06
王宮での所用を済ませ、ヨアンはエレーヌのいる孤児院に向かった。
その途中、晴れていた空が曇ってきて、雨がぽつりぽつりと降り始めてきた。なぜか無性に胸騒ぎを覚え、ヨアンは孤児院へ急ぐように伝えた。
ふと今日は誰を彼女の護衛騎士につけたのか記憶を辿る。後で自分も合流するからと、若い騎士を一人、それから侍女を連れて行ったはずだ。他に、王都の外れとはいえ治安部隊が巡回しているため、安全面は問題なかった。
なのに、無意識の内に帯刀していた剣に触れていた。戦場ではこの勘の良さによって危機を回避してきたが、今はただ間違いであってくれと願ってしまう。
孤児院に着くなり、ヨアンは勢いよく外へ飛び出していた。
「当主様、何か孤児院の様子が……」
孤児院の異様な雰囲気を感じ取ったのは、ヨアンに同行した騎士も同じだった。雨が降っているにも関わらず、子供たちが次から次に外へ飛び出してきて、教員が安全な場所へ誘導していた。
彼らの顔は青ざめ、子供たちは自分の口を押えて泣き出すのを堪えていた。
彼らの元へ近づくと、ヨアンに気づいた子供の一人が「侯爵様だ!」と指差して声を上げた。その声に皆の視線がヨアンに向けられる。すると、若い女性教員が「ああ、神様……っ」と安堵の息をついて倒れ込みそうになった。
「何があったんだ、私の妻は!?」
「お、斧を持った男がいきなり入ってきて、侯爵夫人のいる院長室に……!」
嫌な予感が当たってしまった。
ヨアンは舌打ちして、一瞬だけ雨の降る天を仰いだ。
エレーヌは幸せとは程遠い人生を送ってきた。それでもまだ幸せになるための試練が必要なのか。彼女が一体何をしたんだと髪を搔き回し、一旦冷静になるため深呼吸をした。
「院長室には私が行く! お前は子供たちを守りつつ、他に逃げ遅れている子がいないか確認しろ。安全が確保でき次第、治安部隊に応援を要請しろ!」
「承知しました。当主様、どうかお気をつけて」
部下に見送られながら、ヨアンは建物の中に入った。
中は静まり返り、雨の音しか聞こえてこない。注意深く院長室に向かって進んでいくと、激しい物音が聞こえた。次に男の怒声が聞こえてきて、扉の前にたどり着けばそこは血の海になっていた。
「くそっ、なんでこんなことに……!」
エレーヌにつけた護衛騎士と侍女が血まみれになって倒れていた。二人ともすでに息絶えており、激しい怒りがこみ上げてくる。すでに二人の部下を失ったのだ。犯人はすでに人を殺しており、何をするか分からない。
ヨアンは鞘から剣を抜き、扉を背に中の様子を窺った。入るタイミングを誤れば、犯人を刺激してエレーヌたちに被害が及ぶからだ。
しかし、犯人である男はすでにエレーヌの首を持ち上げ、まさに今手にかけようとしていた。一瞬の躊躇も許されなかった。
ヨアンは床を蹴って、一気に男との距離を詰めた。そして、怒声と共に振り下ろした剣で、男の腕を斬り下ろしていた。
一瞬の出来事に、男は痛みより驚きのほうが勝っていたようだ。だが、床に自身の腕が転がると、身に起きた出来事に絶叫した。
「ぎゃああああーーーっ!」
両腕を失ってバランスを崩した男は、自らの血に濡れた床でのたうち回った。その横では、ヨアンが力なく倒れ込むエレーヌを抱きかかえた。
「エレーヌ、エレーヌ……!」
助けたエレーヌは真っ青な顔をして、ヨアンの呼びかけにも応じなかった。このまま彼女を失うことになったらと思うと血の気が引いていく。
「エレーヌ、頼むから目を開けてくれ! エレーヌ!」
必死で彼女を呼び続けると、支えた体がわずかに動き、エレーヌは瞼を開けた。覗き込むように彼女の顔を確認すると、虚ろな眼でヨアンを見上げてきた。
「……旦那、さま……私、より……腹の子を」
「何を言っているんだ、君だって無事でなければ意味がない! 大丈夫だ、君も腹の子も助かる! だから……っ」
私を一人にしないでくれ、と声にならない叫びを、エレーヌを抱きしめることで伝える。
──なぜ、彼女だけがこんな目に遭わなければいけないのか。
だが、ここで考えている時間はなかった。
一刻の猶予もない。ヨアンはエレーヌを抱き上げた。
傍では、腕を斬り下ろされた男が天井に向かって「エラ……オレの、エラ」とつぶやいていた。流れる血の量から放っておいても死ぬだろう。本当は今すぐ息の根を止めてやりたかったが、エレーヌのことを考えると耐えるしかなかった。
