたまま身を起こそうとしている。


 だが、白布の女は見えなかった。


「見よ!」


 アーネストの声が響いた。


「神罰である!」


 兵たちが膝をついた。


 神官たちも、遅れて頭を垂れる。


「神は、我が声に応えられた! 神敵は、神の火によって討たれたのだ!」


 誰も、言い返さなかった。


 煙は濃い。


 白木の箱は割れている。


 白布の女は出てこない。


 老人が、石畳に額を落とした。


「神よ……」


 そのまま、動かなかった。


 若い男の肩から力が抜ける。


 女が、声を殺して泣いた。


 アーネストは笑った。


「これが、神の御心である」


 その時。


 黒煙の中から、足音がした。


 一歩。


 灰が落ちる。


 もう一歩。


 焼けた木片が、石畳の上で砕ける。


 煙の奥から、イレイナが姿を現した。


 全身に灰を被っていた。


 頭からかぶった白布は黒く煤け、髪も肩も焼けた粉にまみれている。


 一歩進むたびに、灰がぼろぼろと落ちた。


 灰とも白ともつかない布の奥から、低い声が響く。


「てめぇ」


 広場が静まった。


「神の声が聞こえるんだって?」


 アーネストの唇が震える。


「も、もちろんだ。私は神の御口である」


「おもしれェ」


 イレイナは笑った。


「じゃあ、神の野郎がなんて言ってるか。今聞かせてくれよ」


 アーネストは黙った。


 その背後で、兵がこちらを見る。


 神官がこちらを見る。


 領民がこちらを見る。


 アーネストは声を張った。


「神は、こう仰せだ。神敵は討てと!」


「そうかい」


 イレイナの足元に、爆発で割れた白木の箱が転がっていた。


 彼女はその残骸に足を乗せる。


「神敵を討て。ね」


 乾いた音が響いた。


 白木の板が割れる。


 中から、煤けた金属の管が転がった。


 管の先は、台座の下へ伸びている。


 神官の一人が、そちらを見て顔を伏せた。


 アーネストの顔が青ざめる。


 イレイナは、灰まみれの布の奥から言った。


「じゃあ、もう一個聞かせてくれよ」


 一歩。


 灰が落ちる。


 また一歩。


 白が戻る。


「その神敵ってのは、誰のことだ?」


「聞くまでもあるまい!」


 アーネストは叫んだ。


「貴様自身のことだ!」


「っく」


 イレイナの肩が揺れた。


「っくっくっく」


 笑っていた。


「そうかい、そうかい」


 イレイナは空を睨んだ。


「だそうだが、どうなんだ?」


 壊れた箱の奥で、伝声管が小さく震えた。


 イレイナは、腹の底から吠えた。


「おい!」


 広場に、声が落ちた。


『神敵は貴様だ。アーネスト・ヴァルホート』


 誰も動かなかった。


 兵も。


 神官も。


 領民も。


 アーネストでさえ。


 割れた白木の箱が、かすかに震えている。


『私の名で、人を縛ったな』


 アーネストは後ずさった。


「な……なんだ、この声は。どこから聞こえてくる」


「あん?」


 イレイナは首を傾けた。


 肩に残っていた灰が、一筋落ちる。


 白布が現れた。


 祭壇にかけられていた布は、ヴェールのように彼女の顔を隠している。


「てめぇ、散々聞いてたんじゃねぇのかよ」


 イレイナは笑った。


「てめぇの大好きな、神の声だっての」


「認めん!」


 アーネストが叫ぶ。


「断じて認めんぞ! まやかしだ! 手品の類だ!」


「往生際がわりぃな」


 イレイナは、残骸から一本の伝声管を引き抜いた。


 それをアーネストの足元へ放る。


「まやかしと手品は、てめぇの得意技だろうが」


 アーネストの口が開いた。


 言葉は出ない。


 領民たちは、踏み抜かれた箱を見ていた。


 香炉。


 管。


 割れた底板。


 神官の一人が膝をつく。


 兵たちの槍が下がる。


 イレイナはアーネストへ近づいた。


「最後に聞いてやる」


 白い布の奥で、目だけが笑っていない。


「神に誓って、今までの神託は本物だったか?」


 アーネストは震えた。


「わ、私は」


「誓えよ」


 声が低くなる。


「今、ここで」


 広場は静まり返っていた。


 誰も祈っていない。


 誰も声を出さない。


 アーネストは唇を震わせる。


「か、神に……誓って……」


 イレイナは空を睨んだ。


「おい」


 沈黙。


 壊れた白木の箱が、かすかに軋む。


『届いていない』


 イレイナは笑った。


「だとよ」


 アーネストの膝が折れた。


 兵たちが動いた。


 今度は、イレイナへではない。


 アーネストへ。


 彼は両腕をつかまれ、崩れるように引きずられていった。


 老人の縄が切られる。


 若い男が老人に駆け寄る。


 誰かが泣いていた。


 誰かが笑っていた。


 誰かが、まだ白木の箱を見つめていた。


 イレイナは、老人の腕に残った縄を足でどけた。


「立てるか」


「は、はい……」


 老人は震えながら立ち上がった。


 それから、イレイナの前で膝をついた。


「ありがとうございます、聖女様……」


「あ?」


 イレイナは顔をしかめた。


「誰がだ」


 老人は慌てて口を閉じた。


 けれど、言葉は残った。


 聖女。


 イレイナは、頭にかかった白布を指でつまんだ。


「聖女か」


 ぽつりと言う。


「その手もあるか」


 耳元で、すぐに声がした。


『お前が聖女? 鏡を見ることを勧める。神託だ』


「やかましい」


 イレイナは白布を外した。


 それから、もう一度、頭からかぶり直す。


 灰と煤で汚れてはいる。


 けれど、顔の輪郭は隠れた。


「これでも被ってりゃ、顔はばれねぇだろ」


『似合わないな』


「うるせぇ」


『それに、今まで散々恨みを買っておいて、聖女になどなれるはずがない』


 イレイナは少し考えた。


「それもそうだな」


『分かればよい』


「じゃあ、まずはそっちだな」


 神の声が止まった。


『イレイナ?』


「まずは、あたしのことを知ってる奴を全員黙らせる」


『早まるな』


「早まってねぇよ。順番の話だ」


『やめておけ。お前が喧嘩を売った相手の数を覚えているのか』


「ピーチクパーチクうるせぇな。雛鳥かてめぇ」


 イレイナは、白布の端を強く結んだ。


 灰とも白ともつかない布の奥で、口元だけが笑う。


「いいから黙って見てろ」


 焦げた木の匂いが、まだ広場に残っている。


「ぜってぇ聖女になってやる」


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