画面越しの目
雨が降っていた。濡れたアスファルトの匂いに混ざって、どこか酸っぱいような、発酵したような臭いが鼻を突いた。
商店街の裏手。古びたビルの一階にある「リ・メモリー」という看板のかかったリサイクルショップは、ほとんど廃墟のような外観だった。ガラス戸には黄ばんだ広告が貼られ、店内は薄暗い。中に入った瞬間、かび臭さと古布の湿気に満ちた空気が肺にまとわりつく。
「……本当に、ここで買うのか?」
智也は隣で立ち尽くしていた彼女、菜穂の顔をちらと見る。
「安いテレビが欲しいって言ってたじゃん。ここの、遺品整理の品が多いって。掘り出し物あるかもって聞いたの」
奥の棚に、四十インチの液晶テレビが置いてあった。多少くすんではいるが、画面にひびはなく、電源ランプも点く。値札は「3,000円」と書かれていた。
「売れたら困るから、今日持って帰るね」と菜穂が言い、智也がそれを担いで帰った。
それが、あの夜のはじまりだった。
◆
アパートに戻り、テレビを部屋の隅に据えた。電源を入れると、モニターは真っ黒なまま、何も映らない。アンテナの接続がうまくいっていないのかと思い、ケーブルをいじったが、状況は変わらない。
「まあ、明日ケーブル買い直せばいいよ」と智也は言い、ビールを取りに台所へ行った。
戻ると、テレビがついていた。
モニターに、老人の顔が映っていた。
いや、「映っていた」というより、浮かんでいたと言ったほうが正確だった。
老人の顔はしわくちゃで、目は虚ろ。それでも、モニターのこちらをじっと見ている。
「……なに、これ」
智也はリモコンを手に取って、電源を切った。だが、画面は暗くなることなく、老人の顔はそこにあり続けた。
そのとき、菜穂が帰ってきた。
「どうしたの?」
「……いや、なんか、テレビ、映ってる」
「映ってる?うそ、地上波?」
菜穂が近づいたとき、老人の目がわずかに動いた――菜穂を追って。
その瞬間、部屋の空気が凍ったように感じた。モニター越しに、何か“気配”が流れ込んできた。
◆
翌朝、智也は目覚めて、台所の異臭に気づいた。焦げたような臭い。菜穂が料理でも失敗したのかと思ってキッチンへ向かうと、テレビが床に倒れていた。
コードが焦げて黒くなり、テレビの裏側に何かが書かれていた。
「ナオコが殺した」
震えながらそれを指でなぞると、煤のような感触が残った。
その日から、テレビの中の老人は毎晩現れた。ときに無言で、ときに口を動かして何かを言っている。
そして数日後、智也は知った。
――あのテレビは、孤独死した老人の部屋から出たものだったことを。
部屋には、誰にも看取られず餓死した男性の亡骸が、テレビの前で発見されたという。孤独死、異臭、そしてテレビが点いたまま――。
◆
菜穂は、日に日におかしくなっていった。
「ねえ、あの人、私のことを知ってる……“ナオコが殺した”って、言ってる……」
「ナオコ? 菜穂じゃなくて?」
「……源氏名が、直子だったの。大学のとき、キャバクラのバイト先で……あの老人、見たことある。客として来てた。酔ってて、私の体を触ってきて……私、突き飛ばしたの……。あの晩、凍えて倒れたって……警察には言ってない。ずっと、ずっと、忘れてたのに……」
テレビが勝手につき、老人の顔が笑った。
――歪んだ口元で、笑った。
◆
菜穂は姿を消した。
警察も、家族も、誰も行方を掴めなかった。智也の部屋には、あのテレビだけが残されていた。
そしてその夜、テレビに映る老人の顔の隣に、新しい顔が浮かび上がった。
目を見開き、口を塞がれたまま、涙を流す女の顔。
智也は思わず、電源を引き抜いた。
だが、暗闇の中――テレビはまだついていた。
老人と、女の顔と、その奥に、次に“入る”顔のスペースがぽっかりと空いていた。
まるで、それがあらかじめ決められていた順番であるかのように。