「……さま、私、実は……」
「今すぐ医者の元へ連れて行くから、助かることだけ考えるんだ、エレーヌ!」
「私、本当は……記憶を、失っては、なかったんです……。だから嘘を、つきました」
ヨアンはエレーヌを抱え、廊下を走って外へ出た。外では知らせを受けた治安部隊が、孤児院に駆け込んでくるところだった。
「犯人は中だ! 妻を医者の元へ連れていく必要がある、後は頼んだぞ!」
「畏まりました!」
ヨアンは兵士に伝え、乗ってきた馬車の御者に「屋敷……いや、救護室のある修道院に至急向かってくれ!」と指示した。ヨアンたちを乗せた馬車はすぐに走り出し、侯爵邸よりも近い修道院へ向かった。
馬車の中では、エレーヌが最後の力を振り絞ってヨアンの頬に触れてきた。
「……私は、旦那様に嘘をついた罰を、受けなければいけません」
「やめてくれ、エレーヌ! 君が嘘をついていようが、私を騙していようが、私はそれを受け入れるつもりだった! 私には君が必要なんだ……一度目の結婚で、君を引き留めるべきだったのに……っ」
「旦那様……愛して、います……」
ヨアンは冷たくなっていくエレーヌの手を握り締め、指先に口づけた。彼女の首元には、忌々しいほどくっきり残った指の痕があった。
──エレーヌが嘘をついたから?
それは、これほどの罰を受けるほど悪いことだったのか。騙された自分は、彼女の嘘を受け入れているのに。
「エレーヌ……っ、私も、君を……」
「……どうか、私たちの、子を」
「分かっている、分かっているから、エレーヌ……エレーヌ──」
握り締めていたエレーヌの手が、ヨアンの指から零れ落ちる。浅く息をしていた彼女の呼吸が完全に止まっていた。
今朝まで一緒に笑い合っていたのに。
もっと早く駆けつけていたら。
屋敷に引き留めていたら……彼女を、こんな目に遭わせずに済んだのに。
ヨアンはエレーヌの体を抱きしめて慟哭した。
外では本格的に降り出した雨が馬車の屋根や窓に激しく打ち付け、悲痛な叫びは雨の音にかき消された。
もう一度戻ってやり直せるなら、どんなことも厭わない。
自分にはエレーヌが必要だ。
しかし、本当に罰を受けなければいけなかったのは自分の方だと気づいたのは、もう少し後のことだった……。
★★
離れの館は少年にとって最愛の人に会える場所だった。
使用人たちの目を盗んで本館を抜け出し、鮮やかな花の柵で囲まれた館に忍び込む。中庭に出ると、赤ん坊を抱えた美しい女神像が出迎えてくれた。
柵の中に閉じ込められた空間は、時間が止まったような錯覚に陥る。まるで今世から切り離されたような離れは、最愛の人のために造られた場所だった。
「エレーヌ様、こんにちは!」
少年はベンチに座る一人の女性を見つけて駆け出していた。
肌より白くなってしまった髪に、自分と同じ桃色の瞳。黒髪の少年が女性のそばに寄ると、二人の対照的な髪色がより一層際立った。
「まあ、坊や。ここにはどうやって? ご両親が心配していないかしら」
「大丈夫です! エレーヌ様のところへ行ってくると伝えてきました」
「そう。それなら一緒にお茶でもしましょうか」
少年が無邪気な笑顔を見せると、女性は優しく微笑んでくれた。エレーヌという、少年にとって実の母親である。けれど、彼女は少年が自分の子供だということは分からない。
──もし伝えたとしても、明日には忘れてしまうから。
エレーヌはベンチから立ち上がると少年に手を差し出してきた。
僕は貴女の子供です、と叫んだこともある。泣きじゃくり、母親を母と呼べない苛立ちや怒りをぶつけたこともある。そして、翌日には今日あった出来事はすべて忘れてしまう彼女に、激しい失望と喪失感を覚えたものだ。
ただ、そういう病気なんだと教えられ、最初は理解できなかったが、日を追うごとに受け入れられるようになった。彼女が、実の母親であることに変わりないからだ。
腹にいる自分を守るために戦ってくれた母親を、心から嫌うことはできなかった。
「あら、旦那様だわ」
「……エレーヌ様、お茶はまた今度にします! それじゃ、明日も来ますね!」
中庭に続く扉を開けて外に出てきたのは、少年の父親だった。
