神の声は聞こえますが、祈る気はありません ――神敵認定されたので、どちらが神敵か本人に聞いてみました
「神に誓って、もう二度としません!」
夜明け前の路地裏に、情けない声が転がった。
濡れた石畳。割れた瓶。酒場の裏口から漏れる灯り。
男は鼻血を垂らして膝をついていた。
その前に、イレイナ・ハングレイスが立っている。
黒い上着。傷だらけの革靴。腰には短い鉄棒。
「言ったな」
「は、はい?」
「今、神に誓うって言ったよな」
「言いました! 言いましたとも!」
イレイナは、路地の上を見上げた。
「おい。聞こえてんだろ。神」
男には、何も聞こえない。
『聞こえている』
「こいつ、誓ったか」
『届いていない』
「だそうだ」
イレイナは男を見下ろした。
「てめぇ、誓ってねぇじゃねぇか」
「いや、今! 確かに!」
「神が聞いてねぇって言ってんだよ」
「そ、そんな馬鹿な。神様がそんなことを」
「言うんだよ。あいつ、意外と細かいぞ」
『お前ほどではない』
「うるせぇ」
イレイナは男の襟をつかんだ。
「盗んだ金は」
「盗んでません!」
「おい」
『左の靴底』
イレイナは男の足を踏んだ。
鈍い音。
悲鳴。
靴底の縫い目が裂け、銀貨が数枚、石畳に転がった。
「返せ。倍でな」
「倍!?」
「神に誓う言葉を安売りした分だ」
「返します! 返しますから!」
「二度とあの店に近づくな」
「はい!」
「誓え」
「神に誓います!」
「おい」
『これは届いた』
「よし。次破ったら、神じゃなくてあたしが裁く」
「今もそうでは!?」
「まだ軽い」
男は転がるように逃げかけた。
『待て』
イレイナは片目を細める。
「あ?」
『その男、まだ何か知っている』
「おい。待て」
男が、路地の出口で固まった。
「最近、この辺で神の声が聞こえるんだって?」
男の顔色が変わった。
「広場です。アーネスト様が、神託を降ろすんです」
「アーネスト?」
「アーネスト・ヴァルホート様。神の御口って呼ばれてるお方で。白い聖櫃から、本当に神の声が響くんです」
「へぇ」
「逆らった者は神敵にされます。家も土地も財産も没収です。逃げた奴は、神罰で消えたって……」
イレイナは空を見た。
「おい。最近、そんなに喋ってんのか」
『喋っていない』
「だよな」
『神の御口などと名乗る者も知らない』
「だよなぁ」
イレイナは笑った。
男は、それを見て一歩下がった。
『近づくな』
「なんで」
『兵を持っている。神官も抱き込んでいる』
「見てたのか」
『見ていた』
「聞いてたのか」
『聞いていた』
「で?」
返事はなかった。
路地の奥で、朝の鐘が鳴る。
イレイナは鼻で笑った。
「だったら、黙って道を教えろ」
広場には、人が集められていた。
中央に白木の箱がある。
金の縁取り。神紋の彫刻。香炉から立ち上る白い煙。
人々は、その箱の前で膝をついていた。
白と金の法衣をまとった男が、片手を上げる。
長い銀髪。
穏やかな笑み。
指には、大粒の宝石。
アーネスト・ヴァルホート。
広場のざわめきが消えた。
「神は見ておられる」
声はよく通った。
「信心なき者。誓いを破る者。定めに逆らう者。そのすべてを、神は御存じである」
兵に引きずられて、老人が前に出された。
頬が腫れている。
腕は後ろで縛られていた。
アーネストは、老人を見下ろす。
「この者は、神前税を拒んだ」
「違う……!」
老人が、かすれた声を絞った。
「金は出した。麦も出した。羊も出した。だが、あれは種だ」
広場の端で、誰かが息を呑んだ。
「あれまで出せば、来年、畑に撒くものがなくなる」
アーネストは、ゆっくりと首を振った。
「来年の実りを望むなら、なおさら神に捧げなさい」
老人の喉が、小さく鳴った。
「信じぬ者に、実りなど訪れません」
誰も口を開かない。
槍を持った兵が並んでいる。
神官たちは目を伏せている。
アーネストが、白木の箱へ手をかざした。
「この者は、神敵でありましょうか」
白木の箱が、低く震えた。
『神敵である』
広場に呻きが広がる。
老人の顔から血の気が引いた。
イレイナは、人垣の中で動かなかった。
さっきまで指先で弄んでいた銀貨が、いつの間にか音を立てなくなっていた。
「おい。あの爺さん、何を惜しんだ」
『来年の飯だ』
「神より腹を重んじたか」
『違う』
「だよな」
銀貨が、イレイナの掌の中で少し曲がった。
アーネストは、ゆっくり頷いた。
