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治癒魔法を隠す少女の秘密の恋 ~放蕩息子の仮面を被った伯爵のご子息様は、私の運命の人でした~

作者: 坂道 昇

陽が真上に昇り、じりじりと肌を焼く昼下がり。ソフィアは背負った籠の重みに耐えながら、森の中を歩いていた。継母に命じられた枝拾いは、いつも彼女の仕事だった。満足な量になるまで、家に入れてもらえることはない。手入れもされずパサついた金色の髪は、陽の光を浴びると淡く透き通り、湖の底を思わせる深く澄んだ青い瞳は、その年齢に不釣り合いなほどの憂いを帯びていた。


「はぁ…」


思わず漏れたため息が、乾いた空気に溶けていく。貧しい平民の娘として生まれたソフィアの日常は、常に空腹と隣り合わせだった。両親を早くに亡くし、引き取られた先は、父の再婚相手である継母の家。そこでの扱いは、使用人以下だった。ろくな食事も与えられず、朝から晩までこき使われる毎日。


ソフィアには、誰にも言えない秘密があった。彼女には、治癒魔法の才能があったのだ。しかし、この国では、魔法は貴族の特権。平民が魔法を使えることが知られれば、どんな目に遭うか分からない。下手をすれば、異端として教会に捕らえられ、火あぶりにされるかもしれない。だからソフィアは、その力をひた隠しにして生きてきた。


森の奥へ進むと、不意に獣の咆哮が聞こえた。びくりと肩を震わせ、ソフィアは足を止める。この森には、時折、凶暴な魔物が出ると聞く。普段はもっと手前で枝を拾うのだが、今日はなぜか、森の奥へ奥へと引き寄せられるような感覚があった。


咆哮は、一度きりではなかった。断続的に響く獣の声と、何かがぶつかり合う激しい音。好奇心と恐怖が入り混じった複雑な感情に突き動かされ、ソフィアは音のする方へと、恐る恐る近づいていった。


木の陰からそっと覗き見ると、信じられない光景が広がっていた。体長3メートルはあろうかという巨大な熊、魔物グリズリーが、一人の男に襲いかかっていたのだ。男は剣を手に奮戦しているが、相手が悪すぎる。グリズリーの鋭い爪が、男の体を容赦なく引き裂いていく。


男の顔を見て、ソフィアは息を呑んだ。癖のある栗色の髪、人の良さそうな少し垂れた目元。放蕩息子と噂の、伯爵家の三男、アレク様だった。


以前、彼が領主である父と共に町を御幸した際、道端にひざまずき、傅く人々の中にソフィアもいた。誰もが深く頭を垂れる中、好奇心に負けてそっと顔を上げた一瞬。馬上の彼は、沿道の人々を眺めていた。世間の噂にあるような、だらしなく弛緩した表情ではなかった。その瞳の奥には、領民の暮らしを憂うような、真摯で、どこか寂しげな光が宿っているように見えた。たった一瞬の邂逅。それでも、ソフィアの心には、彼の本当の姿が焼き付いていたのだ。


「くそっ…!」


アレクは悪態をつきながら、グリズリーの攻撃を必死でかわす。彼は今日、狩りと称してこの森に来ていた。しかし、本当の目的は、最近この辺りで頻発している魔物の調査だった。領民の安全を脅かす存在を、放ってはおけない。そんな正義感からの行動だったが、まさかこれほど強力な個体と遭遇するとは、完全に予想外だった。


グリズリーの剛腕が、アレクの体を薙ぎ払う。受け身を取りきれず、地面に叩きつけられたアレクは、激しく咳き込んだ。口からこぼれた血が、地面を赤く染める。もはや、これまでか。死を覚悟したその時、グリズリーの動きが、ふと止まった。


「…?」


訝しげに顔を上げたアレクの目に、信じられないものが映った。グリズリーの足元に、小さな光が灯っていたのだ。その光は徐々に大きくなり、やがて、温かな光のドームとなって、グリズリーを包み込んだ。


何が起こったのか分からず、呆然とするアレク。光に包まれたグリズリーは、苦しむでもなく、ただ静かに、その場に崩れ落ちた。まるで、深い眠りに落ちたかのように。


光が消え、静寂が戻る。アレクは、ゆっくりと立ち上がろうとして、足に激痛が走り、その場にうずくまった。見れば、左足がありえない方向に曲がっている。グリズリーとの戦闘で、骨を折られたらしい。


