05
★ ★
戦火に包まれた都市や町村を通り過ぎるたび、その国の民の死を目の当たりにしてきた。
国は違えど、武器を持たない者たちが犠牲になるのは耐えがたいものがある。道端で息絶えた乳児を見つけた時、両親に置き去りにされたのか、それとも親が先だったのか……弔ってやることもできず、来世では幸せな国で産まれることを祈ることしかできなかった。
──なぜそんなことを思い出したのか。
ヨアンは眠気が残る瞼を開いて、額にじっとりと滲んだ汗をぬぐった。近頃は夢など見なかったのに、今日は過去の出来事がそのまま夢となって表れた。
あの時の祈りが、あまりに切実だったからか。
それとも……。
ヨアンはふと横を向いて、自分以外の温もりを感じて安堵した。ここが現実で間違いないことを確認できたからだ。
「ん……」
「エレーヌ、私の愛しい人」
小さな寝息を立てて眠りについていたのは、妻のエレーヌだった。
彼女と偶然出会って契約結婚を提案し、夫婦となって同じ屋根の下で暮らし、契約が終わったと同時に離婚したが、再会する機会が巡ってきて今に至るまで、随分と長い時間がかかってしまった。
離婚が撤回されて再びエレーヌと夫婦となったヨアンは、彼女の心を手に入れるため努力した。
契約で夫になったときは、彼女に花すら贈っていなかったのだ。品格を保つためのドレスや装飾品は執事やメイド長に任せっきりで、他に彼女が望んだ物はできる限り手に入れるように伝えていただけだった。
二人で過ごす時間は食事の時ぐらいで、一緒に買い物や旅行をすることもなかった。
いつか終わりを迎える関係だと、自ら言い聞かせていたのだ。そうすることで気が楽になっていた。エレーヌが「自分には引き留めるだけの魅力がない」と思い込んでいたのは、そのせいだ。夫として、最低だった。
こうしてやり直すチャンスが与えられたのは奇跡に近い。おかげで、エレーヌの頬に触れ、唇を重ね、彼女の温もりを直に確かめることができた。
ヨアンは深く寝入ったエレーヌの体を抱き寄せた。
「おっと、君もいたんだったな」
もっと密着したかったが、腹部に別の温もりを感じてヨアンはそれ以上近づくのをやめた。
エレーヌは今、妊娠八ヶ月だ。あと二ヶ月もすれば赤子が産まれる時期に入り、華奢な彼女が腹の重みで転がっていってしまわないか心配になる。……本人は笑っていたが。
「いいか、お母様に負担をかけないように産まれてくるんだぞ」
そう言ってヨアンはエレーヌの膨らんだ腹を撫でた。すると、父親の命令が聞こえていたのか、返事をするように赤子が中から蹴っ飛ばしてきた。うちの子は大物になるかもしれない──。
ヨアンたちの離婚が取り消される前、国ではひとつの家門が没落した。──マルシャン男爵家である。
浪費やギャンブル、投資や事業の失敗により膨大な借金を抱え、後ろ盾になっていたゼルゲ侯爵家は、エレーヌの離婚により縁が切れたことで首が回らなくなったようだ。
男爵夫妻は貴族の地位を剥奪されたことで自ら命を絶ち、長男は逃亡するもギャンブル仲間に見つかって嬲り殺された。
──と、それが世間一般に公表されている内容だ。
そこにゼルゲ侯爵家が関わっていたとしても、陰謀を暴こうとする愚か者はいなかった。しかし、長女の行方だけは今も分かっていない。
治安部隊が、エレーヌに暴行を加えた容疑で長女を捕縛する予定だったが、一年近く経ってもまだ見つかっていなかった。死体すら。
まさか、ゼルゲ侯爵家の地下牢で激しい拷問を受けて息絶えているなど考えもしないだろう。死ぬ直前に「みんな地獄に落ちろおおおお!」と、絶叫した言葉だけは脳裏に焼き付いて離れなかったが、それもエレーヌと過ごす内に薄れていった。
一方、エレーヌが握り締めていた手紙の主であるルーベンという男は、部下を遣わして二度と彼女に接触しないように警告した。
彼女が記憶を失っている以上、それが最善だと思ったのだ。