「示された。この者の土地、家畜、穀物は、すべて神殿へ献じられる」
「待ってくれ」
老人が地面に額をつけた。
「せめて、井戸は。水まで封じられたら、村の者が」
「神敵の村に、清き水は流せません」
アーネストは穏やかに言った。
「井戸には封を施しなさい」
兵が動いた。
老人が顔を上げる。
「子らが死ぬ」
「ならば、なおさら祈りなさい」
イレイナの掌の中で、銀貨が折れた。
乾いた音はしなかった。
ただ、隣にいた男が、半歩退いた。
「おい」
『違う』
「まだ何も聞いてねぇよ」
『違う』
「……そうかよ」
イレイナは、折れた銀貨を懐にしまった。
鉄棒は抜かない。
右手だけが、ぶらりと下がる。
若い男が人混みから飛び出しかけた。
女がその腕にすがる。
兵が槍を向ける。
アーネストの口元が、わずかに歪んだ。
「今の騒ぎも、聞かれたでしょう」
白木の箱が、また震える。
『その者も神敵である』
若い男が取り押さえられた。
広場の端で、誰かが泣いた。
イレイナは歩き出した。
『イレイナ』
返事はなかった。
『イレイナ』
彼女は人垣を割った。
肩が触れた男が、声も出さずに道を空ける。
イレイナは老人の前に立った。
兵が振り返る。
「なんだ、お前は」
「通りすがりだよ」
声は低かった。
イレイナは白木の箱を見た。
「少し聞きたいんだけどよ」
アーネストが、柔らかく微笑んだ。
「娘よ。儀式の場を乱してはなりません」
「儀式?」
「ええ。今、この者たちは神敵と示されました」
「そうかい」
イレイナは首を鳴らした。
「神の声、聞こえるんだって?」
アーネストの眉が、ほんの少し動く。
「私は神の御口。御心を人々へ伝える者です」
「へぇ」
イレイナは笑った。
「じゃあ今、なんて言ってるか分かるか?」
「罪人に悔い改めを求めておられる」
「違うな」
広場の空気が冷えた。
アーネストの目から笑みが消える。
「何を」
「今、神はこう言ってる」
イレイナは空を見上げた。
「その箱から出てる声は、私の声ではない、ってな」
ざわめきが走った。
神官の一人が顔を上げる。
アーネストは、ゆっくりと白木の箱へ向き直った。
「神よ」
声が少し低い。
「この女を、いかに裁くべきでしょう」
白木の箱が震える。
『その女は神敵である』
兵たちが槍を向けた。
人々が後ずさる。
イレイナは肩をすくめた。
「今度はあたしか」
アーネストが片手を掲げる。
「捕らえよ。神敵には神罰が下る」
「神罰ねぇ」
イレイナは、白木の箱へ向かって一歩踏み出した。
「じゃあ、その箱の中身でも見せてもらうか」
アーネストの顔色が変わる。
「触れるな!」
兵が動いた。
その瞬間、箱の下で火花が散った。
『伏せろ』
イレイナは近くの祭壇にかかっていた白布をつかんだ。
頭から被る。
老人の体を蹴るように押し倒す。
轟音。
白い煙と黒い煙が混ざり、破片が飛んだ。
祭壇が砕ける。
神紋の入った柱が倒れる。
悲鳴が広場を裂いた。
老人は煙の端に転がっていた。
若い男が、縄に縛られたまま身を起こそうとしている。
だが、白布の女は見えなかった。
「見よ!」
アーネストの声が響いた。
「神罰である!」
兵たちが膝をついた。
神官たちも、遅れて頭を垂れる。
「神は、我が声に応えられた! 神敵は、神の火によって討たれたのだ!」
誰も、言い返さなかった。
煙は濃い。
白木の箱は割れている。
白布の女は出てこない。
老人が、石畳に額を落とした。
「神よ……」
そのまま、動かなかった。
若い男の肩から力が抜ける。
女が、声を殺して泣いた。
アーネストは笑った。
「これが、神の御心である」
その時。
黒煙の中から、足音がした。
一歩。
灰が落ちる。
もう一歩。
焼けた木片が、石畳の上で砕ける。
煙の奥から、イレイナが姿を現した。
全身に灰を被っていた。
頭からかぶった白布は黒く煤け、髪も肩も焼けた粉にまみれている。
一歩進むたびに、灰がぼろぼろと落ちた。
灰とも白ともつかない布の奥から、低い声が響く。
「てめぇ」
広場が静まった。
「神の声が聞こえるんだって?」
アーネストの唇が震える。
「も、もちろんだ。私は神の御口である」
「おもしれェ」
イレイナは笑った。
「じゃあ、神の野郎がなんて言ってるか。今聞かせてくれよ」
アーネストは黙った。
その背後で、兵がこちらを見る。
神官がこちらを見る。
領民がこちらを見る。
アーネストは声を張った。