「大丈夫ですか!?」


声のした方を見ると、一人の少女が駆け寄ってくるのが見えた。陽に透ける金色の髪、大きな青い瞳。みすぼらしい格好をしているが、その美しさは隠しようもなかった。


「君は…?」

「私はソフィアです。この近くの村に住んでいます」


ソフィアはアレクのそばに膝をつくと、彼の足にそっと手を触れた。その瞬間、アレクの体中に、温かな何かが流れ込んでくるのを感じた。


「これは…治癒魔法か?」


驚きを隠せないアレクに、ソフィアはこくりと頷いた。


「どうか、ご内密にお願いします。平民が魔法を使えることが知られたら…」


ソフィアの切実な瞳に、アレクは事態を察した。この国では、魔法は貴族の特権とされている。しかし、実際には、ごく稀に、平民の中にも魔法の才能を持つ者が生まれることがあった。彼らはその力を隠し、ひっそりと暮らしているという。目の前の少女も、その一人なのだろう。


「分かった。誰にも言わないと約束しよう。それより、助けてくれて、本当にありがとう」


アレクの言葉に、ソフィアはほっとしたように微笑んだ。その笑顔は、まるで春の陽だまりのように、アレクの心を温かくした。ソフィアの治癒魔法は、驚くほど強力だった。みるみるうちに、アレクの傷は塞がっていき、折れた足の骨も、元の位置へと繋がっていく。あまりの心地よさに、アレクは思わず目を閉じた。


しばらくして、治療を終えたソフィアが、そっと手を離した。


「もう大丈夫だと思います」


アレクはゆっくりと足首を回してみる。痛みは、完全に消えていた。それどころか、体中に力がみなぎってくるのを感じる。


「すごいな、君の魔法は。宮廷の治癒魔導士よりも、ずっと強力だ」


アレクの称賛の言葉に、ソフィアははにかんだ。


「そんな…お役に立てて、よかったです」

「それにしても、なぜ君は、俺を助けてくれたんだ?俺が貴族だと知っていただろう?」


アレクの問いに、ソフィアは少し考えるように視線をさまよわせた後、静かに口を開いた。


「困っている人を見過ごすことはできませんでした。それに…アレク様は、噂されているような方ではないと、存じておりましたから」


ソフィアの言葉に、アレクは目を見開いた。放蕩息子を演じていることは、誰にも気づかれていないと思っていた。しかし、この少女は、それを見抜いていたというのか。


「どうして、そう思うんだ?」

「あなたの目です。以前、町でお見かけした時、あなたの目は、領民のことをとても心配そうに見ていました。だから…」


ソフィアの言葉は、アレクの胸の奥深くに突き刺さった。そうだ、自分はいつも、この国の未来を、領民の幸せを考えてきた。しかし、それを誰かに理解してもらえたのは、これが初めてだった。


「君は、一体何者なんだ…?」


アレクの問いに、ソフィアはただ、静かに微笑むだけだった。その神秘的な微笑みは、アレクの心を、強く惹きつけてやまなかった。


この出会いが、二人の運命を大きく変えることになる。虐げられた平民の娘と、放蕩息子を演じる伯爵家の三男。身分違いの二人が織りなす恋の物語は、まだ始まったばかりだった。



月光が差し込む書斎で、アレクはグラスに注がれた葡萄酒を揺らしていた。あの日、森で出会った少女、ソフィア。彼女のことが、頭から離れない。


陽の光を吸い込んだような柔らかな金髪。湖の底を思わせる、深く澄んだ青い瞳。そして、彼の本質をいとも簡単に見抜いた、あの聡明さ。なにより、彼の全身を駆け巡った、あの温かく、力強い治癒の光。彼女は一体、何者なのだろうか。


放蕩息子を演じる日常は、時折、心を蝕む。誰にも本心を明かせず、道化を続ける日々に、虚しさを感じないわけではない。だが、彼女は違った。噂や身分に惑わされず、ただ真っ直ぐに自分を見てくれた。