しかし、手紙に書かれていた待ち合わせの日時に赴き、一日中待ったが誰も来なかったと報告を受けた。
エレーヌが現れなかったから姿を見せなかったのかと思ったが、その時すでにヨアンとエレーヌの関係が話題になっており、ルーベンは彼女が来られる状況にないことを知って諦めたのかもしれない。
だが、これで自分たちが本物の夫婦として幸せになるために、邪魔になる障害は取り除けたはずだ。
「エレーヌ、今日も孤児院に行くのか? そろそろ屋敷でゆっくりしてはどうだ?」
「今日の訪問を最後にする予定です。しばらく外出はできなくなりますから、私がお世話になった孤児院へ挨拶してきます」
「……そうか。では、私も王宮の用事が終わったら向かうことにしよう」
夫婦となって一緒に眠るようになってから、以前より遅めになった朝食の席。お互いに今日の予定を確認しながら話していると、執事やメイドが笑うのを堪えていた。
なんと巷では、妻にベタ惚れのゼルゲ侯爵が、過保護が行き過ぎていつか妻を監禁してしまうのではないかと言われているらしい。心配性なのは認めるが、彼女の自由を奪うことはしたくない。
「分かりました、お待ちしていますね」
ただ本音を言えば、自分だけが知っている場所にエレーヌを閉じ込めて、自分だけが彼女を愛せるようにしたい。けれど、そんなことをすれば彼女からの愛は失われるだろう。
ヨアンは言い様のない感情をぐっと堪え、エレーヌの手を取って手の甲に口づけた。
だが、この時にエレーヌを引き留めていれば、自分が一緒についていれば、あんなことにはならなかったと激しく後悔することになるなんて思いもしなかった……。
ゼルゲ侯爵家の紋章がついた馬車が王都外れにある孤児院に到着すると、出迎えてくれた子供たちが歓声を上げた。
月に一度、エレーヌは幼少期を過ごした孤児院へ訪れていた。定期的にやってくるエレーヌに、最初は警戒していた子供たちも次第に心を開いてくれるようになった。
妊娠してから来られる回数は減ってしまったが、それでも日に日に膨らんでくるお腹に子供たちは興味津々で、赤ちゃんの誕生を今かと楽しみにしてくれていた。
「いらっしゃい、エレーヌ」
「こんにちは、院長先生」
お世話になっていた頃の院長はすでに引退し、代わりに院長の娘が引き継いだ。彼女もまたエレーヌがいたところから孤児院で働いていた教員で、面倒見の良い女性だった。
院長はエレーヌを応接間に通し、白湯を出してくれた。
「エレーヌが来ることを伝えると、子供たちが何日もかけて贈り物を準備するのよ。あの子たちの喜ぶ姿が見られて、私も嬉しいわ。それから、貴女のおかげで孤児院に関心を持つ方が増えて、運営も随分楽になったわ」
「それは良かったです。養子縁組を希望する家庭の家族構成や環境もしっかり調べてくださって、子供たちも安心して受け入れることができるようになりましたね」
家族を持たない孤児にとって、新しい家族は希望でなければならない。孤児院にいたほうが良かったと思えるような家庭に引き取られては意味がないのだ。
ただ、孤児院はこれまで引き取りたいと申し出てきた家族や、家庭環境まで詳しく調べることはなかった。相手が貴族であれば尚更、孤児が貴族の養子になれるのだからと断ることはなかった。
けれど、どこから漏れたのかマルシャン男爵家が没落すると、エレーヌが男爵家で受けてきた非道の数々が明るみになり、国中へ広く知れ渡ることになった。その甲斐あって、多くの者たちの同情を得ることができ、エレーヌはこれまで以上に出生に関して陰口を叩かれることはなくなった。
同時に、孤児を引き取った家は周りの目が気になり、養子を本当の家族として大切に扱うようになったという。また孤児院でも安心して子供を送り出せるように、養子縁組に対して慎重な姿勢を取るようになった。
「……実を言えば、貴女が侯爵様と離婚したと知った時、てっきりルーベンのことが忘れられず一緒になると思ったのよ」
「ルーベンと、ですか」
