第一話 橘道衡
数ある作品の中から見つけて頂けて嬉しいです。
毎朝、嘘をつく準備だけをしている。これを怠ると私は死ぬ。
目がうっすらと開き、外から吹き込む風がひやりと頬を撫でる。今日も、嘘ばかりの一日が始まった。
体を起こすと冷えた空気が胸に染み、思わず小さな咳が出る。春を迎えてしばらく経つが、日中の暖かさに騙されてはいけないな。
ふぅ、と息を吐き、手のひらに熱をためていると、軽い足音が近づいてきた。
「おはよう、芳野。」
寒さで指先を赤く染めた芳野が新しい炭を持って入ってくる。
「おはようございます、姫君。それで……先ほど咳き込んでいらっしゃるのが聞こえたのですが、お加減がすぐれないのでは?」
真剣な様子が少し可笑しくて、ついつい笑みがこぼれる。
「笑わないでくださいませ!この芳野、あなた様が生まれた時からお世話をさせていただいているのですよ。お仕えする方に気を配るのは当然の……」
ぶつぶつと小言を言いながらも、朝支度の手は決して淀まない。流石だな、私の乳母は。
「姫君!私が有能なのは承知しております。さあ、早くこちらへ。出仕に遅れて困るのは貴方なのですよ。」
おや、どうやら声に出ていたらしい。布団からのろのろと出ると、寒さが再び私を襲う。いつのまにか用意されていた手桶の水はひどく澄んでいる。布を手に取り、顔に押し当てては拭くこと数回。頬を伝う冷たさが手のひらまで染みて、だんだんと頭が冴えてきた。
芳野が髪を結い始める。その間に化粧の準備をしようと白粉の蓋を開けた。冷たく乾いた鉱物の匂いが広がり、芳野が運んできた炭の残り香をあっさりと塗りつぶしていく。
舞い上がる粉から顔を背けると、鏡が丁度目に入る。覗き込むと、そこに映る自分自身と目が合った。
鏡は真実を写すと聞くが、あれはきっと本当なのだろう。
男にしては弱々しく、女にしては髪の短すぎる半端者が、惨めに顔を歪めていた。
「姫君。……姫君?髪は結い終わりましたよ。やはり具合が、」
「大丈夫。少し寝ぼけていただけだ。さあ、服の用意も。」
早口で喋ると、震える手で化粧を済ませる。芳野の方は見なかった。
紅は、引かない。あの鮮やかな赤は、最後に女だった私自身の血の色だ。
白粉は控えめに、指先に取って皮膚に叩きつける。 これで顔は完成だ。そう、顔だけは。
外をちらりと確認する。この時間の私は、他のどの時よりも不完全で弱いのだ。
布が擦れる音に目線を戻すと、芳野は服の準備を済ませていた。漂う香の香りが心地よい。私たちは目を合わせると、決心したような顔で頷いた。そう、私が姫でいられるのはここまでなのだ。
始めに隠すのは女の象徴。小袖は二枚重ねて、胸紐をきつく締めることで、決して小さくはない乳房を潰す。
「息を吐いてくださいませ、三、二、一!」
私が息が吐くと同時に、芳野の指がきつく紐を引く。
「うっ。」
内側の肉は逃げ場を無くし、喉からは汚い呻き声が漏れた。何度か肩を上下させ、息を整える。
「申し訳ございません。少し緩めましょう。」
「このままでよい。必要なことだ。」
息苦しさに耐えかねて弱音を吐けば、全てが崩れる。この物理的な苦痛こそが、私を私たらしめてくれるのだ。
芳野は目を伏せると、そのふしくれだった指でやさしく、私の肩を撫でた。徐々に差し込んできた陽の光のおかげだろうか、手が暖かい。
「ああ、姫君。殿のご命令さえなければ、この美しい体はどれほど……」
「やめよ。......嘆いても仕方がない。父上が求めているのは私ではない。後継の『道衡』だ。さあ、次を。」
この国そのものである御門や殿上人たちを欺くなどという大それたことをやっているのだ。この企てが露見した暁には、私はきっと生きてはいまい。父上か藤原か、それともただの役人か、誰かが私を処分する。
「ええ、ええ、分かっておりますよ。」
慣れた手つきで、着付けは進む。小袖、単、指貫、直衣。衣服とは便利なもので、幾重にも重なり私の体格を誤魔化してくれるのだ。
最後に帯を結び、烏帽子を被れば───
橘家次期当主、橘道衡の完成だ。
最後に、もう一度鏡を覗いた。鏡の中の男は、乱れのない装いに身を包み、誰かの理想をなぞった硬質な笑みを浮かべている。そこに在るのは、もう私ではない。
よかった。今日も良い一日になりそうだ。
「芳野、行こうか。」
「はい。」
邸の廊下を黙って歩く。私の姿に気づくと、女房たちは一斉に礼を取り、それぞれが挨拶を述べた。
「おはようございます。」
「おはようございます、道衡様。」
声がほぼ同時に重なり、朝の空気も少し華やぐ。
膳に用意された朝餉は、簡素ながらも味は良いものだ。私はそのまま席につき、口をつけようと箸を手にした。
その時、廊下の床が軋む音が聞こえた。この邸で、これほど重い足音を立てる者は一人しかいない。
すぐに理解する、父上が来たのだと。油断していた。今朝は宿直のはずで、今は宮中にいるはずなのに、どうして。
足音は容赦なく近づき、ついには重い黒色が視界を覆った。
「道衡。」
「父上。もう少しお帰りが遅れるかと......」
「道衡。」
「はい。」
厭な気持ちがした。
父の声はいつも同じだ。誉める時も怒る時も、決して私に逃げ場を与えない。
「今朝の朝議にて決まった。お前を少将にと!詳しい話も後々あるだろうが、とにかく心得ておけ。自慢の息子としての体裁がようやく整ったわ。ははは。」
温度のない乾いた笑いだ。
その分厚い唇から音が紡がれるたびに、空気がぐしゃりと潰れてゆく。
口の中が嫌に乾いて、唾液がねばつくのを感じる。
「どうした道衡、顔色が悪いぞ。気分がすぐれないのか?ふん、そのくらい顔に出さずにおれ。」
なるほど、父は相当喜んでいるらしかった。
私がうまく返事をできなくても、いつもの叱咤が飛んでこない。
そうして、言いたいことだけを言うと、父は来たときと同じような唐突さで部屋から出ていった。きっと、酒でも飲むのだろう。
私はただ、畳の縁を見つめ続けた。
「あの、喜ばしいことでございますよね?」
恐る恐るといった様子で声をかけてきたのは若い女房だ。私が何も言わないのを不審に思ったのだろう。
「......もちろんだ。だが私に務まるのか少し不安でな。父上の仰る通り気を引き締めねば。」
目を細めて口角を上げた私をみると、女房は安心したような姿を見せ私を称え始めた。
「まさか、道衡様に限ってそのようなことはございませんよ。橘の家門は安泰ですとも!」
目線を手元に落とす。熱い出汁の匂いが、胸の奥の息苦しさを助長した。
当主。私はそれになれるのか、そしてその先はどこを往くのか。
先の見えない道ほど、足が重くなるものだ。
行き先は暗くとも、立ち止まる方が恐ろしい。歩いている限り、私はまだ『道衡』でいられるはずだから。
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