「もう一度、会いたい…」


ぽつりと漏れた言葉は、静かな夜の空気に溶けた。会って、ゆっくりと話をしたい。彼女のことを、もっと知りたい。その思いは、日を追うごとに強く、焦がれるような渇望へと変わっていった。


しかし、どうやって探せばいい?「金髪で青い瞳の、治癒魔法が使える娘」などと触れ回れば、彼女を危険に晒すだけだ。切れ者であるアレクは、もっと慎重で、確実な方法を必要としていた。


数日後、アレクは一つの計略を思いついた。


「父上、近々、領内の村々を回り、施しを行いたいと考えております」

「ほう、感心なことだ。だが、どういう風の吹き回しだ?」

「領民の暮らしを、この目で見ておきたいのです。それと…」


アレクは悪戯っぽく笑う。


「そろそろ身を固めろとうるさい父上のために、未来の嫁探しでもしようかと」


領主である父は、三男の突拍子もない提案に呆れながらも、領民のためになるならと許可を出した。


―――そして、一月後。


ソフィアの住む村の広場は、珍しく活気に満ちていた。伯爵家のアレク様が、領内の若い娘たちに贈り物を下賜してくださるというのだ。


「いいかい、ソフィア!あんたも行くんだよ!」


継母は、目を吊り上げてソフィアを納屋から引きずり出した。


「万が一、本当に万が一、あの放蕩息子の目にでも留まれば儲けもんだからね!」


義理の姉たちも、嫌味ったらしい笑みを浮かべてソフィアを見下している。


「あんたみたいな薄汚いのが行ったって、どうせ恥をかくだけよ」

「見て、この服!物乞いみたい!」


ソフィアが着ていたのは、姉たちのお下がりの、擦り切れたワンピースだった。それでも、この日のために何度も洗い、丁寧に繕ったものだ。


「さあ、もっとおめかしさせてあげるわ!」


義姉の一人が、邪悪な笑みを浮かべてソフィアに近づくと、そのワンピースの襟元を掴み、力任せに引き裂いた。


ビリッ、という乾いた音と共に、ソフィアの華奢な肩があらわになる。さらに、もう一人の義姉が、背中側の生地を横一文字に切り裂いた。


「きゃっ!」


破れた隙間から、雪のように白い肌と、過去の虐待でつけられた青黒い痣が無防備に晒される。


「ふふ、いいじゃない。これなら惨めさが際立って、私たちの美しさが引き立つわ」

「さあ、行ってこい、穀潰し!せいぜい村中の笑いものになっておいで!」


突き飛ばされ、地面に手をついたソフィアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。悔しくて、惨めで、心が張り裂けそうだった。それでも、行かなければ、今夜の食事はないだろう。彼女は震える足で立ち上がり、人々の好奇と侮蔑の視線が突き刺さる広場へと、歩き出した。


広場の中心に設けられた天幕の下で、アレクは一人一人に声をかけながら、贈り物だという小さな布袋を手渡していた。しかし、その目は必死に一人の少女を探している。陽の光を吸い込んだ、金色の髪の少女を。


その時、人々の輪から押し出されるようにして現れた、みすぼらしい姿に、アレクは息を呑んだ。


間違いない。ソフィアだ。


だが、その姿はあまりに痛々しかった。顔は青ざめ、頬にはうっすらと赤い手の跡がある。そして、無残に引き裂かれた服。そこから覗く白い肩と、背中に浮かぶ痛々しい痣。彼女の大きな青い瞳は、絶望の色に濡れていた。