「貴女が離婚してからルーベンが何度か孤児院を訪れてきて、彼に頼まれた手紙を渡したわね。でも、何か焦っているようにも思えて、少し心配だったのよ。直後に、貴女が事故に遇ったと聞いて後悔したわ」
「院長、その……ルーベンとは、孤児院を出てから一度も会っていません」
他の男性との仲を疑われることを恐れ、エレーヌははっきり言葉にした。
院長は慌てて「そんなつもりで言ったじゃないわ」と謝ってきたが、なぜ今になって彼の名前を出してきたのか気になった。
「幸せそうな貴女を見て、正しい選択をしたと思っているわ」
「……はい、私もそう思います」
これまでも院長と話す機会はいくらでもあった。けれど、彼女はエレーヌの話はしても、ルーベンの話をしたことは一度もなかった。気を遣ってくれているのだと思った。
なのに、なぜ今になって彼の名を口にしたのか。
ルーベンの話をした途端、急に落ち着きをなくした院長に、エレーヌは嫌な予感がした。
その時、廊下のほうが騒がしくなり、座っていたソファーから立ち上がった。
「──……きゃ、あああ!」
「奥様、お逃げ……ぎゃああ!」
突然、廊下で甲高い悲鳴が響き渡ると、応接間の扉が開かれ、肩から大量の血を流した護衛騎士が息絶える前に危険を知らせてくれた。騎士の後ろでは一緒についてきた侍女が倒れていた。
エレーヌは立ち上がって震えあがる院長と抱き合うと、さらに扉が開いて一人の男が入ってきた。
「ああ、エラ……やっと会えたな」
片手に斧を持った男は、にたりと笑った。
筋肉質の大柄な男で、色あせた服から出た肌は日に焼けて赤黒く、灰をまぶしたような髪と茶色の瞳に、昔の面影が重なる。
けれど、斧を投げ捨てた手とは違い、もう片方の手がなかった。正確には、肘から先がなかったのである。
「ルーベン……あなた一体、何が」
「はっ、それをお前が言うのか。オレをこんな体にしておいて」
一歩ずつ近づいてくるルーベンに、エレーヌは息を呑んだ。
逃げ道を探そうにも後ろは窓のない壁で、正面を突破するしかないようだ。
「何を言っているの、私は知らないわ。それより院長先生は関係ないわ、彼女は逃がしてあげて」
「ああ、用があるのはお前だけだ」
ルーベンが近くまで来ると、鼻をつく体臭とお酒の臭いがした。
孤児院にいた時は見た目と違って身なりを気にする子供だったのに。小綺麗にしていればお金持ちの家族に引き取ってもらえると、あの時は誰もがそう信じていたからだ。
「いけないわ、エレーヌ! 私も残って……っ」
「なに言ってんだ、院長。エラが来ることを教えてくれたのはあんただろ」
「──っ、そうしなければ子供たちの命を奪うと脅迫されたからよ! 今からでも遅くないわ、エラは身重なのよ。無茶なことは……っ」
しかし、ルーベンは院長の腕をつかむと、彼女を勢いよく投げ飛ばした。
エレーヌが悲鳴を上げる中、院長はソファーにぶつかってそのまま気絶してしまった。院長の元へ駆け寄ろうとしたが、それより早くルーベンに捕まってしまった。
「イヤ、放して!」
「エラに渡した手紙に書いた待ち合わせ場所に、お前の姉だという女が現れたんだ。そいつは金で雇ったゴロツキを何人も連れて、こう言ってきた。エレーヌに頼まれて、二度と近づけないようにしてほしいってな。おかげでこの有り様だ」
「し、知らないわ! 私がそんなことするわけないのは、貴方が一番よく知っているはずよ!」
髪を鷲掴みされ、必死でルーベンの手を引きはがそうとしたが無駄な抵抗だった。その間に床に叩きつけられて倒れ込んだ。
「まあ、オレも人のこと言えねぇな。仕事でしくじって養父母の家からも追い出されちまって、その時ちょうどお前が離婚したって聞いた。貴族の旦那と離婚したんだ、たんまり金を抱え込んでいると思ってな。それに、心優しいエラのことだからオレとの約束を覚えてくれていると思ったんだ」
「……私を想ってくれていたわけじゃないのね」