少年は叱られると思って、慌てて踵を返して走り出していた。今日は短い出会いになってしまったが、明日はもっと長くいられるように願う。
軽く振り返れば、エレーヌが少年の父親に向かって嬉しそうな笑顔を浮かべていた。嫉妬してしまいそうなほど幸せな表情に、少年は溢れそうになった涙を拭い、中庭を抜けて現実の世界へ戻った。
「まったく、あいつは。行きたいときは私が連れていくと言ったのに」
「旦那様と同じ黒髪をされていましたから、血縁の方でしょうか。とても不思議な子で、他人には思えなかったのです」
「……そうか。君は覚えてないだろうが、あの子は君が命をかけて守ってくれた子なんだ」
少年の父親であるヨアンが腕を差し出すと、エレーヌが気恥ずかしそうに手を乗せてきた。
エスコートに慣れない仕草が愛らしく映る一方、言い様のない虚しさが襲ってくる。彼女だけがあの頃のまま、時が止まってしまっている。
「そんな大事なことを忘れてしまうなんて。明日は一緒にお茶を飲みながら話してみますね」
そう言ってエレーヌは無邪気に笑った。
──彼女は今日まだ、何も知らされていない。
八年前のこと。孤児院を襲撃した男によって殺されそうになり、彼女は瀕死の状態に陥った。
ヨアンはエレーヌを抱えて近くの修道院に駆け込み、彼女と赤ん坊を助けてくれと懇願した。一刻を争う状況に、修道士とシスターはすぐにエレーヌの処置に入ってくれたが、彼女はしばらく死の淵をさ迷うことになった。
腹の子は母体を切開して取り出され、未熟児として産まれた。ただ、強さの象徴にもなっている黒髪を持った息子は、父親の心配をよそに元気な産声を上げて、すくすく育ってくれた。
だが、辛うじて命を繋ぎ留めたエレーヌは、半月ほどの眠りから目覚めた時、多くのことを忘れていた。
一時的なものだと思ったが、彼女は今度こそ記憶を失ってしまっていた。
覚えていたのは、やはり最初の結婚から離婚する二ヶ月前のことだった。しかし、問題はそれだけではなかった。
エレーヌの記憶は、たった一日しかもたないことが分かった。
眠りについて翌朝目覚めれば、昨日あったことはすべて忘れてしまっていた。そして、またヨアンと別れる二ヶ月前の日に戻ってしまうのだ。
ヨアンは女神像の前で立ち止まり、エレーヌの前に立った。
「今日は君に伝えたいことがあるんだ」
八年も経てば以前のような姿を保つことはできない。だが、できる限りエレーヌの記憶からかけ離れた姿にならないように、肉体の維持はもちろん、恰好はこれまで以上に気を遣うようになった。
記憶していられるのは、たった一日。
当然、エレーヌに真実を伝えたことはある。繰り返し、何度も。もしかしたら、翌日には治っているかもしれないという期待も込めて。
自分たちは再び夫婦になって愛し合い、子供を授かって幸せな家庭を築いていると。すでに数年が経っており、君の記憶は一日で消えてしまうと。
すると、彼女の反応はその日によって異なった。
泣いて喜ぶこともあれば、忘れてしまった自分が許せず自ら命を絶とうとしたこともあれば、発狂することもあった。だが、それも翌日になれば、何も覚えていなかった。
それでも精神的に追い詰められたせいか、薄水色の髪は色が抜けて真っ白になってしまった。
以来、エレーヌに真実を伝える時は、より慎重に行うようになった。離れの館を造ったのは、彼女を守るためでもあり、他の者たちに被害が及ばないようにするためだった。とくに息子には。
ヨアンは緊張と不安な表情を浮かべるエレーヌを前に、スッと片膝をついて彼女の手を取った。
自分は一度しかない人生で、分岐点となる選択肢を誤ってしまったのだ。
「──愛しています、エレーヌ。どうか、私と結婚してくれませんか?」
「旦那、さま……」
一度目の結婚で彼女に告白していれば、引き留めていれば、自分たちの結末はまた違っただろう。
不幸な人生を送ってきたエレーヌを幸せにできるのは自分しかいなかったのに、己が不甲斐なかったせいで神の怒りに触れ、罰を受けることになった。
今は、あの日できなかったプロポーズを毎日捧げている。
贖罪のように。
明日にはすべて忘れてしまう妻へ。
彼女だけが囚われている偽りの結婚に終わりを告げられるように、と──。
【END】
読んでくださり、ありがとうございました。