その瞬間、アレクの中で何かが焼き切れる音がした。


周囲の人間が何事かと目を見開くのも構わず、彼はソフィアのもとへ駆け寄った。そして、普段の温和な仮面をかなぐり捨て、背後に立つ継母と義姉妹を睨み据えた。


その眼光は、もはや放蕩息子のそれではない。獲物を前にした獣の、鋭く、燃えるような光を宿していた。


「貴様らッ!!」


雷鳴のような怒声が、広場に響き渡った。人々は恐怖に凍りつき、シン、と静まり返る。


「彼女に…この娘に、何をしたッ!!」


地を這うような低い声に、継母たちは腰を抜かした。


「ひっ…!わ、私どもは何も…!」

「嘘をつくなッ!その頬の跡も、破られた服も、全て貴様らの仕業だろうがッ!」


アレクは、控えていた従者に鋭く命じた。


「こいつらを捕らえろ!俺の許しがあるまで、地下牢に放り込んでおけッ!」


従者たちが有無を言わさず継母たちを取り押さえる。阿鼻叫喚の騒ぎになる中、アレクは震えるソフィアの肩を、そっと自身のマントで包み込んだ。


「もう大丈夫だ。私が来たからには、二度とあんな奴らの好きにはさせない」


優しい声に、ソフィアは堰を切ったように泣きじゃくった。感謝と安堵で、もう立っていることもできない。アレクはそんな彼女を、壊れ物を抱くように優しく横抱きにした。


「すまない、皆。今日の催しはこれまでだ」


アレクは群衆に一瞥をくれると、ソフィアを抱いたままその場を去ろうとする。しかし、このまま伯爵邸に連れて帰れば、彼女に要らぬ噂が立つだろう。しばし逡巡したアレクは、従者の一人に耳打ちした。


「街外れの隠れ家に行く。馬を回せ」


従者は心得たとばかりに頷き、素早く駆けだした。

アレクはソフィアの耳元で囁く。


「少しの間、私の隠れ家で休むといい。誰にも邪魔されない、安全な場所だ」


ソフィアは、彼の腕の中で、こくりと小さく頷いた。自分を虐げる者のいない場所へ行ける。その事実だけで、彼女の心は少しだけ軽くなるのだった。



ひんやりとした石の壁が、松明の頼りない光を鈍く反射する。伯爵邸の地下牢は、湿った土と絶望の匂いで満ちていた。ソフィアの継母と義父、そして二人の義姉妹は、冷たい床に震えながら身を寄せ合っていた。昨日までの傲慢な態度は見る影もなく、ただ恐怖に支配されていた。


重い鉄の扉が開く音が響き、ゆっくりとした足音と共にアレクが現れた。彼の背後には、屈強な従者が二人、氷のような表情で控えている。


「さて、少し話をしようか」


アレクの声は普段の人の好さそうな響きを潜め、研ぎ澄まされた刃のような冷たさを帯びていた。継母は必死に媚びを含んだ声を作った。


「アレク様!我々は何も…!あの娘が勝手に!」

「黙れ」


地を這うような一言で、継母の言葉は断ち切られた。アレクは牢の前に椅子を置かせると、深く腰掛け、足を組んだ。その姿は、裁きを下す王のようだった。


「お前たちが虐げていた娘、ソフィア。彼女が、ただの平民の娘ではないことを教えてやろう」


アレクは楽しむように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「彼女は、治癒魔法の使い手だ。それも、宮廷にいる首席魔術師など足元にも及ばぬほどの、奇跡を生む力を持っている」


その言葉に、家族は顔を見合わせた。驚愕、そしてすぐに卑しい計算がその目に宿る。


「そ、そうでしたか!やはり、あの娘は特別なのだと!」


義父が、震えながらも大声を張り上げた。


「ええ、ええ!私たちはその類稀なる才能に早くから気づいておりました!だからこそ、その力が暴走せぬよう、厳しく躾を…!」

「将来、立派なお方にお仕えできるよう、甘やかさずに育ててきたのでございます!」


義姉妹たちも、口々にそう嘯く。その見え透いた嘘に、アレクの口元に冷酷な笑みが浮かんだ。


「ほう。貴族である俺に向かって、平然と嘘を並べ立てるわけだ」


アレクがすっと立ち上がると、牢内の温度がさらに数度下がったように感じられた。


「この国で、貴族への虚偽がどれほどの重罪か知っているな?ましてや、俺は伯爵家の人間だ。お前たち一家を、この場で法の下に処刑することなど造作もない」


「ひぃっ…!」


家族は顔面蒼白になり、ガタガタと震えだした。命乞いの言葉すら、喉に詰まって出てこない。アレクは彼らの醜態を冷ややかに一瞥すると、ふぅ、と息をついた。


「だが、それでは面白くない。それに、俺が妻に迎えるソフィアの身内が、ただの犯罪者として処刑されたとあっては、彼女の経歴に傷がつく」


妻、という言葉に、家族の目が再びぎらついた。


「だから、チャンスをやろう」


アレクは、一枚の羊皮紙を牢の格子越しに投げ入れた。そこには、魔物討伐の懸賞金募集が記されていた。


「近々、コロシアムで余興が行われる。お前たちには、賞金稼ぎの一家として、魔物と戦ってもらう。見事、勝利すれば、その罪を許し、莫大な賞金もくれてやる。挑戦するという名目なら、誰も文句は言うまい」