床を這って逃げようとしたが、ルーベンに無理やり仰向けにされ、強い力で床に押し付けられる。エレーヌは痛みに眉根を寄せたが、うめき声ひとつ上げなかった。
「あの頃のままじゃ生き抜くこともできなかっただろ……オレも、お前も」
「私は少なくとも、自由になったら貴方と一緒に幸せになれると信じていたわ」
「だがお前は、オレの前に現れなかった! オレより金もあって、地位のある男を選んだんだ!」
長いこと会わない内に、将来を誓い合った相手はすっかり変わってしまっていた。
けれど、それはエレーヌも同じで、どちらも純粋な子供のままではいられなかったのだ。あの環境下で生きるためには。
ルーベンが孤児院から引き取られてからどんな生活を送ってきたのかは分からないが、今の彼を見れば良いところではなかったことが分かる。
「ルーベン、私は……!」
「うるさい! こうなった以上、お前が仕向けたかどうかなんてもう関係ない。オレがこんな目に遭ったっていうのに、幸せにしてるお前が許せなかった。だから、エラ──オレと一緒に死んでくれ」
「────」
大人になって自由になったら一緒になろうと言ってくれた心優しいルーベンは、正気とは思えない言葉を吐いて、腹部に跨って首を絞めてきた。
片手だけでも大きな指が首元に食い込み、息が詰まった。
もし今も一人だけだったら、もし今もどん底を味わっていたなら、それが自分の運命だと思って受け入れていたかもしれない。ルーベンが同じように死んでくれるとは限らないのに。
けれど、ルーベンに押しつぶされそうな腹には、ヨアンとの子がいた。それから、自分の帰りを笑顔で出迎えてくれる侯爵家の人たちの温かさを知ってしまった。
大人になってルーベンが変わってしまったように、エレーヌもまた男爵家で虐げられても我慢してきた少女ではなくなっていた。
「……か、はっ! わた、し……は、まだ、死ねない……っ」
首を絞められ意識が遠のいていく中、エレーヌは必死で近くに転がっていた斧の柄を掴んでいた。
その後は無我夢中だった。
ルーベンに向かって斧を振り下ろすと、刃先が彼の顔をかすめた。
「──っ、ぎゃ、ああっ!」
ルーベンは反射的に斬られた顔を手で押さえた。その拍子に彼の手が首から離れ、体をひねって抜け出すことに成功した。
本当は誰かに助けを求めたかった。
だが、ここは孤児院だ。大声を出して子供が来てしまってはいけない。せめて誰かが異変に気づいて助けを呼んでくれていたらと思ったが、廊下は驚くほど静かだった。
──誰か、助けて……。
せめて腹の子だけでも助けてほしい。
エレーヌは我が子を守るように腹を抱えて逃げ出そうとしたが、彼女の願いも空しく後ろから伸びてきた手に捕まって突き飛ばされた。
「エラあぁぁぁ! お前だって卑しい出のくせに、幸せになれると思っているのかぁ!」
全身を壁にぶつけた衝撃で腹部に痛みが走った。エレーヌは腹を押さえて呻いた。その場に座り込むと、目を血走らせたルーベンに首を持ち上げられた。
「ぐ、ぅ……や、め……」
「お前を分かってやれるのはオレだけだ! 生まれ変わって今度こそ一緒になろう、エラ!」
息苦しさから首を締め上げてくるルーベンの手を叩き、爪で引っ搔いてもその力が弱まることはなかった。もがけばもがくほど自分の体重で苦しさ増していき、開いた口から唾液が溢れた。
見えていた視界も徐々にかすんでいき、最後に浮かんだのは赤ん坊のことと、自分のしてしまった過ちに対する後悔だった。
──記憶を失っているフリなんてしてしまったから……罰があたったんだわ。
一体どこで選択を間違ってしまったのか。
最初から契約結婚など、しなければよかったのだろうか。
ただ、自分も幸せになりたいと願っただけなのに。
目の前が涙でかすんで見えなくなり、最後は暗転してエレーヌの体がだらんと下がった。
瞬間、エレーヌとルーベンの間に血しぶきが上がった。
「──貴様あぁぁぁ! 私の妻に何をしているっ!」