「神は、こう仰せだ。神敵は討てと!」
「そうかい」
イレイナの足元に、爆発で割れた白木の箱が転がっていた。
彼女はその残骸に足を乗せる。
「神敵を討て。ね」
乾いた音が響いた。
白木の板が割れる。
中から、煤けた金属の管が転がった。
管の先は、台座の下へ伸びている。
神官の一人が、そちらを見て顔を伏せた。
アーネストの顔が青ざめる。
イレイナは、灰まみれの布の奥から言った。
「じゃあ、もう一個聞かせてくれよ」
一歩。
灰が落ちる。
また一歩。
白が戻る。
「その神敵ってのは、誰のことだ?」
「聞くまでもあるまい!」
アーネストは叫んだ。
「貴様自身のことだ!」
「っく」
イレイナの肩が揺れた。
「っくっくっく」
笑っていた。
「そうかい、そうかい」
イレイナは空を睨んだ。
「だそうだが、どうなんだ?」
壊れた箱の奥で、伝声管が小さく震えた。
イレイナは、腹の底から吠えた。
「おい!」
広場に、声が落ちた。
『神敵は貴様だ。アーネスト・ヴァルホート』
誰も動かなかった。
兵も。
神官も。
領民も。
アーネストでさえ。
割れた白木の箱が、かすかに震えている。
『私の名で、人を縛ったな』
アーネストは後ずさった。
「な……なんだ、この声は。どこから聞こえてくる」
「あん?」
イレイナは首を傾けた。
肩に残っていた灰が、一筋落ちる。
白布が現れた。
祭壇にかけられていた布は、ヴェールのように彼女の顔を隠している。
「てめぇ、散々聞いてたんじゃねぇのかよ」
イレイナは笑った。
「てめぇの大好きな、神の声だっての」
「認めん!」
アーネストが叫ぶ。
「断じて認めんぞ! まやかしだ! 手品の類だ!」
「往生際がわりぃな」
イレイナは、残骸から一本の伝声管を引き抜いた。
それをアーネストの足元へ放る。
「まやかしと手品は、てめぇの得意技だろうが」
アーネストの口が開いた。
言葉は出ない。
領民たちは、踏み抜かれた箱を見ていた。
香炉。
管。
割れた底板。
神官の一人が膝をつく。
兵たちの槍が下がる。
イレイナはアーネストへ近づいた。
「最後に聞いてやる」
白い布の奥で、目だけが笑っていない。
「神に誓って、今までの神託は本物だったか?」
アーネストは震えた。
「わ、私は」
「誓えよ」
声が低くなる。
「今、ここで」
広場は静まり返っていた。
誰も祈っていない。
誰も声を出さない。
アーネストは唇を震わせる。
「か、神に……誓って……」
イレイナは空を睨んだ。
「おい」
沈黙。
壊れた白木の箱が、かすかに軋む。
『届いていない』
イレイナは笑った。
「だとよ」
アーネストの膝が折れた。
兵たちが動いた。
今度は、イレイナへではない。
アーネストへ。
彼は両腕をつかまれ、崩れるように引きずられていった。
老人の縄が切られる。
若い男が老人に駆け寄る。
誰かが泣いていた。
誰かが笑っていた。
誰かが、まだ白木の箱を見つめていた。
イレイナは、老人の腕に残った縄を足でどけた。
「立てるか」
「は、はい……」
老人は震えながら立ち上がった。
それから、イレイナの前で膝をついた。
「ありがとうございます、聖女様……」
「あ?」
イレイナは顔をしかめた。
「誰がだ」
老人は慌てて口を閉じた。
けれど、言葉は残った。
聖女。
イレイナは、頭にかかった白布を指でつまんだ。
「聖女か」
ぽつりと言う。
「その手もあるか」
耳元で、すぐに声がした。
『お前が聖女? 鏡を見ることを勧める。神託だ』
「やかましい」
イレイナは白布を外した。
それから、もう一度、頭からかぶり直す。
灰と煤で汚れてはいる。
けれど、顔の輪郭は隠れた。
「これでも被ってりゃ、顔はばれねぇだろ」
『似合わないな』
「うるせぇ」
『それに、今まで散々恨みを買っておいて、聖女になどなれるはずがない』
イレイナは少し考えた。
「それもそうだな」
『分かればよい』
「じゃあ、まずはそっちだな」
神の声が止まった。
『イレイナ?』
「まずは、あたしのことを知ってる奴を全員黙らせる」
『早まるな』
「早まってねぇよ。順番の話だ」
『やめておけ。お前が喧嘩を売った相手の数を覚えているのか』
「ピーチクパーチクうるせぇな。雛鳥かてめぇ」
イレイナは、白布の端を強く結んだ。
灰とも白ともつかない布の奥で、口元だけが笑う。
「いいから黙って見てろ」
焦げた木の匂いが、まだ広場に残っている。
「ぜってぇ聖女になってやる」