挑戦する魔物の名前に、義父の目が恐怖に見開かれた。


「グ、グリズリー…!そ、そんな、我々のような素人に、あの魔物を倒せるはずが…!」

「案ずるな。お前たちが常日頃からソフィアを『鍛えていた』その成果を見せる時が来ただけだ。それとも、今ここで罪人として裁かれるか?」


選択肢は、なかった。地獄への片道切符を手に、彼らは絶望の中で頷くしかなかった。



街外れにあるアレクの隠れ家は、薔薇の咲き誇る庭に囲まれた、こぢんまりとしながらも趣味の良い屋敷だった。ソフィアはここで、生まれて初めて人間らしい、穏やかな日々を過ごしていた。


温かいスープ、ふかふかのベッド、陽光が差し込む美しい部屋。そして何より、彼女を一個の人間として尊重してくれるアレクの存在が、凍てついていた彼女の心を少しずつ溶かしていった。


あの日、無残に破られた服は燃やされ、今は肌触りの良い、上品なワンピースを身に着けている。虐待の痣は自身の魔法で癒し、栄養のある食事のおかげで、頬には健康的な血色が戻り始めていた。


「ソフィア」


庭のテラスで本を読んでいた彼女に、アレクが優しく声をかけた。彼の隣に座ると、心地よい沈黙が流れる。


「君の家族のことだが…」


アレクが切り出すと、ソフィアは本から顔を上げた。その瞳は、もはや以前のような憂いや怯えを映してはいなかった。静かで、凪いだ湖面のようだった。


「彼らに、一つの裁きを下すことにした。コロシアムで、魔物と戦わせる」


アレクは、自分の行いが彼女を傷つけないかと、慎重に言葉を選んだ。


「もちろん、これは見世物だ。君が望まないなら、すぐに中止させる。だが、もし…君が過去と完全に決別したいと願うなら、その瞬間を見届けるのも一つの手かもしれない」


彼の言葉の真意を、ソフィアは理解していた。これは単なる復讐劇ではない。自分を縛り付けていた呪いを断ち切り、新たな人生を歩み始めるための、儀式なのだと。


「…見届けます」


ソフィアは、静かに、しかしはっきりと答えた。


「憎しみからではありません。ただ、私の人生に、もうあの人たちは必要ないのだということを、私自身が確認するために」


その凛とした横顔に、アレクは改めて心を奪われた。この強く、気高い魂を持つ少女を、生涯をかけて守り抜こうと、固く誓った。



王都のコロシアムは、数千の観客が発する熱気で揺れていた。ファンファーレが鳴り響き、司会者が声を張り上げる。


「さあ皆様、お待ちかね!本日の目玉!賞金首グリズリーに挑むは、田舎からやってきた命知らずの賞金稼ぎ一家だァ!」


歓声と野次が入り混じる中、継母たちが闘技場へと姿を現した。不釣り合いな新品の剣や盾を手にしているが、その足は震え、顔は恐怖で引きつっている。


貴賓席の最前列で、ソフィアはアレクと共にその光景を静かに見つめていた。隣には、息子の奇行を見届けに来た、父であるベルンシュタイン伯爵の姿もあった。


やがて、巨大な鉄格子が轟音と共に引き上げられ、唸り声を上げて一体の魔物が姿を現した。


「グルオオオオオオッ!!」


グリズリー。森でアレクを追い詰めた個体よりも、さらに一回りは大きい。その凶悪な姿に、観客からどよめきが起こる。


家族は完全に腰が引けていた。義父は盾を構えるものの、その腕は小刻みに震えている。グリズリーが地響きを立てて突進してくると、義姉妹は悲鳴を上げて逃げ惑い、継母はその場にへたり込んでしまった。


