第二話 朝に紛れて
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筆が倒れる音がした。私だった。私が落としたのだ。
詰所である曹司は板敷きで、冷えがよく伝わる。帳台の向こうでは同僚たちが書類を繰っており、墨が擦れる音だけが静かに響いていた。
私はどこかぼんやりとして、まだ自宅の朝の間にいるような気がしている。もう、邸を出て四刻になるというのに。
かじかんで震える手を伸ばし、筆を拾う。どこも汚れていなくて良かった。
気持ちを切り替えようと外に目を遣ると、遠く内裏の屋根が朝日に白く光っていた。
回廊では様々な人が行き交っている。緊張した様子の女童、大量の木簡を抱えた男。遅刻したのだろうか、急ぎ足でこちらに向かってくる私の部下。——あれは後で説教だな。
ああ、いつもの風景だ。徐々に呼吸が楽になる。私も、この風景の一部に過ぎないのだということを実感できて、ひどく安心した。
人々の足音や声が、薄明の光と溶け合ってゆくように、私の輪郭もぼやけていく。
胸を張って進む男。胃のあたりを擦りながら端を歩く青年。不安げな様子で戻ってきた女童。……戻ってきた? あの娘、もしかして迷っているのでは。
女童は歩くのをやめ、そのまま立ちすくんでしまった。手にした文をぎゅっと抱きしめ、右へ行くべきか左へ行くべきか、何度も首を傾げている。
これは私の出番だな。部屋から出ると、そっと娘に近寄る。
「どうした? 困りごとか?」
声をかけると、女童ははっと顔を上げ、慌てて頭を下げた。
「こ、弘徽殿へ文を届けに……でも、私だけでは入れないと……。」
なるほど、追い返されたか。行くことも戻ることもできず不安だったのだろう。濡れた睫毛がいかにも幼げだ。
「橘の長子であれば不足はなかろう。ついておいで。」
歩き出すと、女童は小走りでついてくる。
渡り廊下に差し掛かった時、御簾の向こうから女房たちのくすくす笑う声が微かに聞こえた。
「ほら、近衛の将監様よ……。」
「また困っている子を助けてらっしゃるわ。」
「可哀想に、あんなに優しくされたら惚れてしまうじゃない。」
少々声が大きいな。女童の方をちらと見ると、耳を赤くして俯いてしまっていた。
……ああ、悪くない。こうして照れてくれるのを見ると、思わず嬉しくなる。私を男だと疑いもしないからこその、この反応。女房たちの囁き声も同じだ、これ以上確かな証はない。
まったく可笑しなことだが——その可笑しさに、私はどれほど救われていることか。
中庭を抜けかけたところで、弘徽殿付きの女房が歩いているのが見えた。向こうも私達の姿を認めたらしく、こちらに近づいてくる。
女は顔を隠したまま、私に挨拶をした。
「お手間を取らせてしまい申し訳ございませんでした。追い返してしまったという話を聞いて、この子を急いで探していたのですよ。」
「なんの、気にすることはない。丁度時間があったものでな。」
「本当にありがとうございました。ほら、お前も。」
女童は安心して気が抜けてしまっていたようだ。促されて慌てる姿が面白い。
「あ、ありがとうございました!」
言葉と同時に深く頭を下げる彼女を見て、私は踵を返す。
曹司に戻ると、左近衛の仲間たちが、待ってましたと言わんばかりに一斉に顔を上げた。
「おお、道衡。先ほどの子は無事に辿り着けたか?」
「また人助けとは。いえ、優しいのは結構ですが……あれで女人たちが騒ぐのですから。」
わざとらしく肩をすくめたり、眉を下げたり。冗談の奥には濁った嫉妬の色が滲んでいる。
「困っている者を見たら助けるだけのことだ。なんだ、お前たちにはできぬのか?」
わざと煽って返すと、男のひとりが机に突っ伏した。
「蛙の子は蛙......御父上ゆずりの顔が羨ましい限りですよ。」
「私も女人から文をいただきたいものだ。大体、将監殿は華奢すぎる!」
「その通りだ!俺のこの逞しさを、誰か褒めてはくれないものか......。」
華奢すぎる?当然だ。男ではないのだから。疑われているわけでは無さそうだが、思わずどきりとした。彼らは本当に賑やかで、温かい。身分を重んじながらも、こうした軽口で『私は仲間だ』と示してくれる。そしてそれゆえに、鋭い。
「おい、道衡。立ちついでに頼み事だ。」
帳台の陰から、次官殿が姿を見せた。手にした巻物を軽く上げ、私を顎で示す。
「これを蔵人所へ通してくれ。至急だ。……お前がいると周りが騒がしくてかなわん。」
次官殿は静かな男だ。好んで騒ごうとしない私を仲間だと思っている節がある。だがこのようなときはありがたい。自分の声が明るくなったのを感じた。
「承知しました。」
蔵人所。……もしかすると、あいつに会えるかもしれないな。
床の、光の当たっている部分は、暖かかった。
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