戦闘と呼べるものですらなかった。それは、一方的な蹂躙だった。グリズリーの爪が一閃するたびに、誰かが吹き飛ばされ、鋭い牙が鎧を紙のように引き裂く。


「ぎゃあああああっ!」


義父が腕を食いちぎられ、義姉妹は壁に叩きつけられてぐったりと動かなくなった。最後に残った継母は、血と涙でぐちゃぐちゃの顔を上げ、貴賓席のソフィアを見つけた。


「ソフィアァッ!助けなさい!この恩知らずがァッ!」


金切り声がコロシアムに響き渡る。


「お前を育ててやった恩を忘れたのか!さっさとその魔法でこいつを殺して、私を助けなさい!!」


観客の視線が、一斉にソフィアに注がれる。しかし、ソフィアの表情は変わらなかった。その青い瞳には、憎しみも、憐れみも、喜びも、何の感情も映っていなかった。ただ、遠い世界の出来事を見るように、静かに彼らを見つめているだけだった。


やがて、グリズリーの巨大な拳が、命乞いをする継母の頭上に振り下ろされた。


闘技場に、静寂が訪れる。血の海の中に、四つの体が虫けらのように転がっていた。誰もが、彼らは死んだと思った。


その時、ソフィアがすっと席を立った。アレクが合図を送ると、衛兵たちが道を開ける。彼女は純白のドレスの裾を揺らしながら、ゆっくりと階段を下り、闘技場の中央へと歩を進めた。


血と死の匂いが満ちるその場所で、彼女の存在はあまりにも清らかで、神々しかった。


ソフィアは、瀕死の家族の前に立つと、静かに目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。


すると、彼女の体から、眩いばかりの黄金の光が溢れ出した。それは太陽のように温かく、力強い光の奔流となって、闘技場全体を包み込んだ。観客は、そのあまりに幻想的で、奇跡的な光景に息を呑んだ。


光が、倒れた四人の体に降り注ぐ。千切れた腕が再生し、潰れた胸が元に戻り、おびただしい傷が瞬く間に塞がっていく。死の淵から、命が力強く引き戻されていく。


やがて光が収まった時、四人はかすり傷一つない状態で、ゆっくりと意識を取り戻した。


何が起こったのか分からず、呆然とする家族。そして、奇跡を目の当たりにした観客席から、まずはパラパラと、やがて割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。


継母が、自分を癒したのがソフィアだと気づき、何かを叫ぼうとした。しかし、ソフィアは彼女に一瞥もくれることなく、静かに踵を返した。もう、彼女の心に、この者たちが入り込む隙間は一片もなかった。


その瞬間、貴賓席のアレクが立ち上がり、その声をコロシアム中に響き渡らせた。


「見たか、諸君!この奇跡を成した乙女こそ、我がベルンシュタイン伯爵家が三男、アレクサンドルの妻となるソフィアである!」


高らかな宣言に、歓声はさらに大きくなった。横にいたベルンシュタイン伯爵は、驚きに目を見開いて息子を見た。そこにいるのは、放蕩息子のふりをしていた道化ではない。確固たる意志と、未来を見据える力強い瞳を持った、一人の支配者だった。息子の真の器量と、彼が選んだ女性の計り知れない価値を悟り、伯爵は満足げに深く頷いた。


アレクは闘技場へと降りていくと、万雷の拍手の中、ソフィアの手を優しく取った。


「ソフィア。君のおかげで、俺はこれから国を護っていこうと思うことができた」

「アレク様…」

「もう、様はいらない。アレクと呼んでくれ。そして、俺の妻になってほしい。生涯をかけて、君を愛し、守り抜くと誓う」


ソフィアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみや悔しさの涙ではない。生まれて初めて知った、幸福の涙だった。


「はい…アレク」


彼女は、最高の笑顔で頷いた。

アレクはソフィアを優しく引き寄せ、その唇に、自らの唇を重ねた。熱狂的な歓声が、まるで二人を祝福する音楽のように響き渡る。


虐げられた平民の娘と、仮面を被った伯爵家の三男。二つの孤独な魂は、運命の嵐を乗り越え、今、ようやく一つに結ばれた。その愛は、どんな魔法よりも強い輝きを放ち、永遠に続くであろう未来を、明るく照らし始めたのだった。

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― 新着の感想 ―
 面白かったのですが、ソフィアの生まれなども説明があると良いなあと思いまさた。  「義父」と「継母」ということは、どちらも血の繋がりはないわけだし。
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